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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

連載予備軍

魅了の魔法が解けたので。

作者: 遠野


 わたくしはウィロウ・フォン・イグレシアス。

 イグレシアス侯爵家の娘にして、王太子殿下の婚約者です。


 殿下との婚約は幼少期に王家から打診いただいたもので、内定されてから十年、日夜きびしい王妃教育に励んできました。


 もちろん、王妃教育のかたわら、殿下との絆も確かに深めてきたと自負しております。

 王妃とはすなわち国母であり、王をもっとも近くで支える妻でもありますので、婚約者の地位に胡座をかくなど笑止千万。


 揺るがぬ信頼関係を築き、愛を育む。

 それもまた、婚約者として大切なことなのです。


 実際、わたくしたちの仲は睦まじく、つつがないものでありました。

 わたくしと殿下のような関係になりたいものだと、同年代の令息令嬢が噂していると聞きます。


 それだけ周囲に認められている、ということですので、嬉しくもあり、誇らしくもあり、けれどほんの少し恥ずかしいような気持ちもあります。

 我がことながら、乙女心はなんとも複雑怪奇なものです。


 けれど、婚約して十年という節目の年、わたくしたちの関係に暗雲がたちこめるようになりました。


 きっかけは、そう、【純潔の乙女】──イルゼさんが現れたこと。

 神の祝福を受けた彼女はあらゆる穢れを払うことができる存在として、平民の生まれでありながら、殿下のおそばに侍ることを許されたのです。


 穢れには毒も含まれるようで、なるほど確かに、彼女が殿下に侍るのは理にかなっているのでしょう。


 我が国の次代を背負う、才色兼備の麗しきヘンリー王太子殿下──。その命を狙う者は国内にとどまらず、毒殺を狙われたことも数知れません。

 あの御方を守るために、イルゼさんがおそばに侍るのは、何よりも効果的と言えます。


 ……けれど、彼女は。

 あろうことか、【純潔の乙女】という地位を利用し、殿下に色目を使い始めたのです。


 殿下はお優しい方ですので、イルゼさんが傷つかぬようやんわりと貴族の礼儀を説いて拒絶するのですが、彼女はわかったふりをするだけで決して引き下がることはありません。

 婚約者たるわたくしの目の前で、はしたなく殿下に抱き着き、手を握り、果ては口付けまで──。


 ……わたくしは、その光景を、呆然と見ていることしかできませんでした。

 胸が張り裂けそうなほどの痛みに耐え、筆舌に尽くし難い悲しみを堪えることで精一杯だったからです。


 大好きなヘンリー殿下。

 幼い頃から、ずっとずっと慕っているのです。


 わたくしはあの御方だけを見てきて、あの御方もわたくしだけを見ていてくださった。

 決して側室は取らないと、わたくしだけを愛すると誓ってくださった。


 殿下が王位を継ぐ以上、それが不可能なことだと理解していても、わたくしは、その誓いがとても嬉しかった。

 王妃教育がどれほど辛くとも、苦しくとも、殿下の愛さえあればすべて乗り越えられる。そう、信じていた……。


 ──けれど、ああ、そんなことはなかったのです。


 たとえ殿下のお心がわたくしの元にあっても、それが揺るがぬ真実であるとわかっていても、わたくしは許せない。

 己が身の程を弁えず、殿下に擦り寄り、あまつさえ口付けしたあの売女ばいたを。


 殿下に触れて良いのはわたくしだけ。

 殿下が触れるのはわたくしだけ。


 殿下に愛を囁いて良いのはわたくしだけ。

 殿下が愛を囁くのもわたくしだけ。


 殿下と言葉を交わして良いのも微笑み合うのも隣に並んで良いのも身も心も捧げて睦言を交わし口付けして寝所を共にし肌を重ね交わり滾る昂りを受けて果てその熱に身を溶かして子を為すことが許されているのも全部ぜんぶ、このわたくし──ウィロウ・フォン・イグレシアスだけなのです。


 ですから、ええ、イルゼさんには身の程を知っていただかなくてはなりません。


 彼女のように卑しい生まれの下賎の民が、殿下の寵を得ようだなどと考えることがそもそも烏滸おこがましいのです。

 ましてや実際の行動に移し、アプローチをするなど言語道断。


 【純潔の乙女】、なんするものぞ。

 神の祝福ごとき・・・が一体なんだと言うのです。


 殿下とわたくしの前にすべては塵芥と等しく、横槍を入れようとする者は皆すべからく死ねば良い。

 それが第二王子とも通じるような尻軽女であれば、生かす理由もございません。


 身を焦がすほどの怒りと憎悪の念──世に言う嫉妬、という感情に駆り立てられるまま、わたくしは行動に移りました。


 まずはじめに、人払いの魔法で殿下はもちろん、生徒、教師、王家の影に至るまで、余計な人間をすべて排し、イルゼさんと二人きりの状況を作り上げました。

 周囲の静けさに対して何も気付かず、違和感も持たない彼女に接近したのは、下の階層へ降りようと階段に差し掛かったタイミング。


 あとはそう、その背中を押して突き落としてしまえば良い。

 たったそれだけの簡単な手順をこなせば、邪魔な人間は消えてしまうのです。


 ドキドキと高鳴る胸に急かされるまま、わたくしはイルゼさんの背中を押しました。


 お前なんか死んでしまえ、と。

 本気でイルゼさんを呪い、その死を願って、華奢な体躯を宙へと押し出して──。


 パチン


「「……え?」」


 わたくしとイルゼさんは、それぞれ、戸惑いの声を上げました。


 イルゼさんは言うまでもなく、身体が突然、宙に躍り出た現実に思考が追いついていないのでしょう。

 けれど、わたくしは……。


 わたくしから殿下を奪おうとする彼女が腹立たしくて、憎くて、恨めしくて仕方なかった。

 死んでしまえと思っていたし、なんならいっそ殺すつもりだった。


 だから、わたくしは、イルゼさんを突き落とそうとした。

 ……はず、でした。


 しかし、不思議なことに、わたくしが抱いていたはずの憎悪も、嫉妬も、殺意も、何もかもが瞬きの刹那に消えてしまったのです。


 まるで最初からそんなものはなかったのだとでも言うように崩れ去り、残ったのは、ただだだまっさらな心……。

 わたくしの中で渦巻いていた禍々しい感情が浄化されたようだ、と言って過言ではないでしょう。


 そして同時に、殿下への狂おしいほどの慕情もまた、砂の城のようにさらさらと跡形もなく消えていくのを理解しました。


 なんとも不思議な感覚です。

 この十年、ほとんどずっと連れ添ってきた想いだというのに、慕情が消えることに惜しむ感情も恐れる心も、何もありません。


 嘘偽りなく、何もないのです。

 ただただ無である、とでも申しましょうか。


 はて、わたくしはこんなにも、殿下に対して無関心だったかしら……?


「きゃああああぁぁあっ!」

「っ、イルゼさん!!」


 ああ、そんなことより、今はイルゼさんです。

 このままでは、彼女は階段から転がり落ちて大怪我を免れません。


 いえ、元を正せばわたくしが、相応の意図をもっておこなったことですから、それは当然なのですが。

 たとえ誰に信じてもらえずとも、先ほどまでのわたくしと、今のわたくしは違うのです。


 イルゼさん。イルゼさん。みなしごでありながらも苦境に負けず、清く、正しく、美しく育ったいとけなき貴女。

 神の祝福という名の寵愛を賜った、【純潔の乙女】──。


 我が国の至宝たる彼女を、国母を目指すわたくしが守らずしてどうすると言うのでしょう?


 ええ、そうです。

 わたくしは、わたくしの狂気が成したおぞましい凶行から、イルゼさんを守らなければならないのです。


「──えっ?」


 わたくしがしたことは、とても簡単なことです。


 指先ひとつで重力を操作し、イルゼさんを身体を物理的に軽くする。

 そして、軽くなった彼女の腕を引いて、階段上まで引き戻す。


 ほら、工程はたったこれだけで、淑女の例に漏れず非力なわたくしでもできるナイスアイデア。


 我ながら、とっさの機転のわりに、よく思いついて実行したものだと思います。

 イルゼさんも驚いて目を丸くしていらっしゃいますし。


「……あら?」


 惜しむらくは、イルゼさんを引き戻した際、勢い余ってわたくしが宙に身を投げてしまったことでしょう。

 完全に彼女と入れ替わるかたちで、わたくしは階段下まで真っ逆さま。


 自分では冷静なつもりでいましたが、内面の劇的な変化にやはり動揺していたようです。

 前へ前へと流れていく景色に、少しずつ遠くなっていくイルゼさんの姿に、やっとのことで間抜けな声を上げました。


 イルゼさんに使った重力操作の魔法を使えば、あるいは、来たる衝撃を和らげることもできたのかもしれません。

 しかしわたくしの頭の中は予期せぬ事態に真っ白で、自分の身を守る術なんてちっとも思い浮かばなかったのです。


「イグレシアス様!」


 悲鳴のような声でわたくしの名を叫ぶイルゼさんは、とても焦ったお顔をしていて。

 きっとわたくしのことを心配しているのだろうと、ありありと読み取ることができました。


 ……ふふ、本当に馬鹿なひと。

 貴女を突き落とそうとしたわたくしを心配するなんて、お人好しが過ぎるのではないかしら?


 けれど、ええ、そんな貴女を害そうとしたわたくしが愚かだったのです。

 走馬灯のように脳裏を駆け巡るイルゼさんの姿を回顧し、しみじみとそう思います。


 何故なら、いつだって彼女は品行方正で、礼儀正しいひとだったのですから。


 自分に祝福を授けてくださった神に報いるように一生懸命で、【純潔の乙女】の名に恥じぬよう、与えられたお役目をこなそうと努力を欠かさなかった。

 第二王子のアレクシス殿下に励まされながら、周囲の圧力に負けず、挫けず、ただまっすぐに前を見据えていて──。


「……ああ、なんてことかしら」


 わたくしったら、どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんでしょう?


 脳裏によぎる、アレクシス殿下とイルゼさんが見つめ合い、微笑みを交わす姿。

 それはくしくも今までのわたくしとヘンリー殿下そのもので、ほかの誰にも付け入る隙なんてないのは明白です。


 たとえ横恋慕が・・・・・・・ヘンリー殿下の方で・・・・・・・・・あったとしても・・・・・・・、あの、相思相愛の二人を引き裂くなんて無理に決まっています。


 わたくしの嫉妬はきっと、何か……思い違いがあった結果なのだと思うのです。


 恋は盲目、とでも申しましょうか。

 であれば、これは、なるべくしてなったことなのでしょう。


 因果応報。悪因悪果。

 自業自得とはまさにこのこと。


 いうなれば、イルゼさんを見初めた神からの天罰が下ったのです。


 愛し子を傷つけようとしたわたくしを、神は見放した。

 ただそれだけの話です。


 がつん、と階段の踊り場に頭を打ち付ければ、強い痛みが走りました。


 頭の中がぐわんぐわんと揺れる感覚に、白く明滅する視界。

 立ち上がるどころか身を起こすこともできないまま、音が、世界があっという間に遠のいていきます。


 ──意識を手放す間際、泣き出しそうな顔でわたくしに寄り添うイルゼさんの肩越しに、鬼のように恐ろしい形相のヘンリー殿下が見えた気がしました。



   ☩



 さて。


 それでは、三日前の回想が終わったところで、改めて情報確認をしようと思う。


 の名前はウィロウ・フォン・イグレシアス。

 イグレシアス侯爵家の娘にして、王太子の婚約者。


 三日前の放課後、通っている学園にて【純潔の乙女】ことイルゼさんを突き落とそうとし、とっさのところでこれを回避。

 彼女を助ける代償として階段上から真っ逆さまに落ちた私は、頭を打ち付けた衝撃で脳震盪を起こして失神した。


 目立った外傷はなく、問題もなかろうと校医に診断されたものの、今日までの三日間、大事を取って女子寮の自室で療養している。


 ──そして、何よりも重要なのは、今の私と三日前までのウィロウわたくしがほぼ別人である、ということだ。


 有り体に言えば、私は転生者である。

 それも、昨日今日に意識を取り戻したわけではなく、生まれた時から彼女ウィロウの中に息づいていたタイプの転生者。


 つまり、私と彼女は同じ身体を共有するものの、完全に独立した存在というわけだ。

 身体の主導権を持つのも主人格もウィロウなので、私は彼女の中にひっそり居候するおまけ・・・のようなもの。


 そんなわけで、直接的・間接的な干渉は何もできず、この十八年間は彼女の成長を見守ることしかできなかった。


 とはいえ、不自由な状態での転生ではあったけれど、退屈することはまずなかったことを記しておく。

 何せ私が転生したのは剣と魔法のはびこる異世界、それも侯爵家のご令嬢という生まれなのだ!


 前世とはまるで違う生活、文化、景色……。

 何をとっても飽きることなんてないし、目新しさは更新されるばかり。


 前世は金持ちだなんて到底言えない、ごくごく一般──よりもちょっと下くらい? の生活だったから、侯爵家の贅を尽くした生活はもちろんのこと、ノブレス・オブリージュを体現するための厳しさには目を見張るしかない。


 ──とまあ、模範的な回答をしたところで、取り繕うのはやめにして。


 何よりも魔法。魔法ですよ皆さん!! ……なんて。

 誰に語りかけてるのか自分でもわからないけど、とにかく魔法というファンタジーの産物が実在することにテンションが上がりっぱなしなのは、きっと理解してもらえると思う。


 しかもウィロウはとびきり魔法の素質に優れているようで、難しいと言われる魔法もちょちょいのちょい!

 誠に勝手ながら、彼女の姉のような母のような気持ちで見守っていた私は、とっても優秀なウィロウに鼻高々な気持ちで興奮しまくっていたのであった、まる。


 ……まあ、そんな彼女も、自力で魅了チャームを解くことはできなかったみたいだけど。


 今から十年ほど前──ウィロウが齢八歳の頃は、まだ平和だった。


 婚約者である王太子との関係もつつがなく、微笑ましくて。

 王侯貴族の結婚なんて政治の道具でしかないし、愛がないのが普通だけれど、この二人の様子ならきっと大丈夫──そう思えるくらい、幼いウィロウと王太子はとても仲の良い婚約者だった。


 そんな二人に転機が訪れたのは、婚約して二度目の記念日を迎えた日。

 毎月定例のお茶会を終えて、お城の庭園を散歩していた時のことだ。


 いつも通りの完全無欠っぷりを装いながらも、どこか心ここにあらずで上の空というか、様子のおかしい王太子……。

 ウィロウは当然、らしくもなくぼんやりした婚約者を心配していたし、かくいう私もどうしたのだろうと気になっていた。


 そりゃあ、妹のような娘のような女の子の婚約者なんだから、多かれ少なかれ気になるのは当たり前だろう。

 まして、幼い子どもが相手であれば、なおさらそうだ。


 ……あの日、あの時のことを、私は今でもハッキリとおぼえていて。

 少し目を閉じれば、まるで昨日のことのように思い出せる。


 ウィロウ、とあの子を呼ぶ王太子の、十歳の少年とは思えないくらいねっとりとした粘着質な声。

 華奢な少女の肩を砕かんばかりの力で掴み、どろどろと濁って澱んだまなこが、無垢な彼女のこころを覗き込む。


 ……そう、それが、あの忌まわしい魔法を発動させる条件だった。


 王太子と視線が交わった瞬間、ウィロウの在りようは──魂は、ぐにゃりとねじ曲がった。

 決してあの子が離れて行かぬように、裏切らぬように、王太子に従順で盲目なお人形さんへと書き換えられてしまったのだ。


 ……ウィロウの中に存在し、ずっとウィロウの魂に寄り添っていた私には、その変化が肌で感じられた。


 王太子に抱いていた純粋な敬愛と親愛はいびつに形を変え、歪んだ情愛へと変転し。

 あの子の思考も言動も、何もかもが王太子という存在に侵され、汚染される──。


 私にはそれがおぞましく、いたましくて……何より、とても悲しかった。


 ウィロウ。ウィロウ。

 王太子に狂わされてしまった、私の大切な女の子。


 侯爵令嬢という立場にありながら、あまりにも善良で、優しくて、何事にも一生懸命な頑張り屋さんで。

 普段はちょっと抜けてるんじゃない? なんて思うくらいおっとりしているのに、時には周囲がびっくりするような誇り高い姿や、行動力を見せる子だった。


 そんな君が私は大好きで、可愛くて仕方なかったんだ……。


 ずっと助けてあげたかった。

 解けるものなら、私が魅了を解いてあげたかった。


 好きなものを好きと言うことも、嫌なものを嫌と言うこともできず、思考言動趣味嗜好存在意義に至るまで何もかも王太子の存在に歪められた君を見ているのが、私にはひどく辛くて、悲しくて。

 あれほどウィロウに干渉できないことを悔やんだのは、後にも先にもないと思う。


 無力な私が歯がゆい思いでウィロウを見守り続け、長い長い年月が過ぎ──その日々は、三日前に突然の終わりを告げた。

 嫉妬に狂ったウィロウがイルゼさんを突き落とそうと触れた瞬間、【純潔の乙女】の穢れを払う力が、ウィロウにかけられた魅了をうち払ったからだ。


 詳しい話をウィロウが聞いたことがないから、私も知らない。

 だけど、恐らく、【純潔の乙女】が持つ力というのは、RPGゲームで言うところの万能の霊薬エリクサーに近い能力なんだろう。


 イルゼさんが触れた相手を蝕むあらゆる弱体化デバフを解除するとか、そんな感じの力。

 ウィロウにとっては不幸中の幸いみたいなものだけど、本当に、イルゼさん様々だ。


 でも、まさか、魅了が解けたことでウィロウが消えてしまうなんて……そんなの、一体誰に予測できただろう。


 転落事故のあと、一度はちゃんと、ウィロウは目を覚ましていたんだ。

 だけどそのあと、あの子は自分の身に起きていたことを──王太子に魅了の魔法をかけられていたことと、それがイルゼさんのお陰で解けたことを、一から十まで自分の力で理解して……ウィロウの心は、大きな恐怖に支配された。


 王太子に魅了の魔法を使われ、自由意思が奪われていたこと。

 しかしそのことに、自分自身を含め、誰一人として気付いていなかったこと。

 王太子に魅了された自分が嫉妬に狂って人ひとりを殺そうとしたこと。


 そのすべてがウィロウにとっては恐ろしく、……その何よりも、王太子という人間が怖かった。


 ウィロウには王太子が何故、自分に魅了の魔法を使ったのか、まったく理解ができなかった。

 けれど、冷静に状況を思い起こして判断し、魅了の魔法をかけられた自分が王太子に弄ばれていたことだけは理解できたのだ。


 王太子がイルゼさんを使ってウィロウの嫉妬を煽り、その様子を見て恍惚としていたことを、あの子はちゃんと理解してしまった……。


 だから、そう、ウィロウが王太子を怖がるのも無理はない話だ。


 アイツは婚約者に愛を囁いているようで、その実、愛しているのは自分の玩具でしかない。

 だからお人形さんが人を殺そうと構わないし──それどころか、愉しんですらいる始末だ。


 でも、そんなの、ウィロウは嫌だった。許せなかった。

 あの子は王太子の婚約者であることに、自分が国母となり夫と共に国を導いていくことに誇りを持っていたのだから。


 ……なのにウィロウは、王太子によって都合のいいお人形さんにされてしまった。

 彼女の誇りは穢され、土足で際限なく踏みにじられた。


 そんな悪魔のような所業を、どうして誇り高いあの子が許せると言うのだろう?


 ……けれど、アイツは腐っても王太子だ。

 完全無比な王太子という、分厚い面の皮を被ったクソ野郎。


 たとえウィロウが被害を訴えたところで、誰にも信じてもらえない可能性の方が高いし、口封じにと王太子に再び魅了の魔法を使われてしまうかもしれない。

 むしろ、こうして魅了が解けていることを知られた時点で、王太子は魔法を使ってくるんじゃないか。


 ……そこまで思考が至った時の、ウィロウの恐怖は、絶望は、私には計り知れない。


 ウィロウが侯爵家の令嬢であり、王太子の婚約者である以上、絶対にアイツから逃げることはできなくて。

 死ぬまでずぅっと、王太子のお人形さんとしてしか生きられない──。


 その事実にあの子は打ちひしがれ、抱えきれないほどの恐怖と絶望に見舞われて、そして。


「誰か助けて……」


 ……そんな、胸が締め付けられるような呟きを最後に、あの子は溶けるようにして消えてしまったのだ。

 ずっと一緒にいたはずのウィロウの魂が、もう、私には感じられないし、どこを探しても見つからない。


 だからだろうか。決してウィロウに干渉できなかったはずの私が、完全に表に出てきている。

 手も、足も、魔法の力も。何もかも、私の意思で自在に動く。……動いて、しまう。


 胸にぽっかりと穴が空いたような空虚感と、その穴をいっぱいに満たすほどの寂寥感せきりょうかんと、この身を引き裂くような悲哀とで、それからまる一日、涙が止まらなかった。

 侯爵令嬢という立場も忘れ、みっともなく声を張り上げてわんわん泣いて、泣いて泣いて、泣き続けて──ようやくすすり泣きも落ち着いたところでの、状況確認。


 それが、今日いまだ。


「……しっかりしろ、私」


 パチン、と軽く自分ウィロウの頬を叩き、動揺の冷めやらぬ己へ喝を入れる。


 あの子の行方が知れないことはたまらなく不安だし、悲しみも未だ抜けやらない。


 ……だけど、駄目だ。

 それじゃ駄目なんだ。


 いつまでもいつまでも泣いているだけじゃ、何も始まらないし、変えられない。


 助けて欲しいと、消える前にウィロウは言っていたじゃないか。

 なら、私は、その願いを叶えてやらなくちゃ。


 あの子のこころが今、どこにいるのかは、てんで見当がつかないけれど。

 それでも、身体が未だ、ここに在ることは確かで。


 だったら私は、あの子の願いを──王太子から逃げおおせることを、必ずや成し遂げてみせよう。


 いつか、あの子が戻ってきた時に、何も怯えることがないように。

 心の底から笑えるように。なんとしてでも王太子から逃げ延びて、アイツの手が届かない場所に行かないと。


 幸運なことに、私はウィロウと記憶・知識・経験の共有ができている。

 潤沢な魔力も、魔法の才能も、人格が変わっても変わらず健在だ。


 もちろん、感覚を掴むための練習は少し必要だろうけど、それさえ終われば魔法は自由自在に使えるはず。

 それだけで、逃避行の難易度はぐんと下がる。


 当然、たった一人ですべての根回しを行い、スタコラサッサと逃亡するだなんて、ぽっと出の転生者in侯爵家の箱入り娘には難易度・ルナティックに等しい。

 そんなのは指摘されるまでもなく、とっくのとうに百も承知だ。


 でも、これまたラッキーなことに、私には協力者にできそうな人に心当たりがあった。

 『あの人』なら、こちらの事情を話せばきっと手を貸してくれるだろう。


 ウィロウは気付いていなかった……というより、無意識に思考から除外したせいで思い至らなかったようだけど、『あの人』だけはウィロウに魅了の魔法がかかっていることを見抜いていたから。


 ウィロウのため、というのはもとより、国のためにも必ず手を貸してくれる。

 そういう人なんだ、『あの人』は。


 よし、そうと決まれば善は急げだ。

 王太子は当然として、私の監視を担っている王家の影や、学園内の知人友人、両親にも気付かれないよう、迅速に最低限度の準備を進めないといけない。


 仮病を使ったずる休みに違和感を持たれないうちに根回しして、本当に必要なものだけ持って、誰にも知られずここから姿をくらませる。

 それが今、私がこなすべき最初のミッションだろう。


 ……いやもう本当に、初っ端からミッションの難易度が高すぎて笑えないんだよなぁ!


 だけど、うん、困難なことではあるけど、不可能ではないはず。

 少なからず、私の心が躍っているのがその証左だ。


 王太子による支配からの脱却──私には、間違いなく、それこそがアイツを破滅させる第一歩になる、という確信があった。


 ウィロウの中にいる間、私にできることなんて、ほとんど何もなかったけれど。

 そんな私でも唯一できたのが、ウィロウを通して王太子を観察し、考察し、アレ・・の弱点を見抜くことだった。


 アレ・・が何を恐れ、忌避しているか、私は知っている。

 そして、『知っている』というのは、それだけで十分すぎるくらい強力なことだ。


 だから私は、今までに得た知見を使って、必ず、王太子から逃げ延びてみせる。

 そしていつか、絶対に、あの子を傷つけた報いを受けさせてやる。


 『ざまあみろクソ野郎』って、人を弄んだヤツのみじめで無様な末路を見て嘲笑ってやるんだ。


「……だからそれまで、待っていてね」


 どうか、どうか、私の気持ちがウィロウに届きますように。

 ウィロウの心に、ほんのちょっとでも、安心と安寧をもたらせますように。


 そんなことを祈りながら、胸のあたりに手を置いて、行方知れずのあの子にそっと語りかける。


 ──私はウィロウの一部であって、決してウィロウではない存在モノ

 前世に大きく寄った思考と言動という、決して小さくはない王太子が知らないことアドバンテージがある限り、王太子から逃亡し、アイツを破滅させることの成功率はそこそこ・・・・あるはずだ。


 あの子のためにも、私は、私にできる十全の策と行動を取ろう。

 それからあとのことは、天運が私に味方してくれるかどうかに懸かっている。


 言うなれば、『人事を尽くして天命を待つ』ってヤツだ。


 ……。

 ……、……。


 ……魅了にかかっていた時のウィロウが、うっかり神様を軽んじるような言動を取ってしまったけれど、それが悪い方向へ作用しないことを願うしかないなぁ。


 さて、それじゃあ気を取り直して、まずは逃亡計画の第一段階と行こう。

 協力者候補の『あの人』に向けて、手紙をしたためるとしようか。


ノリと勢いで書いた作品でしたが、最後まで目を通していただき、ありがとうございました!


もし、ちょっとでも「面白かった!」「続きがあるなら読んでみたい!」と思ってくださった方は、ブックマークやポイント評価をいただけると嬉しいです。作者が泣いて喜びます……!


2022.7.6 異世界転移・転生の恋愛日間ランキングで1位をいただきました。本当にありがとうございます。活動報告の方で御礼と今後の予定を載せておりますので、よろしければご確認くださいませ。

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