降臨
それに最初に気付いたのはく~ちゃんだった。
異質な、おぞましい魔力。はじめはかすかな違和感でしか感じ取れなったそれが、湖に近づくにつれはっきりと分かるようになり・・・いまではもう強烈な嫌悪感を抱くほどに強く感じられるようになっていた。
「グェ・・・グェ~」
まだ湖が見えてもいないというのに、これだけの魔力が感じ取れるとは一体何が起こっているのだろう。脅威を知らせてくれるく~ちゃんの声が、今ではか細くなってしまっていた。
ただ、く~ちゃんと私がこれだけの危機感を抱いているにもかかわらず、母とマリアは特に何も感じていないようだった。
マリアだけならばまだ話は分かる。マリアは魔法が使えないため、これが感じられなくとも不思議はない。
だが、母までが気付いていないというのがとても奇妙だった。宮廷魔道士を務め、魔力の扱いに関しては随一とまで言われた母が違和感すら感じ取れていないというこの状況。それが事態の異質さと深刻さを表していた。
そして、母が気付けていないというのであれば、当事者たるサヴィニー伯爵家の人たちはもちろん、援軍として集まっている他家の人たちも同様にこの状況に気付いていないとみて間違いないだろう。
事態は一刻を争う。
戸惑っていた母だったが、く~ちゃんと私の尋常ではない様子を見てすぐに警戒感を強めてくれた。
御者に言って馬車を止めさせ、母が馬車から降りる。く~ちゃんと私もそれに続き、さらに続いて降りようとしたマリアを母が制した。
「マリア、貴女はこのまま馬車に乗って昨日泊まった村まで戻りなさい」
「でも、奥様・・・」
母はマリアを避難させるつもりのようだ。確かにそれが常識的な選択だろう。この先、ボーデン湖では尋常ではないことが起こっている。そんな所に戦う力のないマリアを連れていくべきではない。
ただ、その時私はかすかな不安を覚えた。このままマリアを行かせてよいのだろうかという不安。
しかし、本当にかすかなものであり、信じる根拠もなく私が戸惑った、その瞬間だった。
『駄目だっ! 彼女をそのまま行かせてはいけない!』
私の頭に懐かしい彼の声が響いたのは。
「待って!」
彼の声が聞こえた瞬間、私はほとんど無意識にそう叫んでいた。
馬に鞭を入れようとしていた御者が、私の叫びに驚き鞭を外した。
「やっぱり駄目! マリアを一人で行かせては駄目なのっ!」
自分自身でもなぜそんなに必死になったのか分からない。だが、先ほどの声がアルのものであると断言はできた。
他の誰でもない、アルの声だから。私が間違えるなんてありえない。
『彼女を守るんだリズ! 彼女を死なせてはいけない!』
また彼の声が聞こえた。彼がそうまで言う理由は私には分からない。でも私はその声に従い、マリアの乗る馬車まで一飛びで移動する。
そして魔力を一気に引き出し臨戦態勢になった。
「お嬢様、どうされたのですか?」
マリアが馬車から顔を出す。突然叫びだし駆け寄ってきた私に困惑しているようだ。
一方、母は私と同様に臨戦態勢になっていた。母も同様に困惑しているのだろうが、私が臨戦態勢になったことでひとまず疑問は置いておくことにしてくれたようだ。
高密度に練り上げられた光の魔力が母の周囲を舞い、母の霊獣である光輪熊の「ま~くん」が姿を現した。
そして、母と私が魔法で周囲を探ろうとしたその瞬間・・・。
―――世界が闇に染まった。
そう錯覚してしまうほど急に、それこそ一瞬で夜になってしまったかのように辺りが暗くなった。
『リズ、上だ!』
「グェーーー!」
く~ちゃんが上を見ろと叫ぶ。同時にアルの声で同じ内容が聞こえる。
その声につられて私はゆっくりと顔を上へと向ける。この異変の原因を視界に収めるために。
だが、確認するまでもなく私には分かっていた。分かってしまっていた。
なぜなら、前世で同じ経験をしたから。
今世では絶対に起こさせまいと誓った、まさにその状況であるのだから。
「魔王・・・ヨルムンガンド・・・」
無意識にそれの名前が口をついて出る。
絶望がそこにあった。




