4 - ラミア族と番えた矢
夜明け前のジャダン山脈。頂きを覆う万年雪が僅かに輝き始め、その下に広がる原生林が目を覚ます。
この地は暖気と寒気が出会う場所。幾重にも重なる渓谷では、様々な生き物たちが世を紡ぐ。谷風に乗って舞い降りる雲は、古の魔物たちに祈りをもたらしている。
だが、ジャダン山脈にはもうひとつの顔がある。人間と魔族の不可侵条約における境界線。50年前の戦いの後、両陣営がこの山脈に沿って一本の線を引いたのだ。自然と歴史の両方の面において、この山脈は重要な場所となっている。
ふもとに春の日差しが届いた頃。谷間の朝もやの中、若草が冷たい風に揺れている。草原の中に獣が集まっている。ジャダンイナヅマヤギの群れだ。縦に伸びた瞳孔が朝日に細まり、額から生える長い角の先端に放電が浮かぶ。本来なら高地に住むはずの獣が、新緑の誘いに負けて下りてきたのだろう。
群れの中では、母親らしき個体が子供たちを連れ、採食の作法を教えている。若草の一つをかみ取る顎、左右に動かし咀嚼している。角から放たれる静電気が、群れの間で言葉のように飛び交う。母親の電気は穏やかで、子供たちの動きを優しく導いていく。
そして群れから離れた岩の上で、一頭の老いた個体が朝日を浴びていた。クリーム色だった毛並みは色褪せ、曲がった角から放つ電気も弱々しい。だがその眼差しは強く褪せることもなく、周囲を監視し群れを守り続けている。
ふと、何かが動いた。遠くで朝もやが僅かに切れた。瞬間、老体が青白い火花を角から散らす。群れ全体が一斉に首を持ち上げる。その直後、老体の心臓を貫くように現れた、一本の矢。トッ、と矢じりが音を立て、一面の青空に数滴の血を散らした。
群れが電気を繋ぎ、固まる。ジャダンイナヅマヤギは一つの意思を作り上げる。岩場を最短距離で駆け上がり、すぐに姿を消してしまった。老体が一匹、岩から崖側に倒れこむ。落石の一つのように転がり落ち、やがて木々に引っ掛かり動きを止める。……周囲に、静寂が戻った。
ヴィーラは白い息を吐いた。弓を仕舞い、その老体が沈んだ場所まで、岩を伝って降りていく。夜明け前から、風上の岩陰で待ち続けた甲斐があった。だが獲物に触れた手が僅かに震える。まだ暖かいそれの命の跡を想い、ヴィーラは心の中で呟いた。
(ヴィーラの矢は、あなたを苦しまずに射貫く稲妻になりましたでしょうか)
群れの中で最も年を取り、角の放電も弱く、足取りも重かった老獣。群れの一つの意思を邪魔することなく、自ら危険な見張りの役目を選んだのだ。若い獲物は味も良く狩りやすい。それでも、老体が選んだ最期の役目を否定する気持ちにはなれない。そう考えることで、ヴィーラは狩人としての心の均衡を保っていた。
と、少し遠くの森から歓声が聞こえてきた。
「きゃー! やっぱヴィーラすっごーい!」
「バチバチメーメーを一発! かっこいぃー!」
「よくあんな気配けせるよねー。そりゃそっか、凍え死ぬ一歩手前だもんね?」
ラミア族の戦士が二人でヴィーラに駆け寄り、一人が毛皮を肩にかけた。
「寒いよぉー! 凍えるよぉ死にそうだよぉ!」
「よしよしヴィーラちゃん頑張ったわねー! こんなに出来るなら、獲物の狩りはあなたの右に並ぶ人はいませんよーっと。それなら次はもちろん……」
「タマゴづくりだよね! 将さまみたいに、人間の男を百人ムシャるのだ!」
「いいオスは競争率がねー、でもヴィーラなら大丈夫。誰よりも狩りがうまいんだから!」
朝もやの中での静かな狩りの緊張が、仲間たちの明るさに溶けていく。獲物を肩に担ぐ二人に、ヴィーラは茶化すように返した。
「遠く難しい的を狙わないと狩りはうまくならないの!」
*
ヴィーラの集落は山のふもとの森の中にあった。洞窟の入り口では、兜が顔までずり落ちかけた小柄なラミア族が、槍を抱き枕にして眠っていた。体の三倍に近い槍が、守衛としての意気込みを物語っている。狩りから戻った三人の気配に「ふにゃ!」と飛び起き、揺れる兜の下から慌てて長い前髪をかき分けた。
「寝てんじゃないよクーシィ」「仕事しなさいよーあはは!」
狩りから戻った二人が笑いながら指を差す。クーシィは両手で兜を押さえ、尾を膨らませて抗議した。
「だって重いんだもん! 兜がずーっとずれてくの!」
「お子様サイズの兜はあいにく無いんだよ。自分でやりたいって言った守衛だろー?」
言い合いを聞いていたヴィーラの姿に気づくと、クーシィの表情が一気に輝いた。
「あっ! ヴィーラさまーっ! お帰りなさいっ!」
両手で兜を支えたまま、子蛇のように身を捻らせてヴィーラの周りをくるくると回る。
「見せて見せて! これが噂のバチバチメーメー! お肉じゃないのは初めて見た!」尾先が興奮で小刻みに震え、時折地面を叩いて跳ねる。
様付けされることが照れくさいのか、ヴィーラは頬を赤らめた。ラミア族二人も微笑ましそうに見守っている。
「そうですよー、クーシィ。あなたのいつかの目標の、バチバチメーメーです!」
「すごい! ヴィーラさまかっこいい!」
クーシィは兜を直しながら尾を大きく揺らした。
「あたしもいつか、ヴィーラさまみたいに狩るんだ!」
「いつになるんだろうねぇ」「いつまでかかるんだろうねぇ」
「来年! 絶対来年には!」
クーシィが真剣な顔で宣言すると、周りの笑い声は更に大きくなった。
洞窟入口には、ラミア族の縄張りを表すカーテンがかけられている。上質に輝く絹には模様が織られており、アールヌーヴォー調で、蛇の鱗の幾何学模様を背景に、植物と虫に絡まれた弓矢が描かれている。絹はラミア族にとっては主要の素材だ。使役されたカイコがいくらでも織ってくれる。
クーシィが先にくぐり、入口すぐ近くの保管庫に案内する。中は薄暗く、クーシィが手にもつランタンしか手がかりがない。やがて明るく照らされた部屋が一つ見つかった。保管庫だ。
ここでは狩りに使う道具や装備、狩りたての獲物などが預けられる。職員のシャーマン達が手際よく装備と獲物を受け取った後、ランタンを各自に配っていく。洞窟は基本的には暗いので、ランタンがないと進めない。このランタンも絹でできており、袋の中には栽培されたトモシビダケが詰まっている。キノコは本来緑に光るが、絹のフィルターを通すことで琥珀色の光になる。
手ぶらになったヴィーラにランタンを渡す際、職員の一人がかしこまった表情で伝言を伝える。
「そうだ、ヴィーラ。師からあなたへの伝言だよ。借りている本を読み終わったって内容。わたし伝えたからね」
それは、アジルへの届け物の準備が終わった意味だとすぐにわかった。今日会いにいく予定が急遽できたことになるので、ヴィーラは心と体の準備が必要になった。
*
ヴィーラは一人、さらに奥の集落の入り口へと向かう。腰に下げられたランタンが、長い長い洞窟の道を照らしている。それはまるで巨大な蛇が通り抜けた跡のようだ。床は石畳となっており、枝分かれした道を区切って部屋が作られている。この洞窟は、かつてガルダウロオオヘビが永劫の昔に刻んだ巣だという伝説をシャーマンは語っていたが、そんな蛇は狩れなさそうなので信じたくもない。
そういえば、とアジルとの会話を思い出した。
(そういえば……光ってる生物は、なんか魔力がすごいんだとか言ってましたね。このキノコも凄いんでしょうか。お土産にいいかもしれませんね!)
にやにやランタンを眺めるヴィーラは、周囲からは不思議なものに映った。
アジルのことを想いながら、師からの伝言の意味を振り返る。借りている本は、前にアジルから受け取った<ドラゴン百珍>のこと。そしてその中にはチャタテムシ達が住んでいた。読み終わったは、チャタテムシの使役に成功したという意味だろう。
以前、師に渡したときには、チャタテムシの使役は前例がないと言われた。花の種より小さいチャタテムシでは、使役しても大した役割を担えない。これを人間がどう活用するのか、非常に興味があるようだった。
つまるところ、今日は契約が終わったチャタテムシ達をアジル送り届ける必要がある。そんな重要な届け物だとしても、狩りの直後のままでは会いたくない。ヴィーラはウキウキで大浴場へと向かった。
大浴場は湧き出ていた温水を活用した施設で、ラミア族はしばし狩りの前後でここを利用する。壁には絹が飾られていて、優美な模様を描いている。こういった場所にかけられている絹は、大体が低級品で日用品扱いだ。
浴室の入り口に差し掛かると、中から賑やかな声が響いてくる。ランタンを壁の窪みに置き、衣服を手早く畳んでから湯気の立ち込める扉をそっと開ける。すぐに通った大声がヴィーラを出迎えた。
「おっ、ヴィーラじゃん! こっちこっち!」
声の主はすぐにわかる。ラミア族の将、アディティヤだ。逞しい腕と胸を揺らし、真っ白な歯を見せて笑っている。赤く豊かな長髪が、水面に蛇のように漂う。周囲のラミア族たちは、その豪快な物腰に慣れた様子で自然と輪を広げて場所を作った。
湯船に滑り込むと、狩りの後の冷えと疲れが溶けていく。地熱で温められた湯は心地よく香りも控えめで、気持ちよさで声が出てしまう。
「お疲れだなぁ。今日の狩りも凄かったって聞いたぜー。その内オレより人気者になっちまうんじゃねーのか?」
「またまたそんなぁ。アディティヤ様の浴びるような黄色い声援には到底及びませんよー」
「そりゃそうだ、俺は最強だからなぁ仕方ないよなぁ!」アディティヤは豪快に笑った。「……それで、だ」
周囲に目配せをすると、ラミア族の人だかりが散っていった。ヴィーラはアディティヤの近くまで泳いでいく。
「そういえばヴィーラ。今日は人間のオスに会うんだって?」
ヴィーラの肩に、将が手をかけて引き寄せる。この方はナチュラルにタラシなので、流石だなぁとヴィーラは控えめに笑う。
「師から賜る、使役された虫をお渡しに行くだけですよぉ」
「あれか、俺とも文通してる男……確か、アジル、っていったか」
「はい、アジルさんです」
名前に「さん」とつけた瞬間、アディティヤの表情が浮かれた。
「へぇー。アジル、さん、なぁ! 随分面白い手紙くれるじゃねーかよあいつ。これでもちゃんと、返事は真面目に返してるんだぜ?」
「どんな内容なんですか?」
「あー50年前の戦争の後、文化的にどんな影響があったかー、とか。クッソ真面目な質問ばっかでよぉ。魔王様から、人間のタマゴ狩りに制限がかかったことを教えたよ。あれでタマゴの産まれる数が減ったから、困ったよなぁ」
人間と魔族の間の不可侵条約。50年前の戦争の後、疲弊した両者が交わした約束だ。ラミア族はグレーな扱いだったため、魔王は人間との無駄な軋轢を恐れ、ひとつの条件を課した。それは<人間のオスがイエスと言わなければダメ>という簡単な制約だった。
「その後の手紙でよぉ、愚痴られちまってな。人間のオスってのは一人のメスとしかツガイになれないルールがなんとか。マホーショーに問い合わせがきて困るだの何だの……ハッ! イエスって言っといて後から泣き言かよ! そんなの知ったことかよなぁ?」
「イエスって言っちゃう人間のオスが悪いんですよ。そりゃあアディティヤ様が目の前にいたら、ノーって言える生物なんて、この世にいないと思いますけど」
上機嫌で満足気な笑いをヴィーラに向ける。表情ひとつ取っても真っ直ぐな力を持っている。やっぱりこの方は本当にナチュラルなタラシだ。
「で……ヴィーラの方は。あいつとのタマゴはどーなんだ! やったのか!?」
ヴィーラは考え込んだ後、周囲を見渡す。近くに話が聞こえるラミア族は現状いない。自分が言うタマゴとラミア族が言うタマゴは何かが違うのだ。その違和感を素直に伝えることにした。
「うーん、そのー。なんか違うというか。タマゴは目的じゃないというか。別にできてもいいんですけど」
「はぁー? なんだ突然ムズカしーな! 気に入れば即タマゴ! 気に入らなければ狩るか追い払う! 簡単だろ?」
「それはワイルドすぎてわたしには真似できないですよぉ」
からかうような口調を続けていた将は、ヴィーラから離れて岩場に上がる。身体から湯気をあげながら腕組みをして天井を眺める。じっと鍾乳石の先から垂れてくる水滴を見つめたまま話す。
「でもよぉ……そりゃ俺はオスはすげぇ数を喰ったもんだけどさ。なんか数とか、正直どうでもいいんだよな。自慢したくて数えてるだけってか。実際、なんか空腹のまんまなんだよなぁ」
アディティヤからの意外な言葉にヴィーラは首をかしげる。
「それは数じゃない……ってことですか?」
「そーそー。数じゃねぇんだ。通じ合った何かが大事っていうかさ。オレみたいにバンバン攻めんのも悪かないけど。バチバチメーメーみたいに心が通じ合った方が……まぁ、体も心も余韻に浸れるんだよなぁ。旨かったって思い出せるオスと、とりあえず喰ったオスは、まぁ違うんだわ」
ヴィーラが目をぱちくりしている表情を眺め面白がるように満面の笑みを作る。湯船から勢いよく立ち上がり長い髪から水を振り払う。
「ま! ヴィーラはヴィーラらしく。オレはオレらしく。それでいーじゃん!?」
アディティヤは岩場から飛び浴室の出口に向かい、背中越しに手を振った後、服を握りしめて何一つ隠さないまま出て行った。普段なら笑って見送るヴィーラだったが、自分が感じている気持ちがよくわからないことが気になったまま湯舟の中に沈んでいった。
*
シャーマンの長である師、ラフマヴィ様は洞窟の最深部にいる。長い長い洞窟の道を進み続けると、ラミア族と一切すれ違わなくなった。
最深部に向かうごとに、静けさは力を増し続けていく。まずはヴィーラ自身の歩む音だけが聞こえるようになった。それはうるさかったので、出来るだけ静かに移動することにした。やがて耳の感覚が研ぎ澄まされていけば、地を歩み仕事に励む彼らの気配が感じ取れる。そして、遠くの果てで落ちた水滴の音が聞こえるようになった。あの水滴の音を目指せば、目的地にたどり着ける。
洞窟の最深部に入ると、広大な鍾乳洞が静寂とともに姿を現した。壁一面に自生するトモシビダケの柔らかな光が、中央に広がる湖面を淡く照らしている。天井からは水滴が音もなく落ち、その一粒一粒が湖面に神秘的な文様を描く。その輪紋の上を、幾筋もの小さな影が舞うように巡っている。ヴィーラには、その影たちが虫なのかさえわからなかった。
数十人のシャーマンが、洞窟の壁に向き合い、何かと会話をしている。壁にはたくさんの窪みがあり、その窪みのそれぞれに、契約した虫の代表となる「将」と「師」が鎮座している。種族の代表と契約をして、種族の繁栄を約束としながら交渉を続け、その種族の自然に干渉する力を授かる。これがシャーマニズムの知恵となる。この鍾乳洞には、シャーマニズムの全てが詰まっている。
空間の中央にある湖に囲まれた中の盛り上がり。真っ白なギンバイソウの絨毯が広がっている。その真ん中で、真っ白なラミア族の女性が一人、白濁した眼で虚空を見つめながら、その長く細い手を優雅に動かしている。ラミア族のシャーマンの長、師であるラフマヴィその方だ。
ヴィーラはいつも、その姿を見ると呼吸が一瞬止まる。それほどに美しいのだ。ただ、その美しさはいつもこの世界のものでないような、水面の先にある辿り着けない世界のもののように思えた。そのヴィーラの止まった呼吸がラフマヴィに伝わったらしく、すぐに気配を察して耳を傾けた。
「ヴィーラ。こちらへ」
声は水滴の音よりも小さい。思えば、周囲のシャーマンたちは、まるで呼吸する音さえ立てないように動いている。同じくらいに音をたてないように、ギンバイソウの中まで歩み続ける。
「久しぶりね。チャタテムシを、受け取りに来たのね」
「はい、ラフマヴィ様」
ヴィーラも自然と声を潜めた。ラフマヴィはゆっくりと手を伸ばし、周囲に咲くギンバイソウの一輪に触れる。銀色の葉が僅かに震えた。
「……あなたの心が、聞こえたわ」
「……え?」
「揺らぎ、近づき離れ、そして向かう。その先……人間が、一人」
ヴィーラは息を呑む。天井からの水滴が、二つ、三つと落ちる。
「ねぇ、ヴィーラ。狩人は矢を放つ時、相手とは必ず何かを交わしますね?」
「……はい。獲物との……なんというか、合意のような」
「そう。だから、放たれた矢は。決して、外れない」
ラフマヴィは、ヴィーラに耳を傾け、微かに頷く。
「でも、今のあなたは、まだ矢を番えただけなのね。引き絞ることも、放つこともできない」
何かの虫たちの足音が、微かに響く。師は優しく語り続ける。
「それは……あなた自身の魂が、まだ形を持ち切れていない、から」
ヴィーラは自分の胸に手を当てる。確かに、そこには何か形にならない想いが渦巻いていた。以前から気になっていた、何かの気持ち。
「……ふふ。お相手は、あなたの魂の柔らかさを、知っているのよね」
ラフマヴィのか細い指が、ヴィーラの頬を撫でる。口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「だからこそ、その魂に触れないよう、距離を、保っている」
「わたしの……魂が?」
「気づいて、いるでしょう? あなたが番えた矢は、引き絞らなくても、ぶれずに、ただ一人を指している」
シャーマンたちの静かな動きが、影のように通り過ぎる。師は体を倒し、絨毯のギンバイソウのひとつに触れながら、静かに言葉を紡ぐ。
「あなたは、本当にいい狩人なのね」
ヴィーラの目に、不思議な光が宿った。それは狩りの時の鋭い光とは違う、柔らかな輝きだった。
ラフマヴィは一冊の書物を絨毯から取り出し、それをヴィーラに差し出した。その上には、花の種ほどの大きさのチャタテムシが二匹、その役割を待ち続けている。
「この子たちを、大切な人のところへ」
ヴィーラの心は静かだったが、しかし水紋が大きく揺れ続けていた。
*
シャーマンではないラミア族とすれ違った時、ようやくヴィーラは現実に帰ってこれたような気がした。「ドラゴン百珍」の書物を開くと、将と師のチャタテムシが、ヴィーラをじっと見つめている。何か話しかけているような気がするが、こんな場所では何も聞こえない。
(な、なんてデリケートなんだろ……わたし、本当に将来、シャーマンにならないといけないのかなぁ)
ラミア族は、タマゴを産める間は戦士として、タマゴを産めなくなったらシャーマンとして、その役割を担う。そんな段階にもないクーシィとかは、守衛とかの雑用に回るのだけど……。自分の将来像が思いつかない。それと同じくらい、心が落ち着かない。あとはアジルの元に向かうだけなのに、アジルは今日は何を考えていて、今日は何を話せばいいのか。いつもいつも、アジルの所に向かう前には、身体の動きが硬くなる。
入口まで着いた時、クーシィが兜を脱いで石畳に転がり、槍を抱きしめながら休憩をしていた。ヴィーラの様子を一目見ると、表情を硬くして駆け寄ってきた。
「ヴィーラさま! 狩りの時間ですね!」
「い、いえ! 狩りじゃなくてお出かけで……」
「わかってます! すぐに準備します! 待っててください!」
クーシィが奥に駆け込んでいく。少し待つと、なめし皮で作られた背負い袋と、絹の布が一枚、そして何かの角をもってきた。固い動きのヴィーラから書物を受け取り、絹で柔らかく包み上げる。それを背負い袋に入れた後、角をヴィーラに手渡す。
角には樹皮紙が貼り付けてあった。中には<人間は一目惚れの時に電気を感じるらしい。ラミア族と一緒に痺れてみませんか? って言え>と書かれていた。ヴィーラは、固まった頭の中で考える。
(どうせ嘘だと思うけど。そんな嘘で勢いに乗らないと……アジルさんに元気に話しかけられない……)
ヴィーラは頑張っている。それをラミア族は全員で応援している。
「い……行ってきます!」
「ヴィーラさまがんばれー!」
緊張感で歩みが遅いヴィーラの後ろ姿を、クーシィは見えなくなるまで、ずっと見送り続けている。森に差し込む日差しには、春の温かさが満ち溢れていた。