5.2 - 束ねた書類とコーヒーカップ
アジルとの会話を振り返って、シャリフは聞かずにはいられなかった。アジルという人間は、何を動力源にして研究者をしているのだろうか。
「アジル様は、なぜ研究者になられたのですか?」
「私ですか。そうですね……《《ここ》》で待っていてください」
アジルは再び自分の研究室のドアを開け、中に入っていった。数分は待っただろうか。研究室から出てきて、静かに丁寧にドアを閉めている。中で何か実験でもされているのだろうか。しかしそこは詮索しないのが研究者の流儀だ。
「まだ大丈夫そうでした。話してもいいのですが……しかしつまらない話ですよ」
「ぜひ、聞いてみたいです。」
それなら場所を移しましょう、とアジルは一人で移動し始めた。研究室に自分を近づけたくない意図でもあるのだろうか、秘密主義と研究成果の関連性を分析しながら、シャリフは早歩きでアジルに続いた。
*
少しの移動の後、庭園の片隅にあるベンチに腰を下ろした。
周囲に人目はないし、昼過ぎの日差しは初夏を思わせる暖かさで心地がいい。庭の片隅では夏の花の蕾が膨らみ始めている。こんな快適な場所があったとは知らなかった。
「シャリフ君。私は今の季節が一番好きでして。逆に言えば今以外の季節はすべて嫌いなのです。庭園のベンチに腰掛けるなんて贅沢は今の内です」
「もう少ししたら雨季ですからね。あれは……実に悩ましいものです」
庭の片隅では、魔法省が大切に育てる薬草園が広がっている。ここでは魔力と植物の関係が長年研究されてきた。シャリフが目を凝らすと、葉の上に魔力の痕跡らしい微かな光の粒子が踊っているのが見えた。
「しかしですね。最近、それが楽しみで仕方ないのですよ。雨季は、気温と湿気の好条件により菌類が活発になりますから」
シャリフがアジルの表情を確認する。微塵も笑ってはいないが、手はそわそわと動かしている。
「どういった研究をされているのか、気になります」
「その内にでも共有しますよ。まぁとにかく。私は最近ようやく好きな季節が増えてきたくらいで、幼い頃から全ての季節が嫌いな人間でした」
アジルは前かがみになり、遠くに生えたラベンダーを眺める。
「アジルさんは、なぜ研究者になられたのですか?」
「そうですね……私の実家はラベンダー農家で、八人兄弟の六番目でした」
「大家族だったのですね」
「ええ。しかし長男以外、誰も学校に行けない家でして。勉学より労働を優先させている親とは、なんて無駄な育児をしているんだ、と生意気にも感じていました。私は長男の教材を盗み読みして、基本的な知識はそこで身に着けました」
やがてベンチにもたれかかり、空にかかるニームの枝葉を仰ぎながら話し続けた。
「長男は自分よりも、言ってしまえば要領が悪かった。彼が三日かかる内容を、私は一時間で終えました。世界にはなんて無駄が多いのだとね」
庭の薬草に目をやりながら、シャリフが静かに聞き続ける。
「それで、魔法省に?」
「魔法という学問が、学んでいて一番未熟に見えましたので」
「……天才、だったのですね」
「たまたま時代が渇望する知的鉱脈を見つけただけです」
「もしや、あの理論はおひとりで完成されたのですか?」
「それはもちろん。魔法省での他人との関わりは、本当に無駄で嫌いでしたから。関わりあう前にまずは相手を読めばいい。研究内容なんかは直近の論文と普段の様子を眺めれば大体検討がつく。今でも研究者同士で馴れ合っている意味がわかりません」
アジルは口元あたりを触った後「コーヒーが飲みたい」と呟いた。
「すいません……貴重な時間を無駄に頂きすぎました」
「いや、そういう意味ではなく。……まぁ。私は豊かさまでも無駄と切り捨てていた愚か者でして。今は反省期間として自粛中なのです」
「僕は……アジルさんを尊敬しています」
「それは。口先だけでも、ひとまずは丁重に受け取らせて頂きましょう。お互い、大切な時間を有意義に過ごしましょう。それでは」
立ち上がった後、一言挨拶をしてからその場を去っていった。シャリフには、さきほどのアジルの一言が本当にコーヒーのことだけを話していたのだろうか、と僅かな引っ掛かりが残り続けた。
そうしてアジルとの会話を反芻していた時、シャリフはそもそもの目的であった手元の書類を無駄に持ち続けていたことを思い出し、頭を抱えて後悔したのだった。
*
アジルの研究室の前。鍵を差し込んでから意味深に、開けて閉めるを二回繰り返す。ここまでやれば流石に気付くだろう。ゆっくりとドアを開け中に入り進めば、ソファの上にヴィーラが寝転がっていた。背負い袋を抱えてリラックスしている。
「アジルさん、待ちくたびれましたー遅いですー!」
「研究室は荒されていないようで安心しました。お待たせしましたヴィーラさん」
「ふーん。そんな事を言ってもいいんですか? 実はわたし、師からアジルさんへの取って置きの預かり物があるんですよ!?」
ふと、研究机の椅子に座る前に体が固まる。まずい、これは交渉の舞台だった。主導権を持っているのはヴィーラだ。愚かにもアジルは出遅れたのだ。どういった切り出し方をすれば体裁が保てるだろうかと必死に頭をこねくり回した。その預かり物は、本音を言えば非常に待ち遠しいものだったからだ。
「……コーヒーでも、入れてきましょうかね」
「えー行かないでください待ってくださいー。今お渡ししますからぁ」
思ったより交渉役が意志薄弱だった。平然とした面持ちで椅子に座り、ヴィーラに体を向ける。ふっとヴィーラが深呼吸を置いた後、姿勢と表情を正して一人のラミア族になった。背負い袋から懐かしい書物を取り出し、両手で丁重に差し出す所作に合せてアジルも身構える。
「我らがラミア族、シャーマンの師であられるラフマヴィ様より。人間であるアジルへの賜り物です。今後も両種族とこの子達に繁栄があらんことを」
「ありがとうございます。人間代表みたいに扱われるのは人間の為に否定した上で。私の要望を聞き届けて下さったラフマヴィ様には感謝の意をお伝えください」
うやうやしく書物を受け取る。以前と違い書物に温かさを感じるのは、これが呼吸をしているのか、それとも単にヴィーラが温めてきたのか。
「……ヴィーラさん。もういいですかね?」
「あ、えっと、はい! もう大丈夫です!」
では、と<ドラゴン百珍>を早速開く。かすれた文字が印字されたガサガサの紙を見つめると、本の隙間から虫が二匹現れた。親指大の大きさ、透明な体、真っ赤な目、予想以上にシンプルなフォルム。その姿はチャタテムシとは思えないくらい知的な印象を受けた。再デザインされた生物、という言葉がアジルの中で一番しっくりと来た。
「うわぁ、なんかその子、ここで見るとなんか光って見えません?」
「本当ですか、私にはさっぱり。そしてこの子達とはどう会話をすればいいんでしょうか」
「えっと? 何も聞いてないですね。とりあえず適当に話しかけてみては!?」
本をひとまず研究机に置き、じっと二匹を見る。二匹も二人をじっと見つめ、両者の間に沈黙が訪れる。
「こういう時は挨拶からですよね。わたし挨拶してみますね。こんにちわー?」
するとチャタテムシの一人が首を横に振り、呆れた様子でヴィーラを眺めている。もう一匹が将に擦り寄りけたたましく笑っている。妙に感情を表現するチャタテムシだが、バカにされたことだけはヴィーラにもわかった。
「え。なんか舐められたんですけど、わたし。えぇ……なんでぇ?」
「さぁなんででしょうね。もしかしたら主従関係なんですかね。私が挨拶してみますね……ふむ」
将と師との手紙のやり取りを振り返る。シャーマニズムとは何であるか、なぜ二匹なのか、ラミア族の生態系、将と師という独自の文化体系、何も伝言がなかった意味。ゆっくりと吟味した後、おそらくこれだろうという答えを導き出した。
「私はあなた達の繁栄を約束する仲間です。どちらが将ですか?」
チャタテムシの一人が手を挙げる。先ほど首を横に振った方だ。
「ではそちらが師ですね?」
もう一方が手を挙げる。将にすり寄り笑っていた方だ。
「何か別の事を聞いてみましょう。この部屋に仲間はいますか?」
二人が顔を見渡した後、小さな丸を手振りで示した。そんなにいないという意味だろう。
「興味深い。とても頼もしいですね」
「せっかく大事に運んできたのに。もーわたしにはそんな風には見えません」
「早速、餌を用意しないといけませんね。いくつかサンプルは集めてきたのですが……」
チャタテムシは本を食べている訳ではない。紙に生えた菌類やカビを食べている。書物における害虫として扱われる彼らだが、それは副産物によるものだ。
そういう訳なので、アジルは事前にいくつかの菌類やカビを用意しておいた。この将と師を満足させられるものは何だろうか……引き出しを覗いていると、ヴィーラがそういえば、と背負い袋を探し始めた。
「おや。これ以外にも何か届け物が?」
「そうなんです。アジルさんにわたし個人から渡したいものがありまして」
ヴィーラは笑顔で背負い袋を漁る。中には二つの物が入っている。ふと手を止めてアジルの顔を見つめると、機嫌の良さそうな様子に少しの臆病さを感じて心をわずかに曇らせた。背負い袋から取り出したそれは、琥珀色に光る絹の袋だった。
「これなんです。光っていたので、前のお話を思い出して。布にトモシビダケっていうキノコを詰めたラミア族のランタンなんですけど。もしかしたり、しませんか?」
ぽふり、とアジルに手渡す。あまりに上質な絹の中にはキノコがぎっしりと詰まっていて、その一つ一つがそれなりに強い光を放っている。
「……一個ずつ話したいのですが。ラミア族は大変な紡績技術をお持ちなのですね。ここまでのものは人間でも作れるかどうか。ヴィーラさんの服もそうなのですが、ランタン程度にもここまで上質なものを使うとは」
「はい。カイコと蜘蛛に作ってもらってます。着心地もいいし汚れにくくて、とってもいいんですよ!」
「いやぁ本当に凄い。それにトモシビダケ、これもここまで発光する種は見た事がありません。これもシャーマニズムですか?」
「栽培はそうなんですけど、なんでそんなに光っているのかまでは、ちょっとわかりません」
アジルは琥珀色の光に照らされた研究室を見渡す。朝一日の出来事を、頭の中でゆっくりと整理する。無駄だと切り捨てていた物事の中には、価値あるものが数多く残っていた。その傲慢さに気付かせてくれるきっかけをくれたのは、間違いなく目の前にいるラミア族の女性だ。
しかしヴィーラの様子は、さっきから何か別のことを言いたげだ。透明な布を一枚はさんでいるような、そんなもどかしさを感じる。アジルの過去の経験を思えば、家族の女姉妹が要求を言い出す前には、よくよくこういった雰囲気を作るものだ。
そういえば今日はラミア族の話はしているが、ヴィーラの話はそこまで聞いていない。無駄を切り捨てる普段なら、研究を早速始めたいのでここで帰ってもらいたい。しかしシャリフとヴィーラで今日過ごした時間に差があるのは、アジルとしても何か気分が悪い。
まだ背負い袋には何かが入っている様子だ。仕方なく付き合うことにした。
「で。まだ何か入っていますよね、それ」
眼差しに気付いて向き合ってくれた事が何より嬉しい。引き絞らない弓矢で会話ができた感触からか、ヴィーラの表情が活き活きと動いた。
「そうなんです! これ、これ、見せたかったんです! ジャダンイナヅマヤギの角! 今朝狩ってきたばかりでしてぇ!」
「珍獣の中の珍獣ですが今更おどろきもしませんね。しかし一応、ちょっと見せて貰えますか?」
樹皮紙をこっそり剥がしてから、喜んで渡す。アジルは機嫌がいいと、色々なものを指で触る癖がある。
「アジルさん、そういえばなんですが。人間は一目惚れした時、電気を発して黒焦げになるって聞いたんですけど……」
その指先を見つめながら、ヴィーラは自分の両指を弄り始めた。
机の上には三つの贈り物が置かれている。トモシビダケの柔らかな光が、研究室に温かな色合いを与えている。アジルは人生で初めて、次の季節を心待ちにしていた。雨季は菌類の為にあるような季節だから、チャタテムシの働きは極めて観察しやすい筈だ。
夏の始まりを告げるような風が、窓から通り抜けていく。二人はまるで互いの心の季節が少しずつ変わっていくような、そんな移ろいを楽しんでいた。