侯爵家を救っただけなのに、なぜか破滅したのは私のせいらしい
「貴様を愛するつもりはない」
結婚式を終えたその夜、寝室でエドガー・ラザフォード侯爵は、そう冷たく告げた。
ベッドの端に腰かけ、婚礼衣装のままうなだれていた私は、その言葉を聞いて小さく目を閉じる。初夜の支度をして待っていた私に向けられたのは、深いため息と、軽蔑のこもった視線だった。
「俺は『黒鷲の守り手』の名声が欲しかっただけだ」
「……承知しました」
私は静かに立ち上がり、スカートを直してから、エドガーに深々と頭を下げた。震えそうになる手を必死に抑え、足取りを乱さずに寝室を出て行く。
彼が見ていたのは、私自身ではない。
黒髪黒目の地味な令嬢、リヴィエル・グランチェスターではなく、グランチェスター家に伝わる守護の血脈、その後ろ盾だけだった。
分かっていた。それでも、婚姻を受け入れたのは、私なりの覚悟だった。
──あれから五年。
エドガー・ラザフォード侯爵家は、目覚ましい発展を遂げた。
執務室で帳簿を眺めながら、エドガーは満足げに口元を緩めた。
「やはり、俺の目に狂いはなかったな」
そう呟き、彼が思い浮かべるのは、当然、私ではない。
地味な黒髪の女、冴えない顔、控えめな態度。
私、リヴィエル・ラザフォードだ。
侯爵家といえど、彼の家は結婚前、破産寸前だった。父親が散財に明け暮れ、領地の税収は減り、使用人たちは次々に離れていった。
それを救ったのが、グランチェスター家の資金と、人脈、そして……私自身だった。
それでも、エドガーの中で私は「ただの契約」でしかなかった。
「リヴィエル、そろそろ顔を出せ」
久しぶりに同席した夕食の席で、彼が珍しく声をかけてきた。
私はナプキンを畳み、静かに彼に向き直る。
「はい、旦那様」
「近頃、領主会議で無駄に目立ちすぎている。控えろ」
「……かしこまりました」
小さくうなずくと、エドガーはすぐに興味を失ったように視線をそらした。
彼の隣には、美しい令嬢たちの噂話が絶えない、社交界の花、セリーヌ・バーナード嬢の名が挙がりはじめていた。
私は知っている。
彼が本当に愛しているのは、私ではない。
──そして、運命の十年目。
「リヴィエル、離婚しよう」
エドガーは、そう告げながら、一通の書類を差し出してきた。
私の隣には、金髪に碧眼、豊かな肢体を持つ、あのセリーヌ嬢がぴったりと寄り添っていた。
「彼女こそ、俺の真の伴侶だ」
「……そうですか」
冷静に答えた私に、二人はほっと胸を撫で下ろす仕草を見せる。
「わかってくれて助かるよ。君には十分な持参金も与えたし、不満はないだろう?」
「もちろんです。離婚手続きについては、後日、弁護士からご連絡いたします」
私は礼儀正しく一礼し、その場を立ち去った。
扉の向こうに控えていた執事のアルバートが、深い憂いを浮かべたまま頭を下げた。
「奥様……」
「いいえ、もう『元奥様』でしょう?」
微笑んで、私は荷物をまとめ、ラザフォード邸を後にした。
全てが、想定通りだった。
──けれど、彼らは知らなかった。
私、リヴィエル・グランチェスターがただの地味な令嬢ではないことを。
そして、侯爵家を救っていたのが、エドガー自身ではなく、私だったことを。
これが、ラザフォード侯爵家の破滅の、始まりだった。
実家のグランチェスター邸に戻った私は、父と母に迎えられた。
「リヴィエル、おかえり」
父、ヴィンセント・グランチェスター男爵は、やわらかい笑みを浮かべていた。
侯爵家に嫁ぐ前と変わらない、暖かい家族のぬくもりが、胸に染みた。
「ただいま戻りました、父上、母上」
丁寧に一礼する私に、母は目元を赤くして「本当に、よく頑張ったわね」と小さく囁いた。
応接間に通された私は、すぐに状況を把握した。
机の上には、すでに何通もの手紙が積まれていた。
どれもこれも、ラザフォード家と取引していた商家や領主たちからのものだ。
「……彼ら、もう動き出しているのですね」
「そうだ。ラザフォード家から離れたいと、皆が申し出てきた」
父が短く答える。
当然だ。
エドガーは、グランチェスター家との繋がりによってかろうじて信用を保っていた。
私との離婚を宣言した時点で、その後ろ盾を失ったのだ。
私は一通一通、手紙に目を通す。
そして、落ち着いた筆跡で指示を書き添えていった。
「引き取りましょう。条件はこの通りで」
「リヴィエル……本当にいいのか?」
父は心配そうに私を見る。
「ええ、すべては計画通りです」
結婚当初から、私はエドガーに期待していなかった。
彼の領地経営は素人同然。
帳簿も読めず、家臣の意見を聞く耳も持たない。
だから、私が裏で支えた。
農作物の新たな輸出ルートを開拓し、商会と直接契約を結び、領民には新しい職業訓練を施した。
気付かれないように、すべてエドガーの「手柄」として立ててきた。
彼が社交界で持て囃され、鼻高々にしている間も、私は影で動き続けた。
けれど。
彼が本気で、私を切り捨てるつもりだと知った瞬間に、すべてを終わらせる覚悟はできていた。
「お嬢様、報告です」
控えていた侍女、メイベルが書類を携えて現れる。
「本日中に、主要三商会がすべてラザフォード家との取引停止を宣言する見込みとのことです」
「そう。よくやったわ」
私はメイベルを労いながら、静かに紅茶を口に運んだ。
ラザフォード家は、これから急速に傾く。
なぜなら、今の繁栄を支えていたのは、エドガーではない。
裏で動いていた私と、私の築いたネットワークだったのだから。
私が抜けた今、彼らに残るのは──。
「……借金と、信用のない城だけ」
ぽつりと呟いた言葉が、静かな部屋に吸い込まれていった。
それから数日後。
ラザフォード侯爵家が重大な資金難に陥ったという噂は、あっという間に社交界を駆け巡った。
当然だ。
有力な投資家たちが次々に手を引き、使用人たちは給料未払いを理由に離散。
領民たちもまた、税の軽い隣領へと流れ出した。
そして、さらなる追い打ちが待っていた。
「旦那様、セリーヌ様が……」
動揺した従者の声を、エドガーはうまく理解できなかった。
「セリーヌが、何だと?」
疲れ切った顔を上げたエドガーに、従者は震えながら続けた。
「……別の男爵家の御曹司と、正式に婚約されたと……」
「な、何だと……?」
エドガーの脳裏に浮かんだのは、あの華やかな笑み。
甘い言葉を囁いていた彼女が、あっさりと他の男のもとへ行ったと?
理解するまでに、数分かかった。
そして──理解した瞬間、エドガー・ラザフォード侯爵は、初めて自らの過ちに気付いた。
リヴィエルを失った代償が、どれほど重いものだったか。
取り戻すことなど、もう二度とできないということに。
「リヴィエル様、ラザフォード侯爵が……」
屋敷に戻ったメイベルが、信じられないという顔で告げた。
「……彼が、こちらに?」
「はい。玄関で面会を求めて、大声で……その、取り乱しておられるようで」
私は紅茶のカップをそっと置き、ため息をひとつつく。
想定よりも早かった。彼の領地が崩れるのはもっと時間がかかると思っていたが──セリーヌ嬢の裏切りが、予想外に大きな打撃だったらしい。
「……通して」
「お、お嬢様?」
「このまま帰ってもらっても、面倒が続くだけだもの」
メイベルを安心させるように微笑み、私は立ち上がった。
応接室の扉が開かれ、メイベルに導かれて入ってきたのは、見る影もないエドガーだった。
乱れた金髪、青ざめた顔、疲弊しきった姿。
あの輝いていた侯爵が、たった数日でここまで変わるとは。
「リヴィエル……」
弱々しい声で私を呼ぶ。
私は立ち上がらず、彼を見上げる形で椅子に座ったまま、落ち着いて答えた。
「お久しぶりですね、エドガー侯」
「頼む……助けてくれ」
──直球だ。
かつて、上から目線で命令ばかりしてきた彼とは思えない。
「何をおっしゃっているのか、わかりませんわ」
「ラザフォード家が……このままじゃ……っ!」
彼は言葉を詰まらせた。
きっと、ここに来るまでに必死にプライドを押し殺してきたのだろう。
だが、私は彼の必死な懇願を、冷静に聞き流した。
「あなたは、私を手放したのですよ?」
「だが……だが、君しかいないんだ……!」
涙すらにじませる彼に、私は心の奥底で静かに決意する。
これ以上、情けをかける必要はない。
なぜなら──彼が選んだのだ。私を捨て、別の愛を選んだのは。
「エドガー侯。あなたは、あの日、こうおっしゃいました」
私は丁寧に、彼の言葉をなぞる。
「"君には十分な贈り物もした。不満はないだろう?"……と」
エドガーの顔が引き攣った。
忘れてなどいない。忘れられるわけがない。
あの冷たい、見下した言葉の数々を。
「私は、もうラザフォード家には何の義務もありません」
「違う……違うんだ……!」
必死に手を伸ばす彼に、私は静かに首を振った。
「お引き取りください。ここは、あなたの来る場所ではありません」
その瞬間、エドガーの中で、何かが完全に折れたのがわかった。
彼は崩れ落ちるように膝をつき、深くうなだれた。
私の侍女たちが、すぐに彼を立たせ、屋敷の外へと導いていく。
私は、その背中をただ静かに見送った。
もう、彼にかける情けも、哀れみも、残っていない。
──彼の破滅は、もう誰にも止められない。
その夜、私は窓から夜空を見上げながら、ひとつだけ祈った。
せめて、領民たちがこれ以上巻き込まれませんように、と。
「リヴィエル様、大旦那様がお呼びです」
朝の執務を終えた頃、メイベルが静かに告げた。
「父上が?」
「はい、応接室で、先程到着した客人とお話中です」
私は首を傾げながらも、書類を片付けて応接室へ向かった。
グランチェスター家の応接室は、質素だが品格ある造りだ。
父はそこに座り、来客と向き合っていた。
そして、その向かいには──予想通り、エドガー・ラザフォードの姿があった。
「お嬢様、いらっしゃいました」
扉を開けたメイベルが静かに告げる。
父がうなずき、私は部屋に入り、ゆったりとしたカーテシーをした。
「失礼いたします、父上」
「リヴィエル、座りなさい」
促されるまま、父の隣に腰を下ろす。
エドガーは、昨日よりさらに憔悴していた。
深い隈、痩せた頬。
見るも無残な姿だった。
「さて、エドガー侯。改めて伺いましょうか」
父が落ち着いた声で切り出す。
「貴殿は、何を求めて我が家に参ったのですか?」
エドガーは唇を噛み締め、拳を震わせた。
プライドと絶望の狭間で揺れる彼の姿を、私は冷静に見つめる。
「……領地を、助けていただきたい」
「具体的には?」
「金銭的支援と、人材の派遣を……」
父は、ふむ、と軽く顎に手をやった。
しばし沈黙した後、厳しい口調で告げる。
「申し訳ないが、それはできない」
「な……!」
エドガーは椅子から立ち上がりかけ、慌てて言葉を継いだ。
「リヴィエルには、ラザフォード家を救う責任があるはずだ!」
父が静かに、しかし鋭く言葉を差し込む。
「娘は、既に離縁されている。何の義務もない」
「だが、婚姻によって得た利益が──」
そこまで聞いて、私はそっと口を開いた。
「エドガー侯、勘違いなさらないで」
微笑みながら、静かに告げる。
「貴族同士の婚姻は、互いに利益をもたらすべきもの。あなたは、その契約を破棄したのですよ」
エドガーの顔から血の気が引いた。
そう、契約破棄した側が、救済を求める資格などない。
「さらに申し上げれば──」
私は机上の小さな鐘を手に取り、そっと鳴らした。
澄んだ音が、部屋に広がる。
扉の向こうから、数人の男たちが入ってきた。
彼らは王国直属の調査官たちだ。
「ラザフォード侯爵家の資金不正運用、領地管理不備の調査のため、参上しました」
調査官の一人が冷淡に告げた。
エドガーは、目を見開いて後ずさる。
「な、何故、こんなことを──」
「私ではありません」
私はにっこりと微笑んだ。
「あなた自身の行いが、王国に知れ渡っただけです」
エドガーは震える膝を押さえ、崩れ落ちそうになった。
彼が行った度重なる税の横領、不正契約、領民への重税。
それらは、私が指一本触れることなく、すでに王国に把握されていた。
裁きの鐘は、もう鳴ったのだ。
「リヴィエル……助けてくれ……」
涙声で懇願するエドガーを、私はただ静かに見下ろした。
「お引き取りください、ラザフォード侯」
冷たく、決定的な拒絶を告げる。
扉が閉じられ、エドガーは調査官たちに連れられていった。
長かった因縁に、終止符が打たれた。
「お嬢様、国王陛下からの召喚状です」
メイベルが恭しく差し出した封書には、王家の紋章が刻まれていた。
「……ようやく、ですね」
私は封を切り、内容に目を通す。
要件は明快だった。
ラザフォード家に関する一連の問題について、グランチェスター家当主として事情を説明せよ、とのこと。
私は落ち着いて支度を整え、王宮へと向かった。
王宮の謁見の間は、いつにも増して緊張感に包まれていた。
玉座に座すのは、威厳に満ちた国王アレクシス三世。
その周囲には、王族と重臣たちがずらりと並んでいる。
そして、その場に跪かされているのは──。
「……エドガー・ラザフォード侯爵」
すっかりやつれた彼は、すでに以前の華やかな姿の面影すらなかった。
その隣には、あのセリーヌ・バーナード嬢も立たされていた。
しかし彼女は顔を背け、エドガーから一歩離れている。
「グランチェスター家リヴィエル」
王の声が響く。
「貴女の証言を求める。正直に、すべてを話すように」
私は玉座の前に進み、膝をついた。
「謹んで」
そして、これまでに起きた全て──
ラザフォード家がいかにして崩壊へ向かったか、
誰が何を行い、どのような罪を重ねたか、
隠すことなく、淡々と語った。
私の言葉に、一同は静まり返った。
エドガーは、ただ青ざめ、震えるばかりだ。
最後に、私はこう締めくくった。
「私は、ラザフォード家を支えるため、可能な限り尽力しておりました。しかし、当時の当主であるエドガー侯ご自身が、それを踏みにじり、破滅への道を選ばれたのです」
玉座の上の国王が、静かにうなずいた。
「よく申した」
そして、厳粛な声で宣言する。
「ラザフォード侯爵家は、領地剥奪及び爵位剥奪を命ずる。エドガー・ラザフォードはすべての権利を失い、今後一切、貴族社会への復帰を禁ずる」
瞬間、場内にざわめきが広がった。
エドガーは、その場で崩れ落ちた。
隣のセリーヌ嬢も顔を覆い、泣き崩れる。
──だが、誰一人として彼らを助けようとはしなかった。
裏切り、傲慢、怠慢。
彼らが積み重ねた過ちは、誰のせいでもない。
自らの手で招いた破滅だったのだ。
「リヴィエル・グランチェスター」
再び名を呼ばれ、私は顔を上げた。
「貴女には、国王より感謝の意が贈られる。忠義と正義を尽くした功に報い、今後も王国に仕えることを願う」
「謹んで、お受けいたします」
私は深く頭を下げた。
これで、すべてが終わった。
──だが、私の物語は、まだ終わらない。
ラザフォード家の問題が解決し、王宮から帰る途中、私はふと立ち止まった。
心の中に浮かぶのは、エドガー・ラザフォードの顔だ。
かつて彼は、私に対してすべてを与えてくれるような存在に見えた。
だが、彼の中にはそれ以上に多くの闇が潜んでいた。
その闇を、私は完全に見抜けなかったのだ。
「……それでも、彼はあのような終わり方をしてしまうのか」
思わず、呟いてしまう。
私の口から出た言葉に、思いがけない答えが返ってきた。
「リヴィエル、お前が抱えているものは、決して軽いものではない」
その声に、私はすぐに振り向いた。
目の前には、王国の重臣であるヴィクトール・オスカー卿が立っていた。
その無表情な顔には、わずかな陰りが宿っている。
「どうして、こんなところに……」
「お前が無事であることに、私は感謝している。だが、これからの道が容易であるとは限らないぞ」
「どういう意味ですか?」
ヴィクトール卿は、ゆっくりと歩み寄り、私の目を見つめた。
「お前が国王の信任を得たこと、それがどれほど重要か分かっているのか?」
「……もちろん」
「だが、それが同時にお前を危険にさらすことにもなり得るということだ」
その言葉に、私は眉をひそめた。
ヴィクトール卿は続ける。
「お前が王国に仕官したことで、お前自身の運命は王国と切り離せなくなった。
王国のために働くことが、常に正しいとは限らない」
「……それは、どういう意味ですか?」
「お前が今後、王国に忠義を尽くすとしても、必ずしも王国のために良い結果が生まれるとは限らないということだ。
政治の世界では、どんなに清廉潔白であろうと、立場を失うこともある。それに、王国を背負う覚悟を持っていなければ、お前もまた、エドガーと同じ道を歩むことになる」
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。
エドガー・ラザフォードは、私にとって過去の人だが、彼の姿を思い出すたび、胸の中に微かな痛みを覚える。
彼が堕ちていった理由を、私はすべて理解していた。だが、同時にその現実が私に突きつけられる形で返ってくることに、私は恐れを抱かずにはいられなかった。
「それでは、私はどうすればよいのですか?」
思わず口に出たその質問に、ヴィクトール卿は冷静に答える。
「お前は、今後も王国に仕える道を選ぶのであれば、その覚悟を持って進むべきだ。
だが、もしそれが嫌ならば、今すぐに王国から足を洗い、自分自身の道を歩んでいくこともできる」
──王国に仕官するか、それとも、自分の道を選ぶか。
その選択肢が目の前に立ちはだかる。
私はしばらく黙ったまま、空を見上げた。
あの時のエドガーのように、私は王国に仕官したことで過去の私を捨てたのだろうか?
今、再び選択の時が訪れた。
「……私は、まだ答えが出せません」
ヴィクトール卿は、私の答えに満足したように、わずかに頷く。
「その答えが出る日が来るのを待とう。だが、お前が選ぶ道がどれであっても、私はお前の味方だ。
覚えておけ」
その言葉を胸に、私は静かに歩き出す。
その先に何が待っているのか、私には分からない。
だが、少なくとも私は自分の足で歩いていく覚悟を決めたのだ。
「リヴィエル様、本日も文書の確認がございます」
「ありがとう、メイベル」
いつものように書類に目を通しながら、私は静かにペンを走らせる。
王国に仕官する道を選ぶか否か。
その決断を下すまで、日々の仕事を淡々とこなすしかなかった。
だが、その静かな時間は、ある人物の訪問によって破られた。
「リヴィエル様に面会を求める客人がおります」
玄関の侍女が告げる。
「どなた?」
「……クラウディオ・エスカーダ様です」
その名を聞いて、私は思わず手を止めた。
クラウディオ・エスカーダ。
かつての学友であり、現在は王国軍第三師団の若き指揮官。
武勲も名声も兼ね備えた、将来を嘱望される人物だ。
私は少し考えた末、会うことを決めた。
「通して」
応接室に現れたクラウディオは、以前と変わらぬ、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「久しぶりだな、リヴィエル」
「ええ、本当に」
私は彼に軽く頭を下げ、ソファに促す。
「……王宮でのこと、噂は聞いている」
クラウディオは真剣な顔で切り出した。
「君がラザフォード家の腐敗を暴き、国王陛下から信任を得たと」
私はわずかに肩をすくめた。
「私はただ、正しいことをしただけです」
「だろうな。君は昔からそうだった」
懐かしむように、クラウディオは微笑む。
しばらくの沈黙の後、彼は真剣な眼差しで私を見つめた。
「リヴィエル。君に頼みたいことがある」
「……何でしょうか?」
彼の目に宿る熱に、私は少しだけ身構えた。
「君の力を、俺たちに貸してほしい」
「俺たち……?」
「国王直属の改革派だ」
その言葉に、私は驚きを隠せなかった。
改革派──それは、今の王国をよりよく変えようとする新興勢力。
だが、伝統派貴族たちからの反発も強く、決して楽な道ではない。
「どうして、私なのですか?」
「君は誰にも屈しない。正義を貫ける。そして……民を思う心を持っている」
まっすぐな彼の言葉に、私は心を揺さぶられた。
エドガー・ラザフォードのように、名誉や財産に溺れる者たちとは違う。
クラウディオは本気で、この国を変えたいと願っているのだろう。
「考える時間をいただけますか?」
私がそう問うと、クラウディオは優しくうなずいた。
「もちろんだ。急かすつもりはない。だが、俺たちは君の力を必要としている。それだけは覚えていてほしい」
そう言い残し、彼は立ち上がった。
「リヴィエル。また近いうちに」
彼の背中を見送りながら、私は胸に芽生えた小さな灯を抱きしめた。
──私にも、まだやれることがあるのかもしれない。
クラウディオが去った後、私は静かに机に向かった。
差し出された手を取るべきか。
それとも、穏やかな日常に戻るべきか。
窓の外には、穏やかな陽光が差し込んでいた。
鳥たちのさえずり、木々のざわめき。
何も変わらないように見えるこの世界も、実は大きなうねりの中にあるのだと、私は知っている。
ラザフォード家の一件で、私は痛いほど学んだ。
正義を貫くだけでは、すべてが救われるわけではないこと。
だが、だからといって、何もせず目を背けることは、私にはできなかった。
「メイベル」
「はい、リヴィエル様」
「王宮に使いを出して。王国改革派との会談を正式に受諾する、と」
メイベルは驚いたように目を見開いたが、すぐに深く頭を下げた。
「かしこまりました」
決めた。
私は、もう過去に縛られることはしない。
誰かに捨てられることを恐れて生きるのではなく、自らの意志で未来を選び取る。
それから数日後。
私は、クラウディオたち改革派の中心メンバーたちと正式に顔を合わせた。
王国の未来を思う者たち。
彼らは一様に若く、熱意に満ちていた。
「リヴィエル・グランチェスター。これより、我らと共に国を変えるため力を貸していただきたい」
クラウディオがそう宣言し、手を差し伸べる。
私は、少しだけ笑って、その手を取った。
「光栄です。私のすべてを、王国のために捧げましょう」
拍手が巻き起こった。
その夜、私は久しぶりに夜空を見上げた。
満天の星々が輝いている。
エドガー・ラザフォードのことを、ふと思い出す。
彼は、自らの欲に溺れ、滅びた。
私も、同じ道を辿っていたかもしれない。
だが、私は違う選択をした。
たとえ茨の道でも、私は進む。
国の未来のために。
人々の笑顔のために。
──私は、もう迷わない。
胸に新たな誓いを刻みながら、私は静かに目を閉じた。
未来は、これから私たち自身の手で創るのだ。