柴蒼雲と炎香玉
横にいる男、柴蒼雲は、ギリっと唇を噛み、キッと私たち周りにいる人間を、順に睨みつけてきた。
唇から滴り落ちる血が、蒼雲の激情を物語っている。
「状元はどこだ! 出てこい!」
私が名乗りを上げないと、手当り次第に喧嘩を売りそうな勢いだ。
「状元は私です」
横から返事がくるとは思わなかったのか、蒼雲は一瞬、呆気にとられたような顔をした。
「……だと。納得できねえ! 俺と勝負しろ!」
師父……。試験に受かってすぐ、絡まれるとは思いませんでした。でも、師父は言ってましたよね、売られた喧嘩は優雅に買えと!
「お相手いたしましょう」
私は口元に笑みを刷き、滑らかに一礼した。
◆◆◆
武官宿舎の隣にある稽古場で、静かに戦いの火蓋が切られていた。
厳しい試験を潜り抜けた中でも、最上の成績である状元と榜眼の勝負とあって、武殿試合格者たちは、興味津々で二人を見ている。
「剣での勝負で良かったの?」
鋭い一撃を躱し、位置が交差する瞬間、私は尋ねた。
「余裕そうだな! 勝負は相手の得意分野でってな!」
そうかなあ? 闇雲に戦っても勝てないと思うけど。剣術、得意じゃないんだろうし。動きがぎこちない。それでも武殿試を榜眼で通過してるから、もしかしたら……
「貴方が得意なのは弓?」
蒼雲の動きを利用して転ばせ、その首元に剣を突きつける。
「ちくしょう……」
悔しげに私を見上げた蒼雲は、私の質問には答えず、服に付いた砂ぼこりを払いながら、立ち上がる。
俯いた顔は、乱れた髪で隠れてうかがい知れない。
弓での勝負なら負けていたかも。
「ねえ貴女の家って、武聖様の家なの!?」
「えっ? ……あ」
突然の可愛らしい声。横を見るが誰もおらず、服を引っ張られて、斜め下にいるのに気がつく。
小さい。
一瞬、お嬢様を思い浮かべてしまう。お嬢様もこのくらいの背丈だったな。だけど私より歳上で、お淑やかで、文科挙に若くして受かった才媛で。
「ねえ、ちょっと……」
「お前たち何をしている! 皇城は遊び場か!?」
少女が何か言おうとしたのを、怒声が遮る。見るからに、兵部省のお偉いさんだ。
◆◆◆
「流明蘭、柴蒼雲、炎香玉。お前たちは近衛府所属となり、皇太子宮に配属だが、異論はないな?」
眉間に深いしわを刻んだ兵部省の長官に、配属先を告げられ、異論は無いので肯定の返事を返す。
「ありません」「ない」「ないわよ」
さっき私の服を掴んでいた少女が、炎家の姫君だとは思わなかった。
「……無いのか? 特に炎家。お前は地方行き志望と聞いていたが」
「今は別のことに興味があるの」
腕を組んで、炎香玉を見た長官に、彼女はふわりと微笑み、私に視線を向ける。
私の何かが彼女の琴線に触れたらしい。
「そうか。仕事は明日からだ。今日はゆっくり休め」
◆◆◆
「武聖様は都に来ているの? それともまだどこかの州にいるのかしら?」
武官宿舎の与えられた部屋で、私は香玉の質問攻撃に晒されていた。
「ちょっと待ってください。武聖とは誰のことですか? そもそも、香玉様は、都に立派なお屋敷があるのでは? 宿舎にいるようなお方ではないでしょう?」
私に武聖と呼ばれるような知り合いはいない。いるのは育ての親である師父と、お嬢様の家族である霞家のみんなだけ。
「武聖様を知らないの!? 二十年くらい前の北方民族との戦いで、その名を轟かせた、流 浩俊様のことを?!」
浩俊……。師父の名前だぁ。そんなことやってたんですね。
「私の師父です」
「やっぱり! いつか合わせて! 一目だけでもいいから。それに、この部屋は私の部屋でもあるの。よろしくね。明蘭ちゃん」
勢いよく私に迫る香玉。彼女の長い髪がふわりと舞う。小さい体がすっぽりと私の腕に収まり、良くないとは分かっていても、お嬢様の姿と重ねてしまった。
春麗お嬢様、貴女が死んだなんて信じたくはない。だって亡骸さえ、霞家に帰ってきていないのだから……。