8.猫を追う③蔦は樹木を枯らす
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「司さん、コユキがそっちに行ったわっ、お願いっ!」
「はっ、はいっ」
威勢よく返事をしてみたものの、子猫は足の間をすり抜け下草の中に潜り込んでしまった。それを見た高科夫妻は大きなため息をつき、落胆の色を隠しもしない。
――っていうか、がっかりするぐらいなら、あんたらの娘をなんとかしてくれ。
こめかみに青筋が浮きそうになるのを抑えつつ、司は内心毒づいた。
それもそのはず司の剥き出しの左腕には、白のサテンとレースのカタマリと化した雪子がしがみ付いていたからだ。いくら司が大柄といっても、女子高生ひとり引き摺って機敏に動くことには無理がある。
そしてまた高科夫妻も、決して雪子を窘めることはないのだった。
――自分が馬鹿だった。こんな親子放って置いて、勉強でもしてればよかった。
こっちは成績の維持だけで大変だっていうのに。司がそう悪態をついても、もはやあとの祭りである。
「髪を伸ばしているのねぇ。中学の時はほとんど刈り上げ状態だったのに」
「ゆっ、雪子には関係ないだろっ!」
司は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして怒鳴り付けた。色気づいちゃってーと言いながら、雪子は伸び掛けの司の髪に白い人差し指を絡ませる。吐き気や過呼吸に襲われるよりは、怒鳴っている方がマシだろう。うん、何とか大丈夫そうだ。
「ねぇねぇ、往復三時間も掛けて高校に通うって、どんな気持ちー?」
「どっ、どうもこうも、サラリーマンが通勤するのと同じことだよ、別に――」
「どうして違う高校に行ったの?」
ぶっすりと、本題を突いてきた。
「いっ、行きたい科があったから」
「司ちゃん、普通科よね?」
「いや、えーっと、部活動が盛んで――」
「もうテニスやってないじゃない。帰宅部だよね、司ちゃん」
「……遠過ぎて、通い切れなくて……って、なんでそんなこと知ってるんだよ」
しぶとく腕にしがみ付いたままの雪子は、司の問いには答えず、
「その割には、筋トレ続けてるみたいだけど」
そう言って、司の逞しい二の腕を揉み込みながら、可愛らしい小さな鼻をくんくんとTシャツの肩に押し付ける。
「臭い嗅ぐのやめて。揉むのも禁止」
「いいじゃない、私、司ちゃんの匂い、いい匂いだから好きよ」
「いや、ただ汗臭いだけだから」
雪子がこれだけ煽ってくるのには、それなりの訳がある。
なにせ司は、入学願書出願直前になってから、誰にも内緒で遠くの高校へと進学先を切り替えたのだ。希望する進路を、両親にさえ明かすことはなかった。
「いつかは話してくれるだろうって思って、ずっと待ってたのにー」
「いっ、いろいろ忙しかったんだよ。べっ、勉強とかっ」
ギリギリの成績で入った進学校だけに、勉強についていくだけでやっとだ。
また、あまりに遠過ぎるため、部活動に入ることを両親から禁止されてもいた。
もしかすると、同じマンション内の母親同士の世間話で部活に入っていない等々の情報が漏れてしまったのかもしれない。世間話による奥様情報網、侮り難し。
しかしながら、雪子と同じ高校に通って一年前の病状を引き摺り続けるぐらいなら、この不便な現状を耐え忍ぶ道を選ぶしかなかったのだ。
とにかく、早くコユキを捕まえて高科一家にお引き取り願わねば。
「っていうか、どうしてコユキはアンタ達から逃げ回ってんだよ。自分はあの子猫と接点がないからともかく、飼い主なんだからもっと慣れてるもんじゃないの?」
「三日間食事を抜いただけで脱走なんて、ホントに我慢ができない子ね」
蔦のごとく腕に絡まる雪子はしれっとした表情で言ってのけながら、司の木肌のように黒い腕を締め上げる。こうやって、蔦は樹木を枯らすのだろうか。
「え、子猫の餌を三日も抜くって、いったいなにをしでかした?」
「トイレを一回、失敗したから」
「……それだけのことで?」
思わず言葉に詰まる司を尻目に、私なんか小さい頃にお洋服を汚しただけで一週間ごはん抜きとか当たり前だったわよと、雪子が肩を竦めて見せた。