第10話 思い出の味と涙
私がサンクチュアリに来てから早くもひと月が経とうとしていた。
すっかりこの楽園での生活にも慣れ、私は毎日新しいお菓子の創作に打ち込んでいる。
キッチンに立つ時間は私にとって何よりの癒やしだった。
「ふぅ、こんなものかな」
この日、私が作っていたのは何の変哲もない素朴なバターケーキだった。
特別な果物も珍しい木の実も使っていない。小麦粉と卵、そして神獣のミルクから作ったバターだけで焼き上げた、ごくシンプルな一品だ。
なぜこんなものを作っていたかというと、ふとある人物のことを思い出したからだった。
それは王宮で唯一、私に優しくしてくれた侍女のことだ。
彼女は私が地味な力しか持たないことを気に病んでいた時、いつもこう言って励ましてくれた。
「リリア様の力は太陽の光というより、月明かりのよう。静かで穏やかで、でも確かに人の心を照らしてくださいます」
そして彼女はいつも、素朴なバターケーキを「これが一番美味しいです」と幸せそうに食べていたのだ。
(彼女は今、どうしているだろうか……)
追放されるあの日、最後に私のポケットへ小麦粉の袋を忍ばせてくれたのも彼女だったに違いない。
私のことを案じて心を痛めていなければいいのだけれど。
そんなことを考えていたら、無性にこのケーキが食べたくなったのだ。
◇ ◇ ◇
焼きあがったバターケーキを切り分けて、エレノアさんとフィオナさんのお茶会に持っていく。
「おやリリアちゃん。今日はまたずいぶんと素朴な菓子だな」
「ええ。少し昔のことを思い出しまして」
私がそう言うとエレノアさんは何かを察したように、私の隣にそっと腰掛けた。
フィオナさんも心配そうな顔でこちらを見ている。
二人は私が時折、遠い目をして物思いに耽る理由に薄々気づいているのだろう。
「……無理に忘れろとは言わんさ。辛い記憶ってのは無理に蓋をしようとすると、かえって心を蝕むもんだからな」
エレノアさんはそう言ってバターケーキを一口食べた。
「……うまいな。なんだか懐かしい味がする」
「本当ですね。とても優しくて温かい味がします」
フィオナさんも目を細めてケーキを味わっている。
「このケーキにはリリアの『感謝』の気持ちが込められている。……あなたにとって、とても大切な人の思い出なのでしょう」
フィオナさんの言葉に私は驚いて顔を上げた。
彼女にはお菓子に込められた想いまでわかるというのか。
途端に堪えていた感情が堰を切ったように溢れ出してきた。
ぽろり、と一粒の涙がテーブルの上に落ちる。
一度流れ出すともう止まらなかった。
「うっ……うぅっ……」
私は声を殺して泣いた。
追放された悲しみではない。裏切られた怒りでもない。
ただ、たった一人私を信じてくれた侍女への申し訳なさと、会えない寂しさが今になって込み上げてきたのだ。
そんな私の背中をエレノアさんの大きな手が優しく、力強く撫でてくれた。
「よしよし。泣きたい時は泣けるだけ泣いちまえ。ここにはあんたを笑うやつなんて一人もいやしねえよ」
「ええ、リリア。悲しみは流してしまえばいいのです。そうすればその心には、また新しい幸せが宿る場所ができますから」
フィオナさんもそっと私の手に自分の手を重ねてくれる。
二人の温かさに包まれて、私は子供のように泣きじゃくった。
王宮にいた頃は決して流せなかった涙。
この涙を流し切ったらきっと私は、本当の意味で過去と決別できるだろう。
バターケーキの甘い香りが私の涙を優しく包み込んでくれる。
そうだ。もう私は一人じゃない。
ここには私の全てを受け止めてくれる、最強で最高に優しい家族がいるのだから。
泣き腫らした顔を上げると、二人が母親のような優しい笑顔で私を見守っていた。
私はようやく心からの笑顔で「ありがとう」と、そう呟いた。




