睡蓮の指環
荒れた夜のこと。暗雲が月を覆い隠し、雨粒が地面を叩き、風が木々を揺らし、屋敷の戸までも揺れていた。
今年生まれた妹を飽きることなく眺めていた少年は、屋敷の中がにわかに騒がしくなったことで、一緒にいた母親に視線を向けた。
「母上、何事でしょう?」
「確認してみましょうか。翡翠お願い」
少年の疑問に、赤子を抱えた母親が、部屋の隅に控えていた侍女に指示を出す。
「かしこまりました」
侍女は丁寧な礼をして、静かに立ち上がり、音もなく部屋を出て行った。
しばらくして、血相を変えた侍女が、慌ただしく部屋に戻ってきた。
「奥方様! 若様! 都から急報が! 貴妃様が大罪をッ。皇帝陛下が崩御され、一族は連座の刑を! お逃げください!!」
その知らせを聞いた母親の顔が、一気に蒼白になる。
緊迫した空気に、赤子は泣き出し、少年の表情も強ばった。
「旦那様は何と……?」
「官軍を屋敷で食い止めると。お留まりにッ。すでに軍が屋敷の目前まで! お早く、お逃げくださいッ」
「そんな……旦那様っ。……翡翠! 貴女も一緒に逃げますよ! 私一人では、子を二人も連れて逃げられませんから」
母親は一瞬悲しげに目を伏せた後、気丈な様子で動き出した。
「母上、外は雨です。逃げても、追い付かれるのでは」
母親に身支度を整えられながら、外を見ていた少年は、流石は名門貴族家の跡継ぎとも言うべき冷静さで、疑問を呈した。
「旦那様がきっと時間を稼いで下さいます。追い付かれる前に、州を超えられれば、あるいは」
「若様は本当に聡明でございますね。このようなことが無ければっ。貴妃様はなぜ」
母親と侍女はそんな少年に答えながら、忙しなく動き回り、支度を完了させた。
◆◆◆
母親は赤子を腕に抱き、少年は侍女に手を引かれ、森の中を走っていた。
屋敷からは随分と遠くまで逃げてきたが、ぬかるみに残った足跡で、しつこく武官たちが追ってくる。
母親と侍女には多少武の心得があるらしく、交戦しながらの逃避行だった。
それでも四人は白州の森まで逃げることができていた。
だが、とうとう体力の限界に達したらしい母親がよろめき、背後から飛んできた矢に、心の臓を貫かれる。
「ひ……すい! れい……」
口から血を滴らせた母親が、少年と侍女に片腕を伸ばす。しかし、そのまま倒れ込み、動かなくなった。
「母上ッ!」
「奥方様ーー!」
矢は母親に抱かれていた赤子にも、突き刺さったかのように、少年には見えた。
それでも追撃は止まず、二人は悲しむ間もなく走る。
「翡翠! 妹はまだ生きてるかも!」
「若様ッ。ご辛抱くださいませッ」
少年は侍女に手を引かれて走りながらも、逃げてきた道を振り返る。
一度に家族全員を失った事を、信じたく無かったのだろう。
侍女は涙を流しながら、少年を諌めて走り続ける。
背後を振り返りながら走っていた少年は、この時飛んできた矢に片目を傷つけられ、深手を負う事になった。
◆◆◆
母親が倒れた辺りから、追っ手は減ったようだったが、侍女と深手を負った少年の体力は限界に近く、森を抜ける頃には武官に囲まれていた。
「この子は私の子です! お見逃しください」
侍女の主張も意に介さず、周りの武官たちが武器を振り上げる。
「お待ちなさい。白一族が治める土地で、血を流そうとしているの?」
二人が斬り伏せられる寸前、透き通っていて威厳に満ちた声が辺りに響き、武官たちの動きを押し留めた。
「女、子どもを害そうとなさっているそこの者たち。後暗い者でないなら、こちらに来て身の潔白を証明なさい」
通りがかりの輿の中から、一人の女性が顔を覗かせ、武官たちを呼び寄せ誰何する。
武官たちは顔を見合わせ、互いに頷くと蜘蛛の子を散らすように、森の奥に姿を消した。
少年と侍女の逃避行は、高貴な女性の登場により、終わりを迎えた。
◆◆◆
最近はあまり見なかったというのに。
寝床から上体を起こした男は、疼く片目を抑え、唇を噛み締める。
やはり、濡れ衣を晴らさない限り付き纏うのか。それとも、妹が早く見つけてくれと、促してきているのか。
部屋から見える夜空には、あの時とは違って満天の星と輝く月が登っている。
月明かりが妹の事も照らし出してくれれば……。
首から下げている守袋を握った。
守袋の中には、家紋の睡蓮の絵が刻まれた指環が入っている。
濡れ衣を晴らした暁には、この指環を堂々と身に付けよう。
それまではどうか、守袋の中で私と妹をお守りください。




