第九話
教頭室のソファでくつろぎながら、健太と舞はお茶をご馳走になっていた。
一方で教頭は作業机に座り、パソコンに向かってキーボードをカチカチと打ち鳴らしている。
お茶を一口飲んだあと、健太は恐る恐る聞いてみた。
「授業さぼってるのに教頭先生は怒らないんですね」
「うちの教師は基本的に顔だけで選んでるからね。やる気もなければ授業も下手。まだYO○TUB○見てる方が勉強になるよ」
「そうだったんですか……」
舞が気抜けしたような声を出す。
「おっと、そういえば山下さんもいたんだったね。つい本音で話してしまったよ。健太くんとは心の友だから、すべて本音で話すようにしてるんだよ」
「わたしは健太さんと心の友です」
「そうだったのか……じゃあわたしとも心の友だ」
健太の目の前でどんどん話が進んでいく。
(そもそも……心の友ってなんだ?)
そんな風に思いながら、教頭と舞が心の友になる瞬間に、健太は立ち会った。
「なんか忙しそうなのにお邪魔してすみません」
「忙しくはないよ。いつ監査が入ってもいいようにデータを改竄してるだけだから問題ない」
「すべて本音で話す」という、教頭の言葉が本気なのだとわかり、健太は少し怖くなった。
「ややこしそうな作業に思えますが……」
「いや、ゼロを増やしたり減らしたりするだけだから簡単だよ。健太君もやってみるかい?」
「え? いいんですか?」
怖いもの見たさで、健太は興味を引かれた。
「もちろんだよ。心の友だからね」
教頭は椅子から立ち上り、健太に譲る仕草をした。
健太は「失礼します」と言いながら椅子に座り、ティスプレイに目を向ける。
「じゃあ、どれでも好きなやつの数字をいじってみよう」
教頭に言われ、よくわからないまま健太は適当な項目を選び、ゼロを増やしていく。
「あっはははは……」
突然、教頭は笑いだす。
「なんかやっちゃいましたか?」
「健太君、用務員さんの給料を二兆円にしちゃってるよ。これじゃあ、一日で破産だよ」
「ああ、これ用務員さんの給料だったんだ。……やっぱり自分には無理ですね」
健太は椅子から立ち上がる。
「二三日もあればすいすいできるようになるよ。でもいい経験になっただろ?」
「ええ、ありがとうございました」
健太は礼を言いながら、ふと舞に目を向ける。
舞は所在なさそうに湯のみを両手で持ち、うつむいていた。
健太はここにきた目的を忘れているわけではない。ただ、言いだし難いのだ。
健太はソファに戻って腰かけ、どうしたものか――と頭を悩ます。
まとわりつかれることに不快感はない。だが健太には秘密もあり、敵も多い。いずれ舞に危害が及ぶことになるだろう。よって、その前に自分へ関わりことを減らしてもらう必要がある。だがうまく伝えなければ、舞は自分が拒絶されたと思ってしまう――舞はいい子すぎるゆえ、健太としてはそれだけは避けたい。
健太は湯のみを手にし、のどを潤しながら舞のようすを伺う。
舞は膝をしっかり閉じ、肩をぎゅっとすぼめ、時に下唇を噛んだ。
はじめて舞の姿を見たような気がした。健太が教室からいつ消えたのかを、舞は分単位で覚えているにも関わらず、自分は舞のことをなにも知らない。つまり気にかけていない。それは、なんだかとても失礼な気がした。
「舞ちゃんは趣味とかあるの?」
「いえ、特にありません」
「じゃあ、家にいるときはなにしているの?」
「だいたいが勉強です」
「ずっと?」
「はい、ずっとです」
「そっか……」
終わってしまった。
「穴掘りはいいぞ」
教頭が声をかけてくるが、それに答えるだけの余裕が健太にはなかった。
重い空気が漂う。さほど暑くもないのに、背中や脇から汗がじわりと滲みでてくる。健太は息苦しさを覚え、右を向いて窓の外を見やった。
だが、この高校の横は高速道路が通っており、一番に目に入ってくるものは遮音壁。息苦しさを解消するには無骨すぎた。
健太はゆっくりと、顔を正面に戻していく。
それにつれ、こちらを見ている舞の顔が、視界にぼんやりと映しだされる。
なにか訴えかけてくるような、不安な面持ちだった。先ほどまでの緊張したものとは違う、怯えた眼をしていた。知性の鎧で守ってきた舞のあけすけな胸の内が、表面に露出してきたようであった。
(頭のいい子だ……)
健太がこれから言おうとしていることを、舞は感づいたのであろう。
あれこれ考えるのをやめ、健太は正直に述べる。
「俺ってダメ男じゃないよ」
「ええ、もちろんです。健太さんはダメ男なんかじゃありません」
舞はしっかりと頷きながら、はっきりとした声音で断言した。
(本人に自覚がない? それとも翔太の言っていることが間違ってるのか?)
そんな風に健太は考え込んでいると、舞が語りかけてきた。
「翔太が言ったんでしょう? わたしがダメ男が好きだって……」
「う、うん……」
「わたしは健太さんを守りたいだけなんです……ただそれだけなんです」
「でも、俺もそのせいで舞ちゃんが傷つくのを見るのはつらいんだよ」
すると、舞は首を横に振ったあと、「わたしはいいんです」と寂しそうに微笑んだ。
「よくないよ。ちっともよくないよ……」
健太はしぼむように声を小さくしていった。これ以上なにか言っても、舞を納得させることができそうにない――そう思う気持ちがそうさせた。
「いいんですよ」
舞は言いながら立ち上がると、健太の右横に座る。次いで健太の右手に自分の左手を添えると、「わたしに全部まかせてくれればいいんです。悪いようにはしませんから」
そう言って、舞は瞳を潤ませながら微笑んだ。
健太は首を横に振る。
「すり合わせしないと!」
なんの前触れもなく、教頭が大声を放った。
そのあまりの鋭さに、健太と舞は息を合わせたように肩を震わせる。
(いったいなんだ?)
健太は十四の歳から幾度となく戦場に立ったことのある猛者。すぐに落ち着きを取り戻す。
しかし舞の体は依然として強張りつづけ、かすかに震えていた。
そこに、教頭がスリッパをパタパタと鳴らしながら健太たちの横に来、話しはじめる。
「さっき無視されたから、聞こえなかったのかと思って声のボリュームを上げてみたんだけど、いくらなんでも大きすぎたね。すまなかった」
「いえ、こちらこそすみませんでした」
健太はほっとしながら頭を下げる。
「いやー、話を聞かせてもらってたんだが、このままではずっと平行線をたどることになりそうじゃないか。そこで、すり合わせだよ。つまり双方が妥協する必要があるとわたしは思うんだが、どうかね?」
「はい、そう思います」
健太は頷く。
すると教頭も同じく頷き、
「そこでわたしから提案なんだが、月曜と水曜と金曜は山下さんが健太君を守る。それ以外の曜日は健太君が自分で対処する。これでどうだろう?」
「いやです」
舞は低くつぶやくような声で言った。
「それはわがままだとは思わんのかね? もしなんでも思いどおりになるんだったら、わたしだって今ごろ石油王だよ。そして『幸せはお金では買えない』、なんてしゃらくさいことを言ってるさ。でも現実は違う……違うんだよ」
教頭の声には諭すような響きがあった。
だが舞の心には響かなかったらしい。舞は首をよこに振りながら、きっぱりと言う。
「思いどおりになんかなっていません。もうすでに妥協してるんです。これ以上は無理です。本当は……もっと、もっと健太さんのそばにいて守りたいんです……」
言い終えると同時に、舞は涙をこぼしはじめた。
この後も話は平行線をたどり、やがてチャイムが鳴る。
結局、話は持ち越された。
お読みいだだきありがとうございます。
「こういうとこ読みにくいから直したした方がいいよ」などのアドバイスがあればお気軽にコメントください。
何でしたら、罵詈雑言でもかまいません。心が折れるまでは頑張ります。