鮮やかなつつじ
裏庭の四阿で東條真咲と出会ってから、2週間ほど過ぎ、満開だった桜並木はすっかり新緑に色を染め変えている。代わりに四阿の周りには白や赤、ピンクのツツジの花が咲き出した。慌ただしかった4月も残りわずかとなり、授業も通常通り回り出した。あと数日もすれば5月の大型連休だ。相変わらず橘寿々は1人でいることが多いが、2人組になる必要のあるときや移動教室の時など、何となく早坂綾と一緒に行動することもある。
ほとんど人と関わらず、下手すると1日のうち授業での発言以外声を出さない日もあった中学までの寿々からすると、驚くほど綾との関係は心地よかった。話題があれば話しかけられるが、特に何もなければ放っておいてくれるし強制的に相づちを打たされることもない。
「寿々はさぁ、同い年なのに敬語なのぉ?」
「そうですね。小さい頃からずっと敬語なのでもう癖になってしまいましたね。」
公立の中学校では敬語口調でも浮いていたが、ここは上流階級が集まる学校なので、お嬢様言葉の生徒が大半で寿々の敬語も全く浮かなかった。むしろこの学園では綾のような口調の生徒の方が珍しい。
もともと寿々は子どもの頃から敬語で話す癖がついていた。それは、無自覚ながら他人との距離のあらわれだ。
「ふぅん。」
この話題はもう興味を失ったらしく、綾は寿々の机に肘をついたままスマホをいじりだした。なんだか気まぐれな猫に懐かれたような気がしないでもない。
「そういえばさぁ。入学式の時に教室に来た、副会長の先輩いるじゃん?つがいが出来たって2年ですごい噂になってるんだってぇ。」
頭の中でどうつながったのか、綾が突然次の話題を切り出した。スマホに視線を落としたまま、先ほどと同じようにさして興味もなさそな口調だ。自分にも関わることなのでどきりとする。
「つがい…ですか?」
「そう。なんか着替えの時に印が見えたって。つい最近のことらしいよぉ。先輩かっこいいし、生徒会役員で目立つから余計に噂になってるんだってさぁ。相手が誰かまでは言ってないみたいだよ〜。」
綾は寿々と違って美術部に入っていて、他学年との交流もあるし、ふらりとあちこちに顔を出しているため、寿々より格段に顔が広い。
確かに男性なら他人に紋様を見られる機会は多いかもしれない。幸い、寿々の紋様はキャミソールで隠れる位置なのでまだ誰にもバレてはいない。
寿々は無意識に握った手を紋様の上に持っていった。
「まぁ運命ってことで、女子の嫉妬というよりかは運命の伴侶への憧れって感じで話題になってる感じかなぁ。」
寿々の様子に気づかず、綾は呑気に続けた。
「運命の伴侶…」
何気なく言われたその言葉が、なぜか寿々の胸に残った。
あの日以来、外せない用事がない限り真咲は寿々に会いに四阿に来る。お金持ちの学校なので、ほぼお弁当の生徒はいないが、真咲は寿々に会うために、わざわざお弁当持参でくるのだ。話が弾むということはお互いの性格上ほぼないが、それでも毎日会って話しているので、最初よりは慣れてきた。
そしてわかったのは、真咲も上流階級の人間であることだ。話の端々に出てくる言葉は、寿々とは違う世界の人間なんだと実感させる。
今日も真咲は四阿にきて、寿々の隣を少し開けて座った。
「先輩のつがいの噂、聴きました。」
「もう1年まで広まったのか。体育の着替えの時に見られてしまって…。目立つところにあるから仕方ないんだけどな。」
真咲は苦笑しながら言った。
「私のこと、言ってないんですね。」
「あぁ。僕の相手が君だとまだ知られたくないかと思って。変に注目されても困るだろう?どこで会ったかまではいう必要もないしな。」
「…そうですか。」
まだって何だとおもったが、真咲が寿々を柔らかい目で見ていたので、寿々は目を逸らした。
「そういえば、橘は連休中どこかに出かけるか?」
「いえ。今のところは何も。もともとアクティブなタイプではないので。連休明けにテストもあるので家で勉強しようと思っています。」
「そうか。橘は特待生だったもんな。」
沈黙が降りる。
「勉強が大変なのはわかっているんだが…1日だけ、出かけないか?」
「え?」
「いや、無理にではない。そんなに長くは拘束しないから。父から、水族館のチケットをもらったんだ。よかったらどうかと…。」
真咲の顔が赤くなっていた。何だか出逢ってから、この人の慌てた顔と恥ずかしがる顔を見ることが多いなと思いながら、1日ならと了承した。今までの寿々なら考えられないことだ。途端に真咲がとび色の目を嬉しそうに細めたので、無性に寿々は恥ずかしくなった。
その場で日付を決め、施設の近くまで車で迎えに来てもらうことになった。
約束の日になった。初夏らしい日差しだ。
午前中迎えに来た真咲は、運転手付きの車だった。よく考えたら、まだ免許の取れない年齢なのだから当たり前なのだが、運転手付きというところに、やはりいいところの令息なのだと感心してしまった。
真咲は白いチノパンにティーシャツとジャケットという軽装だったが、スタイルが良く、色素の薄い髪色も相まって、まるで外国の雑誌から抜け出してきたモデルのようだ。制服姿しか見たことがなかったので新鮮で、見惚れてしまったのは仕方がない。
寿々は今日はモノトーンストライプのAラインのワンピースに空色のカーデガンを合わせている。出かける服など持ち合わせていなかったので、慌てて用意した服だ。いつもは後ろで黒いゴムで1つに縛っている髪も、今日はハーフアップにしてシュシュで留めた。
なんだか自分1人浮かれているようで恥ずかしいと思っていたが、寿々を一目見た真咲がいつになく饒舌に褒めてきたので、余計に恥ずかしくなった。
30代くらいの運転手を紹介され車に乗り込み水族館へと向かった。連休中なので、小さな子どもを連れた家族連れで館内は混んでいた。
「橘は水族館は来たことがあるか?」
「はい。何度か。」
「そうか。僕は初めて来た。結構中は暗いんだな。」
「たしか、魚のストレスを軽減するために、館内を暗くして魚から私たち人間が見えないようにしてるって聞いたことがあります。」
寿々はどこかで聞いた雑学を披露する。
「魚も大変なんだな。僕はいつも魚は食べる専門だったから。」
珍しく真咲がおどけたように言った。子どもが多く賑やかなので、周りにも2人の会話はほとんど聞こえていないだろう。つられて寿々も小さく笑った。
真咲が驚いた顔をする。不審に思うと、「橘が笑ったのを初めて見た。」と言われた。確かに寿々はあまり表情が豊かではないかもしれない。変だったかと思っていたら、真面目な顔で「すごくかわいかった」と恥ずかしいことを言われた。
昼食に入った水族館併設のレストランでは、あまりの混み具合に辟易し、写真入りのメニューが珍しいという真咲に、また寿々は小さく笑った。2人で回る水族館は思いの外楽しくて、すぐに時間が経ってしまった。
まだ夕方になるかという時間のうちに、真咲に送ってもらい車を降りると、真咲も車を降りてきた。
「今日はありがとうございました。とっても楽しかったです。」
寿々がそういうと、真咲はとても嬉しそうに笑った。
「よかった。僕もだ。」
ふと真咲は真面目な顔に戻った。
「橘。」
「はい?」
「僕は、橘が好きだ。」
とび色の瞳の中に寿々だけが映り込む。
寿々の黒い瞳が大きく開かれる。
「すぐに答えてくれなくてもいい。でも知っていて欲しい。僕は君のつがいだ。あの日からずっと君のことが頭から離れないんだ。」
寿々を見るとび色の瞳に熱がこもるのがわかった。
好きだと言われても、寿々にはよくわからない。でも、真咲のそばは居心地が良い。
気づけば勝手に口が動いていた。
「好き、かどうかは…よくわからないんですけど…でも、先輩といるのはすごく楽です。」
真咲は嬉しそうだ。
「そうか。今はそれで十分だ。寿々、と呼んでも?」
「…はい…」
「寿々。休みが終わったらまたあそこで会ってくれるか?」
「はい。」
「ありがとう。寿々に好きだと言ってもらえるように頑張るから。」
そう言って真咲は寿々の頰を軽く人撫ですると、別れを告げて車に戻っていった。
小さくなる車を見送りながら、寿々は握った右手を胸の上に置いていた。