心の鬼(三十と一夜の短篇第49回)
薫は万事卒なく仕事をこなし、明るく振舞うが、時々物憂げな表情をする。人は考え事をするのにふざけた顔をしないだけ、と言われればその通りなのだが、佐知は薫のふと見せる孤独の影に心惹かれた。
職員用の休憩室で昼ご飯を食べながらの男性社員の噂話をしていて、先輩が言った。
「薫君ね、かれはいい人よ、でもちょっとね」
そうだね、と同調する人がいる。
「どこを見ているか判らない」
どういう意味なのだろうと、佐知は首を傾げたが、尋ねにくかった。
「それに比べて係長は……」
話題が変わり、佐知は黙って聞いていた。
薫には自分の知らない面があるのかと一層興味が湧いた。単なる好奇心なのか、薫に対する恋情なのか、佐知には区別が付かなかったが、職場で薫の一挙手一投足に目が行った。
薫が佐知の視線に気付いたようだった。
「用があるなら言ってほしいし、無いのなら人をジロジロと見ないで欲しい。仕事中に気が散る」
「ごめんなさい」
佐知は謝るしかない。
でも会話をするには丁度いいかも知れない。就業時間が終了し、うまい具合にこの区画で二人きりになっている。
「わたし、薫さんを素敵だなと思って、それでつい。ご迷惑でしたら、本当にごめんなさい。
でもわたしの気持ちに嘘はありません」
薫は佐知の突然の言葉に驚いていた。
「君は社会人になったばかりで、世の中に慣れていないから。
僕はオジサン扱いされる年齢だよ」
「オジサンなんてとんでもない」
「いや、僕は君から相手にされるような人間じゃない」
「そんなこと……」
薫は佐知の心を捉えたかなしげな目をした。佐知は我知らず鼓動が強くなる。
「恋愛するとさ」
薫は言いながら、両手を自分の顔の側に添えた。
「こう視野が狭くなるというか、恋愛の対象しか見えなくなるのってあるんだ。それは判る?」
「ええ、まあ?」
「僕が昔、学生の頃だから大分前だね、大学でそういう女性がいた。声を掛けたのは男性からだったけれど、女性は男性と交際し始めた。女性が次第に真剣になっていって、のめり込むと言っていいくらいだった。男性だって女性が好きだったけれど、もう恐ろしいほどで、女性は勉強も就職活動もままならないくらい男性を束縛しようとした。無茶だろう?」
「はい」
「交際を続けようとか、将来結婚しようとなったら邪魔しちゃいけない。男性だけでなくて、女性の親までそう説得した。それでも女性は冷静になれなかった。いつでも一緒にいないと嫌だ、捨てないで、と一人で逆上せて死んでしまった。
身近で見ていて、女性は怖いと心底感じたよ。だから恋愛したいとは思えない」
はっきりと言わないが、これは薫自身の体験談として語っているのだろう。
「女性がみんながみんなそうとも限らないじゃないですか」
「うん、人はそう言うんだよ。
でも違うんだ。ほかに交際した女性が僕にはいたけれど、彼の女は親に僕との付き合いを反対されたりして、結局ロクな結果にならなかった。
だから、もうこれ以上は無理なんだ」
佐知にはそう説明されてもイマイチ理解しがたい。はっきりと振ってくれた方がすっきりするのに、と胸のつかえた気分がする。
「要するにメンド臭いんですね」
「面倒な訳じゃないよ。
僕は怖いんだ」
「恋愛するのが怖いって意味ですか?」
いいや、と薫は答えて、視線を宙に向けた。
「誰にも見えていないらしいんだけど、僕が女性と二人きりで話をしていると、女性の姿が浮かび上がってくるんだ。そしてじいっと僕を見ている。
僕の気の所為、罪悪感の所為なのかも知れないけれど、女性側の執念だとしたら、話している女性に迷惑を掛けることになるからね」
薫は弱々しく片頬笑んだ。佐知は言われて慌てて薫の視線を追って振り返った。しかし、見慣れた職場の空間。女性の姿など見えはしない。
薫は懐かしそうに宙に見詰めており、佐知は身震いした。