13.紺ブレザーと白いヤツ
そしてあの不可思議な出来事から一週間が経過し、ようやく身体から腫れが引いて目立たなくなってきた、月が変わって十月のとある朝のことである。
登校するため、久し振りに紺ブレザーの冬服に袖を通した司は、洗面所の鏡の前でポーズをとってみた。自画自賛だけれど、自分ではセーラー服よりもブレザーの方が似合うと思うのだ。どうもセーラー服を着た自分は、風俗のコスプレ衣装みたいで不自然に見える気がして仕方なかった。
紺サージのセーラー服は、可憐な容姿の雪子にこそ相応しい。
「母さん、いってきま…………あ、忘れるところだった。お供えお供え」
コユキが自分を助けてくれたことが、故意か偶然かは分からない。
けれど、命の恩猫に感謝の意を表し、あれ以来毎日猫の餌をガスメーターボックスに供えることにしているのだ。コユキのスローライフは快適で、猫用トイレと水飲み場、猫用ベッドも完備である。今月の小遣いは全部吹っ飛んだ。もちろん母親には内緒である。ちなみにガス・水道の検針時には移動させるつもりだ。
司には、コユキを捕まえるつもりはなかった。せっかく自由を得たのだ、それをまた自分が捕えてしまったら、逃げ出した甲斐がないというものである。
というよりも、ぶっちゃけ捕まえるのは不可能だった。亡霊すらも振り切ったコユキは、すばしっこ過ぎる。これだけ貢いでも、司はひと撫でもさせて貰ったことすらなかった。コユキもなかなかの悪女であると言えよう。
ちなみに奥様情報網によればコユキは避妊手術済とのことで、これ以上野良猫が増える懸念はなかった。また、マンション住人の中には禁止されているペットを勝手に飼っている人も多いそうで、マンション管理規約は有名無実化しつつあるらしい。そのうち規約が改正されるかもしれないと、母親が言っていた。
朝からひと仕事終えた司は、半地下の玄関から階段を一気に駆け上がる。
爽やかな秋風の吹く私道を、スポーツバッグを肩に掛けて短めのボックスプリーツのスカートの裾を揺らしながら、駅に向かって元気に歩き出した。
これからまた、満員電車に揺られて一時間半のサラリーマン登校の日々である。
まさに、薄汚く老いさらばえて惨めな一生を送って死ね――そう雪子に罵られた通りの人生を予感させるようで、司は少しだけ笑った。
雪子の死は、知らされてから一週間たった今でもまるで実感が湧いてこなかった。そして、雪子のことを忘れることは、一生できないような気がした。
あちら側に連れていかれそうになって、自分は怒っているのだろうか。それとも雪子を失ったことが悲しくて思考が停止しているのか、司にはよく分からない。
この先どんな人生になるのかは未知数だが、雪子ほど司の心の奥深くにまで踏み込んで来ようとした他人はいなかった。今後も、誰も入れさせる予定はない。
そこに在るのは、膝を抱えた小さな自分と、入り口を探して虎視眈々と辺りを彷徨く雪子だけだ。
入る権利があるのは、雪子だけ。けれど、雪子はもういない。
今でも時折、庭の方から何かが歩くような音がすることがある。
けれど司はもう、カーテンの隙間から覗いてみる気にはなれなかった。またあの親子に出会い、迷い猫探しなど手伝わされては敵わないからだ。
正直、あんな目には遭うのは二度とごめんだ。
しかしながら、既に心に住み着かれている可能性も低くはなかった。
何故なら、司の胸に押された見えない刻印が、雪子の黒目がちの瞳や小さな膝頭を忘れさせまいとでもいうように、時折じくじくと疼くのだから。
「――雪子のことを子猫みたいだと思ったけど、アレは違ったな」
甘くひんやりするその名前を、司はそっと舌の上に乗せて転がしてみる。
怯え切った子猫は雪子ではなく、本当は自分の方だった。
雪子の真綿のような呪縛から逃げ出した自分は、まさに高科親子から逃げ出した子猫の姿、そのままではないか。思い出し笑いで、口の端がヒクヒクと歪み出す。
ふいに、何かが司の頬を伝って流れ落ちる。
それは撥水加工されたボックスプリーツの上を転がり、アスファルトに点々としみを作った。
自分は、泣いてなんかいない。雪子を突き放した――階段下で雪子の柔らかい身体を押し遣ったあの時に、涙を流す権利など、とうに失くしているのだ。
流れ落ちる涙を拭いもせず、司は力強い足取りで駅へ向かって歩き続けた。
あれから一度だけ、胴体が少し長くなった白いヤツの姿を見掛けた。
マンション内の敷地の、経年劣化でスカスカになったサンゴジュの植え込み向こうに、白いふわふわ頭がちょこんとのぞいていた。
まだビチビチと跳ねているトカゲの尻尾を、膨らんだ口の端から得意げに覗かせていたのだ。本当は、司がお供えなどなくても元気にやっていけるんだろう。お供えを食べてくれる行為は、白いヤツなりの生存報告なのかもしれない。
猫保護団体の人達が、ついに動き出したという話を母親から聞いてはいたが――もちろん司が貢いでいることなど知らず――専門家といえど、捕獲は長期戦の構えになるに違いなかった。
自分じゃ無くても、誰かが大切に飼ってくれるのならそれでいい。
けれど、そう易々と捕まるだろうか。あの、しつこい亡霊共からすら逃げ果せた、白いヤツが。
あの白いヤツは自由を得た。
ひとりで野垂れ死ぬ自由を、手に入れたのだ。
司も同じだった。
何かが庭でにゃーと鳴いても、司はもう耳をそばだてることはなかった。
―― 了 ――
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