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ぐるぐる回るはじまりの万華鏡

学校もバイトもない七月のとある土曜日。エアコンで快適な温度を保った部屋のカーテンを閉め切って、僕は眠っていた。ちょっと前に時計を見たときは、たしか午前十一時だった。おそらく、もう正午を過ぎているだろう。

これから、一日で最も暑い数時間が始まる。けれど、僕には関係ない。外がどれだけ暑かろうと、日差しが強かろうと、カーテンを閉め切った室温二十五度の部屋は、永遠に快適のままだ。

「ね、ね、ねぇって、ねぇってば。おい、起きて起きて、外がすごいことになってる」

部屋が快適で、外は暑い。学校もバイトもないとなれば、僕を呼ぶ声に返事をする理由もない。

「え、マジで起きない感じ?ちょっと、聞こえてるよね?え、マジのやつなの?」

僕の快適空間を無神経に崩壊させることに罪悪感を持たないようなやつが声をかけてきても、今はまだ耐えられる。カーテンを開けて、窓まで開けて、強い日差しと灼熱の外気が部屋に滑り込んでくるのも、今はまだ大丈夫だ。

「ちょっと、とりあえず一回起きようよ、もうお昼過ぎてるんだって。外に人がいっぱいだよ、すごいいっぱいいる」

部屋の温度がじりじりと上がりはじめた。さすがに、頭まで毛布を被ったままでいるのは辛い。

僕が顔を出すと、待ってたと言わんばかりに間抜けな声が飛んでくる。

「すごいよ、みてみて、あんなに人がたくさん」

「……とりあえず窓あけんな」

言ってもどうせすぐには閉めてくれないから、僕はだるい身体を起こして自分で窓を閉める。窓の外が見たいなら、カーテンを開けるだけで問題ないはずだ。なぜ窓そのものを開ける必要があるんだろう。

「ねぇ、なんであんなにたくさん人がいるの?」

窓を閉めながら、その向こうの景色に目をやると、二階から見下ろす道にはたしかにいつもより人通りが多い。家のすぐ前を通る道は、そのまま沿って進むと駅前にたどり着く。いつもはちらほら、一時間に何人かくらいしか通らないのに、今日は列を作って人が歩いている。その列は、当然駅前に続いているんだろう。中には、普段はあまり見かけない服を着た人もいる。なぜ人が多いのか、それを見れば一発で分かった。

「今日は駅前でお祭りなんだろ」

浴衣に甚平、見たらすぐに分かる。そういえば、そろそろ地元の夏祭りの時期だ。

「おまつりってなんなの?」

僕がせっかく閉めたカーテンをまた開けて、それなのに外を見ないで、カヤが僕に顔を向ける。本当に、こいつは何も知らない。仕方ないし、カヤ自身に責任があるわけじゃないことくらい分かっているけれど、ちょっと鬱陶しい。

「……お祭りって、あれだよ、なんか神社とかでお祈りして、出店でなんか食べたりクジ引いたりするんだよ」

「なんで?」

「分かんないけど、年に一回くらいあるんだよそういう日が」

「ふぅん……」

僕の雑な解説に納得したようには見えないカヤが、首を傾げながら窓の外を見る。何にでも驚けるし疑問を持てるというのは、無関係でいられるなら本当に羨ましいものだと思う。無関係でいられるなら。

「……食べ物が売ってるの?」

「そうだよ。肉とかお好み焼きとかが多いんじゃないの?あとかき氷とか?」

そう言いながら、少し軽率だったと反省する。カヤにとって、食べ物の話はあまり良くない。

「お腹すいた……」

「下にこの前のやつまだちょっと残ってなかった?」

「あんなにたくさん、いいな……」

ほらみろ。

ベッドから起きて、カヤを窓から引き離す。

それから、カーテンを閉めてカヤに自分の腕を差し出した。

「あれはダメ。とりあえずこれで我慢しろ」

腕を口元に押し付けると、カヤがすぐに噛み付いてくる。もちろん、尋常な痛みではない。

「ごめんね、最近でないから、ボクずっと物足りないんだよ」

歯を食いしばって、ゆっくりと息を吐く。カヤの歯が骨に当たるたびに悲鳴を上げそうだ。

「ごめんね。ごめんね」

僕の腕から肉を食いちぎりながら、カヤが見上げてくる。瞳孔の代わりにきらきらした星のような何かがぐるぐる回っているその瞳に見つめられるのは、あまり好きじゃない。

「……すぐ生えてくるから気にすんな」

これで、カヤに腕を食わせるのは何本目になるだろう。人間を食うなと教えているくせに、わりと簡単に身体の部位を食わせている気がする。このままではいけないと思いつつ、それでもやめられないのは、これが一番面倒じゃないからだ。

カヤは人間を食べたがるけれど、食べさせるわけにはいかない。代わりになるものも、僕たちの望むようには手に入らない。普通の食べ物も食べられないことはないけれど、普通の肉や魚では、カヤの腹は膨れても栄養にはならない。こんな訳のわからない、人間かどうかも定かではない生き物を僕の家に置いておくことに同意したのも、世話をしてやることに同意したのも僕だけれど、食事に関する悩みが尽きないのはなんとも面倒だ。

「……それ食ってまた生えてきたら、お祭りに行こうか」

すっかり僕の身体から離れてしまった腕を貪るカヤに向けて、激痛のせいで麻痺してきた口を動かす。ちゃんと言葉になってるか怪しい。

「いいの?」

良かった。まともな言葉で喋れていたみたいだ。

「人間がたくさんいるところと人間の食い物にもっと慣れといた方がいいだろ」

「うん。ありがとう」

人出の多いところというのは少し心配だけれど、カヤをそういうところに慣れさせる必要もあるし、そういうところにカヤの餌はよく現れる。うまくいけば、カヤの教育にもなって餌も手に入るだろう。あとは、僕がカヤをちゃんと見張っていればいい。

「僕から絶対に離れるなよ」

僕がそう言うと、カヤが僕の腕を咥えたまま頷く。カヤは何も知らないけれど、聞き分けはすごくいい。だめだと言えばすぐに引き下がる。そういう部分では手がかからなくて楽だ。

「痛い?」

「痛いよ、すごく痛い。でももう大丈夫。あとちょっとしたら生えてくるから、もう少し待ってろ」

「うん。ごめんね。ありがとう」

出かけたら、コンビニで現金をおろさなければ。物珍しさから、カヤはきっとものすごく食べるに違いない。



今日はお祭り。私の地元のお祭りは、この辺りの地域ではそれなりに大きい方である。駅前の大通りを丸ごと交通規制して、数キロにわたって出店がずらりと並ぶ。夜の八時ごろに打ち上げ花火があって、それを目当てに遠方からも人が集まるからだ。

「カエ、浴衣かわいいね」

待ち合わせ場所で合流した友人が開口一番にそう言ってくれたのはありがたいけれど、私はあまりお祭りが好きじゃない。友人と一緒に無駄話をしながら出店を見て歩くのは好きだし、普段あまり食べないものを口にするのは嫌いじゃないけれど、そもそも人混みが好きじゃない。誘われなかったら、自分から進んで行くようなところじゃない。かと言って、家にいてもひとりぼっちだし、たまに帰ってくる父親と顔を合わせるのも、なんだか怖くて苦手だから、誘ってくれたこと自体はすごく嬉しい。父が帰ってくると、変な薬品の匂いがして気持ち悪くなるのだ。

「人が多い」

とはいえ、つい我慢できずにそう口走ってしまう。

「花火大会がね」

「分かるけどさ」

お祭りの人混みはあまり楽しくないけれど、うんざりするくらいの人混みのなかで、何人か高校の同級生を見かけるのは少し楽しい。いつも学校で一緒にいる友人グループで来ている人もいれば、思わぬ組み合わせで歩いている人もいる。中には話しかけてくる人もいるけれど、私はあまり大げさにはしゃぐようなのは好みじゃない。

「おっ、珍しいのがいる」

必要以上に楽しそうな男子のグループをやり過ごしたあと、一緒に歩いている友人がどこかを見て呟いた。

「あれ彼女かな」

「ん、誰?」

友人が顎で指す方向に目をやると、そこには同級生の男子生徒がいた。

「ああいうタイプと一緒にいるイメージなさすぎてびっくりなんだけど」

同級生の男子生徒、霜島シンは、たしかに私でも驚くような相手と一緒に歩いている。

学校でのシンは、あまり派手ではないけど地味でもなく、気がついたらいて、気がついたらいないようなイメージがある。声をかけて、何か手伝ってもらうとだいたいすぐに片付いてしまうので、その気になれば何でもできるタイプなんだろうとは思うものの、あまり自己主張をしない。そういう、なんとなく頼れそうな安心感みたいなものを好むような子からは、密かに人気がある。

そんなシンが、見るからに派手なギャル風の女の子と手を繋いで歩いていれば、誰だってびっくりするだろう。よく日焼けした褐色の肌に、背中まで伸びた金色の髪の毛、長い脚を惜しみなくさらけ出した黒いショートパンツ、油断しきっているとしか思えないくらいゆったりしたサイズ感の白いTシャツなんか、色の濃い下着が透けて見えている。もう日が暮れるというのに大きなサングラスをかけているけれど、鼻筋が通っていて、美形なのがはっきりと分かる。

「かわいいねあの子」

「どこでつかまえたんだろ」

シンが普段どんなことをして過ごしているか分からないからなんとも言えないけれど、ああいうタイプの女の子と知り合うのって、かなりその気にならなければ難しいのではないだろうか。

「まあ、色々あるんだね」

同級生の意外な一面を見てしまった。だからどうだってわけでもないけれど、ちょっとシンを見る目が変わりそうだ。大人しそうに見えて、そっち方面では意外と強引なのかもしれない。

「花火何時からだっけ」

シンと女の子が立っているところを通り過ぎた頃、友人が携帯電話の時計を見ながら呟く。現在の時刻は十九時二十分。打ち上げ花火は、だいたい二十時ごろからだから、あと三十分以上ある。

「……会場の方までいく?」

花火の打ち上げ会場まで行ってみるかと、いちおう、そう提案してみる。ただ、行きたくはない。

「混んでるからいいよ」

「だよね」

結局、出店を眺めてふらふらしつつ、どこか花火が見えそうなポイントを探そうということになった。

その時、まだ完全には暗くなっていない空に、ひとつ大きな花火があがる。

「……あれ?」

「早くない?」

時間まではまだ早い。友人と顔を見合わせていると、もう一発。

時間は早いけれど、打ち上げ花火が始まったんだろうか。あちらこちらから歓声があがって、ぞろぞろと歩いていた人たちも足を止めはじめた。

最初の二発から続いて、矢継ぎ早にもう三発。少し勢いがありすぎるような気がする。

さらにまた三発。四発。

少しおかしい。

打ち上げ会場の方角に目を向けてみると、薄暗い空に、オレンジの光がゆらゆらと立ち上っていた。

「あれ、事故?」

「暴発した?」

風に乗って、ざわざわと人の悲鳴のようなものも聞こえる。

「なんかやばそうな感じ」

「離れとく?」

友人がそう言って打ち上げ会場に背を向けたとき、私の視界の隅を何かがすっと抜けていった。そちらに目を向けて、走っていく人影を捉えた瞬間、これまでの花火とは比較にならない破裂音がして、空が真っ白に染まった。



きっとよく食べるんだろうと思ってはいたけれど、カヤは本当によく食べる。既に想定の倍は食べている。

「すごいね、これ人間より美味しいよ」

串焼きの肉を咥えて、両手にイカ焼きと唐揚げを持ったカヤはご満悦だ。さっき買ったたこ焼きとお好み焼きは、とっくに消えている。

「良かった。でもあんまり大きい声で言うなよ」

人間より美味いなんて、まるで人間を食べたことがあるみたいだ。まさか。ありえない。

しかし、これだけ食べて腹がパンパンになっても、全くエネルギーに変換されないというのだから、カヤの身体は難儀だ。いまは僕の腕を食べたばかりだから誤魔化せているけれど、そろそろもう少しちゃんとしたものを食べさせないと。

「ね、他にはどんなのがあるの?」

ほんの数秒だけ視界から外しただけなのに、もう肉とイカ焼きが消えていることには驚かないようにしつつ、何も刺さっていない串を回収してカヤの手を引く。

「ああ、もう食えるものは片っ端から買ってやるから。それでもし力が出そうなのがあったら教えて。あともうちょっとこっちに」

そう言いながら、カヤの手を引っ張って僕の近くに寄せる。家を出る前に気づくべきだったけれど、カヤの服装は少し気を抜きすぎた。脚も出しているし、よく見たらシャツに下着が透けている。

「なになに?」

「ごめんな。目立ちすぎるんだよ」

先程から、カヤのことをちらちらと見ているやつが何人かいる。あまり少なくない。もう少し気を使ってやるべきだった。瞳が人間離れしすぎているからといってサングラスをかけさせただけで、あとはほとんど普通の人間と変わらない。そうなると、カヤは人混みでも目立つような容姿をしているし、それを強調するような服装で連れてきてしまった。

「ごめん、ボクちょっと派手かな」

「悪かった、目立つのはお前のせいじゃないから、あんま気にすんな」

ちらちら見られるのはあまりよろしくはないけれど、見られているのはあくまで人間としてだ。可愛い女の子が油断しまくりの服で祭りの会場にいるから見られているだけであって、カヤが何者か知っていて見ているやつなんてひとりもいない。

それなら、あとは僕がなんとかしてやるしかないだろう。

「ほら、あっちにチョコバナナがある」

カヤの手を引いたまま、そう言って僕は少し先にある出店を目指す。果物はあまり食べさせていなかったから、あとでりんご飴も探してみよう。

「普通の食べ物ってすごいね。色んな味がして面白いよ」

僕に手を引かれたまま、カヤが無邪気に笑う。大きいサイズのものが六個くらい入っていたはずの唐揚げも、あっという間になくなってしまった。

「いつもロクなもん食わしてやれてないからな。たまにはちょっと変わったものをね」

いつもは、だいたい僕が作る簡単な料理ばかりだ。人間の食べ物に慣れさせるには、もう少しまともなものを食べさせてやった方がいいとは思うけれど、時間がなかったり元気がなかったり、腕がなかったりして、あまりちゃんと料理をしてやれない。

すると、カヤが僕の手を軽く引っ張る。

「いつものご飯も美味しいよ」

「そうか?」

「うん。ボクのために作ってくれてるんだもの」

カヤは当たり前のようにそんなことを言うけれど、少しだけ違う。僕が作る料理は、僕が食べるために作っている。昔からそうだ。ただ、カヤにもそれを食べさせる必要があって、不味い料理のせいで普通の食べ物を嫌いになられても困るから、ちょっとは味付けを気にしてみたりするけれど、基本的には僕のためだ。

なんてことを言おうと口を開いた瞬間、急にどこかで花火が打ち上がった。

「いまのなに?」

「花火だよ、まだちょっと明るいけど始まったんじゃないか」

急な破裂音に身体を強張らせたカヤへ、そんなに驚くようなことではないと伝える。そういえば、花火のことを教えるのを忘れていた。このお祭りでは、夜になると花火が打ち上げられるんだった。まだ日が沈みきっていないけれど、そういうものなのかもしれない。

「大丈夫だよ。ちょっとびっくりした?」

「びっくり……」

カヤが僕の手を両手で掴んでそう言ったとき、また花火が上がる。いきなり始まった打ち上げ花火に、周囲の人々からもまばらに歓声が上がりはじめた。

「お祭りっていうのは、花火を上げることがあるんだよ。空を見ててみろ、色のついた光が……」

僕の声をかき消すように、次々と花火が破裂する。これはおかしい。

それともうひとつ、僕の耳に微かな音が届いた。

「……大丈夫なの?」

連続する爆発が怖いのか、僕にぴったり身体を寄せたカヤが不安そうにこちらを見上げる。肩に触れると、少し震えている。

しかし、僕にはもうカヤを慰めてやる余裕がない。

「はなびって、爆弾とかじゃないの?」

花火が上がる音も、カヤの声も、どこか遠く感じる。

もっと大事な、微かでも聞き漏らしたらいけない音が鳴っている。

「……シン?」

「カヤ、行くぞ」

僕を見上げているカヤにそう言って、手を引いて打ち上げ会場に向けて歩き出す。ただ花火が急に打ち上げられただけじゃない。花火を打ち上げる会場の近くで、もっと重要なことが起こっている。

「ねぇ、ねぇってば、大丈夫?」

僕に引っ張られて歩きながら、カヤが不安そうな声を出す。

「大丈夫。行けばわかるよ。大物かもしれない」

大物、と言うと、カヤも何のことか見当がついたらしい。

「でたの?」

急に打ち上げられた花火、その音に混じって僕だけに聞こえてきたのは、僕とカヤにとってとても大切なものの鳴き声。つまり、僕たちはその声がするところへ出向いて、それを捕まえなければならない。

人混みのなかで手を離さないようにしっかりと掴んで、カヤに振り返る。

「食事の時間だ」



強烈な閃光と爆発音に明らかな身の危険を感じた周囲の人々が、その場から一斉に駆け出した。これはどう考えてもただの花火ではない。走り出した人々の脳裏には、私も含めて、テロで崩壊した建物や街を映し出すニュース映像が浮かんでいた。

「カエ!」

パニックになった人波に流されて、友人がどんどん離れていってしまう。打ち上げ会場とは反対の方向へ流れていく友人の姿を人だかりの隙間にちらりと見つけて、私は先ほど視界に入った人影を探して振り返った。

「霜島くん……」

大きな爆発が起こる直前、シンが打ち上げ会場へ向けて走っていくのが見えた。あの女の子も一緒だ。

ふたりとも、何事もなく無事でいればいいと思った私の目に、我先に逃げ出す人々の向こう側で、なぜか打ち上げ会場へと向かって進む背中がふたつ見えた。

シンとあの子だ。

「あぁ……」

この状況で、わざわざ危険な方向へ進んでいく理由なんてないはずだ。爆発が起こったのは、状況からみて恐らく打ち上げ会場の付近であることは間違いない。少し離れているこの場所でもパニック状態なのに、近くに行ったらもっとひどいだろう。爆発もこれで終わりとは限らない。

次々に押し寄せる人波を必死にかわしながら、気がつけば私もシンの後を追って打ち上げ会場に向かい始めていた。危ないし、死んでしまうかもしれないと分かってはいるけれど、どうしてもそのままにしておけない。一緒に来ていた友人は、反対方向に進んでいったからきっと大丈夫だろう。でも、シンは危険な方に行ってしまっている。ものすごく仲が良いわけではないけれど、学校で一緒に何かをしたことも少なくはないし、知っている人が危険な目にあってしまいそうなら、なんとかして止めてやりたい。

五分くらい人混みに洗われながら流れに逆らって歩いていると、どんどん人の数が減っていった。進んだ距離はほんの数十メートルでも、この間に驚くほど大量の人間が打ち上げ会場の近くから逃げてきていた。会場への道は一本のはずだから、このまま進めばたどり着けるはず。

シンと同じ道を進んでいるので、きっと会えるだろう。もし会場で会えなかったら、途中で逃げたんだろうということにして、私も逃げよう。そんなことを考えながらさらに数分歩くと、一気に広い空間に出た。打ち上げ会場だ。

それまでは必死に進んでいて、目の前数メートルしか見えていなかったから、急に目の前が広くなった気がして、そのまま周りを見渡す。それが失敗だった。

視界に容赦なく入り込んでくる黒くて赤い何かと、鼻をつく異臭。口元に手を当てて、なるべく地面に転がっている何かを見ないように、シンを探す。

打ち上げ会場は、駅前から一キロほどのところにある広場で、入り口に面した通り以外は林に囲まれている。その真ん中でぐちゃぐちゃに崩れて焼け焦げているのが、きっと花火の発射台だろう。そのすぐ近くで胎児のような形をした黒い何かは、認めたくないけれど、たぶん人間だ。ここには、うずくまった黒焦げの人間がたくさん転がっている。今この場に立っているのは私だけ。シンもいない。

「いない……」

きっと、シンはここには来なかった。たまたまこちらの方に向かっていただけで、途中でどこかに行ったんだろう。きっとそうだ。そう考えて、私もこの場から逃げるために振り返った瞬間に、会場を囲う木々の一角から大きな音が聞こえた。いやに高くて、割れていて、不快な音。映画に出てくる怪獣が出す鳴き声のようで、聞いていてあまり気持ちのいいものではない。ただ、意味は分からないけれど、それを確認する気はない。ここまできて、シンがいなかったんだから、私もさっさと逃げなければ。

関係ないと必死に言い聞かせながら、連続して聞こえてくる謎の音を無視して歩きだす。近くに何かよく分からないものがいる可能性があるんだから、さっさと逃げ出したい。

それなのに、その音の合間に微かに聞こえてくる人の声が、私の足を躊躇わせる。シンの声に似た怒声が聞こえているような気がするせいで、きっぱりと逃げ出す決心がつかない。

「……ちらっと覗くだけ、ちょっと見て関係なかったらすぐ逃げる」

一瞬だけ見てみて、シンがいなかったらすぐに逃げる。そう強く決心した私は、音のする方へ駆け出した。

「出てこい!早く出てこいよ!」

近づけば近づくほど、謎の声と怒声が大きくなる。その声が鮮明になればなるほど、私の鼓動も早くなっていく。

「クソ!どうした!死にたいのか!」

茂みに分け入って、木々を揺らす何かに目を凝らす。

そこには、三メートルくらいの人間がいて、足元で木の枝を振り回している誰かに向けて、巨大な腕を振り下ろしている。木の枝を振り回していた人物は簡単に吹っ飛ばされてしまうけれど、すぐに立ち上がって、口から大量の血を吐きながらまた巨人に挑みかかっていった。

「まだ出ないのか!早くしないと本当に死ぬぞ!」

残念なことに、それがシンだった。

シンは全身から血を流し、左腕がなかった。脇腹からの出血も、遠目に見ても分かるほど酷い。バケツの水をひっくり返したように流れ続ける血を無視して、シンはまた巨人に殴り飛ばされる。

「霜島くん……」

思わずそう声に出してから、すぐに手を口に当てる。

巨人がこちらを見た。

私の身体は動かない。

見つかった。

こちらへ向かって巨人が歩いてくるのに、足が急に重くなって、全く逃げることができない。

「うそ……」

目の前に立った巨人は、遠目に見るよりも遥かに大きい。三メートルくらいという中途半端な大きさのせいで何十メートルもある建物よりずっと圧迫感がある。その巨人が、またあの不快な音を身体から発して、太い右腕を振り上げる。腕だと思ったけれど、その先端は鋭利な刃物になっているので、もしかしたら違うのかもしれない。なんて関係ないことを考えているうちに、その腕が私へ振り下ろされた。

しかし、死ぬ瞬間というのは、あまりにあっさり訪れると、何も考えられないのかもしれない。痛みもない。

「そんな……」

腰を抜かしてしまった私はただ呆然と、目の前で真っ赤に染まっている巨大な刃物と、それに刺し貫かれたシンを見上げている。

「霜島くん、そんな、やだ……」

巨人の腕が振り下ろされる直前、私は駆け寄ってきたシンに突き飛ばされた。そして、私に刺さるはずだった巨人の腕が、シンを貫いた。

シンの腕がだらりと下がる。持っていた木の枝も地面に転がって、全身から力が抜けているようだ。

私を守って、シンは動かなくなった。

きっと、死んでしまった。

それなのに、笑い声が聞こえる。

こんな風に笑っている声は聞いたことないけれど、巨人に貫かれたまま、弛緩した身体で俯いたままのシンが、大きな声で笑っている。

「……遅えよ、馬鹿野郎」



今回は、なかなか出てこなかった。

本当に不便だ。身体に傷がついて、生命の危機にならないと出てこない。しかも、自分で傷つけても出てこない。完全に誰かからやられないと出てこないから、僕はいつも一方的にボコボコにされる必要がある。

僕の身体に大穴を開けてくれた巨大な腕が乱暴に抜き去られて、その場に倒れこむ。あいつは、僕を殺して満足したのか、こちらは無視して勝手に離れていった。早くしないと逃げられてしまう。

すると、カヤが駆け寄ってきて僕の身体を抱きかかえてくれた。隠れていろと言ったのに、聞き分けがいいはずのカヤはいつもこういう時だけ僕の言うことを聞かない。

「大丈夫?ごめんね痛かったよね。ごめんね」

「ごめん、待たせた。もう出るよ」

「うん」

全身から力が抜けて、頭に熱を感じる。この感覚は嫌いだ。ふわっとして、頭がぐるぐるする。

目眩がして、一瞬だけ視界が真っ白になったと思ったら、僕は僕を見下ろして立っている。

カヤが抱く僕の身体は、いつにも増してボロボロだ。腕も片方ないし、胸から腹にかけて馬鹿でかい穴も開いているし。

「霜島くん……」

ふと、僕の名前を呼ぶ声がして、カヤの後ろに立つ人物に目をやる。

浴衣を着た若い女だ。誰かは知らないけれど、彼女が何故かこんなところに来てくれたおかげで僕は助かったわけだから感謝してやらないこともないが、今は構っていられない。

「誰だか知らないけど、さっさと逃げろ」

「でも……」

「見逃してやるって言ってるうちに逃げるんだ。ここに残るなら殺す」

彼女は、カヤが抱える僕の身体と僕を交互に見ながら、混乱したように首を振る。意味が分かっていないらしい。

僕は、身体のダメージが限界になると、中からもう一人出てくる。マトリョーシカみたいなものだ。理由はわからないし、部外者に教えてやる必要もない。

時間もないし、混乱している女はひとまず無視して、僕はカヤを見る。

「腕、出してくれるか」

「うん」

僕の言葉に頷いたカヤが、上を向いて目を閉じた。それから、ひとつ息を吸って口を開ける。肩まで裂いて大きく開かれた口のなかに、鋭く尖った牙がいくつも見える。

そのまま僕の身体をゆっくりと地面に横たえさせて、カヤが軽く持ち上げた右腕を一気に飲み込むと、それを眺めている僕の右腕が真っ黒い光に覆われた。

「ちょっと待ってろ。すぐに終わらせてくるからな」

光が晴れると、僕の右腕は炭のように真っ黒になって、どろどろの黒い液体をとめどなく流し続ける管がいくつもむき出しのまま巻きついたものに変化していた。

黒い腕を軽く振り、手首から先に管を集める。管はそれぞれが独自に動いて、好き勝手に獲物を探す。

「ここから動くなよ」

僕の抜け殻の腕を咥えたままのカヤに声をかけて、あの巨人が歩いていった方向に踏み出す。もたもたしていたら、あっという間に引き離されてしまった。

あの巨人について詳しくは知らないけれど、あまり人間に対して友好的ではないというのは確からしい。どういう生き物か、正式な名前すら知らない。ただ、身体が大きくて、頑丈で、力が強くて知能が低い。人間を襲う。

そして、何よりも大事なのが、あいつらはカヤの食事だということだ。

「見つけた」

引き離されはしたけれど、ほんの十秒くらい歩くだけで見つけられる程度の距離だった。

馬鹿まるだしの後ろ姿を見つけた僕は、右腕を軽くあいつの方に向ける。一瞬で獲物に目をつけた管が伸びて、その身体に無数の小さな穴を開けるまでにかかった時間は三秒。穴に噛み付いて僕の目の前まで引きずってくるまでにかかった時間は、ほんの五秒。僕が死ぬ寸前までボコボコにされていた時間と比べると、はるかに短い。それだけ苦痛が少ないんだから、感謝してほしい。

穴だらけの血だらけになった巨人が、僕の足元に転がって痙攣している。いつ見ても、こんなものを食べてエネルギーにしているカヤはどうかしていると思う。一度だけ肉片を焼いて食べてみたら、ゲロを吐くほどまずかった。

あの不快な味を思い出しつつ、先ほどボコボコにされた恨みを込めて、右腕の管を収束させる。無数の管がうねうねとひとつにまとまって、巨人の頭を切り落とした。これでおしまい。こんなに簡単に終わる。こんなに簡単なのに、僕は死ぬ寸前まで追い込まれなければならなかった。不公平だ。

「終わったよ」

巨人の死体を引きずって戻ると、僕の抜け殻から口を離したカヤが抱きついてくる。カヤが抜け殻を口から吐き出した瞬間、僕の腕も元に戻った。

「ありがとう!」

肩まで届くほどがっつり口が裂けている時に近寄られると食われそうで怖いし気持ち悪いから、僕はカヤをさっさと引き離して巨人の頭を指差した。

「とりあえず食えよ」

僕が言うまでもなく、カヤが巨人の頭を丸呑みにする。いつ見ても気持ち悪い。どうかしてる。

「ふぅ……」

久しぶりにまともなエネルギーを摂取したカヤが、口を閉じて満足気にため息をつく。いつのまにか、裂けていた口も元に戻っていた。

「じゃあ残りはさっさと回収して……」

そう言いながら、僕も急な視界の変化を覚える。

「もう今日は帰ろうな」

喋ってる最中だろうとなんだろうと容赦なく元の身体に戻ってしまうのには、もう慣れた。寝そべっていた身体を起こすと、胸と左腕に激痛が走る。穴が空いている胸はまだいいとして、巨人にもぎ取られた左腕が痛むのは納得いかない。ないのに痛むのは卑怯だ。

カヤに手を貸してもらって立ち上がり、ポケットから携帯電話を取り出す。未だに画面が割れていないのは本当に奇跡だ。

連絡先の一覧を開いて、二件だけ登録してあるうちのひとつをタップする。

「一匹始末した。回収頼みます」

短い呼び出し音のあと、通話がつながって早々にそれだけ伝えて電話を切った。これだけで、誰かが巨人の死体をバラして、ちょうどいいサイズに加工したものをクーラーボックス五個くらいに詰め込んで僕とカヤの家に届けてくれる。ずっと前にいろいろと説明を聞いた気がするけれど、少しも覚えていない。なんとかっていう団体の、なんとかっていうおじさんが教えてくれたんだったような気がする。おばさんだったかもしれない。

「よし、帰ろう」

ゆっくりと生えてきた僕の左腕を優しく撫でているカヤに声をかけて、ふたりで並んで歩きだす。もう疲れた。

歩きながら携帯電話をポケットに戻そうとして、やり忘れていたことを思い出した僕は、もう一度連絡先を開く。

二件だけ登録してある連絡先のうち、今度は先ほどとは違う方をタップした。また短い呼び出し音のあとに、僕は簡潔に一言だけ呟いて通話を終了させる。

「目撃者の始末をお願いします」



訳がわからなかった。私の頭では理解が追いつかない。

シンが巨人に殺されたと思ったら、もうひとりのシンが現れて、あの女の子がシンの死体に噛み付いて、腕が黒くなったシンが巨人を倒した。そして、女の子に巨人の頭を食べさせたシンは、彼女とふたりでそのまま去っていってしまった。

なにひとつ理解ができない。

シンは私なんか存在しないかのようにさっさと帰ってしまって、私は、首のない巨人の死体の前で座り込んだまま。何もかもが分からないし、今は何も考えられない。頭が回らない。

そんな風にぼんやりとしていたら、いつのまにか目の前に人が立っていた。黒い服をきて、黒いヘルメットを被って、手には銃を持っている。そういえば、去り際にシンが電話で目撃者がどうこうと言っていた。

「馬鹿だな、私……」

余計なことをした。おとなしく逃げていればよかった。

悲しいし怖いけれど、悲鳴を上げることも、逃げることもできない。身体に力が入らない。あまりにも意味不明なことが起こりすぎて、何もする気が起きない。殺すなら今のうちだ。

目の前の人物が、私に銃を向ける。

なんだか、どうでもよくなってきた。

「死にたくない。やめて」

試しにそう口にしてみて、あまりにも感情のこもっていない声に自分でもびっくりした。



人混みとパニック状態の街をゆっくりと抜けて家に帰り、ひとまずシャワーを浴びる。血と泥と煤で身体中くまなく汚い。

「もう塞がってるね」

まだ生え終わっていない左腕の代わりをしてくれているカヤが、僕の胸に人差し指を当てて呟く。

「すぐ開いちゃうからまだ触ったらだめだ」

見た目では塞がっているように見えても、まだ完全に閉じたわけではない。すぐ治るようでいて、意外と気を使わなければならないのが面倒だ。それに、治りかけの傷を触られるとむずむずする。

浴室から出て、僕はすぐにベッドに入った。

「疲れた?よね?」

「さすがにな」

今日は疲れた。というか、巨人を殺した日は必ず疲れる。実は、今日は軽い方だったりする。

「ごめんちょっと寝る。一時間くらいしたら勝手に入れにきてくれるから腹減ったら食べといて」

あと一時間ほどで、さっき殺した巨人の肉が届く。届けてくれた人が勝手に保存用の冷蔵庫とかをセッティングしてくれるので、カヤでも簡単に取り出して食べることができるから本当に便利だ。巨人の肉なら生で食べられる。

「うん。まだ大丈夫だよ。ありがと」

カヤの返事も、半分くらいは聞こえていない。

ベッドに入って数分、僕はあっという間に意識を失った。



父がいる。

三日ぶりの対面だ。

「……で、なんなの」

三日ぶりに会った父はやけに慌てていて、疲れた顔をしている。

「そんなこと、私に話してどうするの?」

綺麗で真っ白なベッドに寝そべったまま聞いた父の話は、本当に馬鹿げていて、どうかしていて、憤りすら覚えるような、実に下らない内容だった。よく分からない怪物の事件に巻き込まれた娘に、病室でするような話じゃない。

「お父さん、そんなことしてたんだね」

出来の悪い映画みたいな話を聞かされて、私はうんざりしながら首を振る。

「人に話しちゃうよ、そんなの」

こんな馬鹿げた話、誰に話しても鼻で笑われるだけだろうけれど。

ため息をつく。

世の中には、知らなくていい話と、知らない方がよかった話が多すぎる。



頭がいたい。視界が全部真っ黒に染まっている。何も見えなくて、耳鳴りがするほど何も聞こえない。声も出せないし、身体も動かない。

これは夢だ。そう直感したところで、自由に動けるわけじゃない以上は、もうしばらくこの暗闇に付き合わなければならない。巨人を殺した日にはいつも見る夢なのに、少しも慣れる気配がない。ただ苦痛で、疲れるだけの嫌な夢。長く続くから、僕はこの夢が大嫌いだ。

「シン……シン……」

どこかからカヤの声がして、見えない暗闇に目を凝らす。当然、カヤなんてどこにもいない。

正直にいうと、いない方が助かるかもしれない。

巨人に襲われたり、巻き込まれたりせず、平穏に暮らしていけるなら、カヤなんていない方がいいと思ったことなんて、一度や二度ではない。あいつといてもろくなことがない。何も知らないし、馬鹿みたいに食べるし、尖った歯で噛みつかれるのは相当な苦痛だ。

「ボクね、シンと一緒にいられて嬉しいんだよ。一緒にいてくれるのがシンで本当に良かった」

「僕はお前がいるせいで地獄だ」

カヤのせいで僕の人生はめちゃくちゃだ。

会わなければよかった。本当に。

「お前のせいで、こんな……」

ふと、急に視界が鮮明になる。

見慣れた景色に、慣れた匂い。目が覚めたのかもしれない。オレンジ色の小さな電気がぼんやりと照らす薄暗い部屋で、僕はベッドのなかにいて、気がついたら、ぎょっとするほど近くにカヤの瞳があった。

「……苦しいよぉ」

僕の腕のなかで微笑んだカヤが、ゆっくりと胸に顔を埋めてくる。僕と同じシャンプーの香りがして、僕はようやく目が覚めたんだと実感した。

「ごめんな」

押さえつけるように抱きしめていたカヤを離し、ベッドから身体を起こす。どれくらい寝ていたか分からないけれど、外はまだ真っ暗だから、いまはだいたい夜中の二時くらいだろう。

「うなされてたよ。大丈夫?」

カヤも身体を起こして、心配そうに僕の手に触れる。

「大丈夫だ。気にするな」

嫌な夢を見た。あの夢は、たぶん僕の本心だろう。常にそう思っているわけじゃなくても、心のどこかでそう思っている。

カヤが僕の肩に優しく触れて、ふたりでまたベッドに寝そべる。

「……シンは優しいね」

すぐに僕の胸に顔を埋めたカヤが、小さな声で呟く。

「ボクのこと、怖いのも痛いのも嫌なのも、全部から守ってくれる」

ため息がこみ上げてきた。あんな夢を見たあとだから。

「……お前がまともに人間として暮らせるようになるまでな」

そうだ。僕はカヤをちゃんとした社会生活を送ることのできる人間として教育する必要がある。そのために一緒にいる。

カヤが顔を上げて、きらきらした小さな光が漂う瞳を僕に向ける。どこを見てるか分からないのに、じっと見つめられると背中がむずむずしてくるこの目があまり好きではない。

「ボクが普通の人間みたいになれたら、もう一緒にいられない?」

僕はカヤから目を逸らして、なるべくその瞳を視界に入れないようにしながら、すっかり元通りになった左手でその頬に触れる。

「人間になれたらお前なんかさっさとお別れだ」

カヤがちゃんと人として生活できるようになれば、僕なんかは必要ない。すると、僕の手のひらへ頬を擦り寄せるように顔を動かしたカヤが、僕をまっすぐ見つめたままだった瞳を少しだけ伏せた。

「……じゃあ、まだこのままがいいな」

僕の左手に自分の手を重ねて、カヤが小さな声で続ける。

「ボクまだシンと一緒にいたい。ほんとはずっと一緒にいたいんだけど、離れるくらいなら、まだこのまま痛い痛い……」

カヤの言葉を遮って、ちらちら覗いている八重歯をつまむ。獣みたいに尖っていて、ちょっと長い。

「まるでもう人間になれてるみたいな口ぶりだな?こんなキバまで生やしてるくせによ」

こういう話はあまり好きじゃない。カヤは、僕以外の人間なんてほとんど知らないから、僕だけを特別視している。きっと、もっとちゃんとした人間になれば、僕じゃない人間を特別に思うことができるようになる。まだ未熟なうちに、こんなやつに縛りつけてしまうのはよくない。

「だって……」

「だってじゃない」

露骨にがっかりしたカヤの歯を離して、両手で頬を押さえつけてやる。

「お前が人間になれるのなんてまだまだずっと先だ。馬鹿なことはその時に考えろ」

僕がそういうと、一気に表情が明るくなった。フォローしてやったわけじゃないけれど、まだまだカヤを独り立ちさせるのは早すぎる。人を食べなくなるまで、人と同じ食べ物から栄養を摂取できるようになるまで、人に混じって生活できるようになるまでは、僕が見ててやらないと。

「ボク、あとどれくらいかかるか分かんないよ?」

嬉しそうな顔をして、カヤがまたきらきらした目で僕を見る。この目は好きじゃないけれど、明るい表情でいるうちはまだマシだ。

「お前が人間になれるまで、何年でもつきっきりで見ててやるよ」

「うん!」

たしかに、カヤがいなければいいと少しは思っているし、あの夢も否定はできないけれど、全部がそうというわけじゃない。いてもいいと思っているのも事実だし、いてくれて助かることがあるのも事実だ。もうしばらくは、カヤのそばにいてもいい。

どちらかといえば、カヤのそばにいる自分の方が自然だ。



一週間ぶりに学校へ行くと、もう終業式で、午前中でおしまいだった。一緒にお祭りへ行った友人とは病院ですでに連絡が取れていたけれど、それでも、実際に会ったら泣くほど心配してくれていた。他の友達もそう。みんながたくさん心配してくれて、私が学校に来たことを喜んでくれた。私以外にも、この学校の生徒で怪我をした人はたくさんいるし、まだ入院してる子も、亡くなった子だっているのに。

打ち上げ花火の会場に爆弾が仕掛けられ、それが破裂した。多数の犠牲者を出したテロ事件は、実行犯とみられる男の拘束によって一応はひと段落ということになっているけれど、まだまだ世間の関心は高い。テレビでも連日取り上げているし、SNSでは現在も頻繁に安否確認の書き込みが回ってくる。

テロも爆弾も犯人も、全部が嘘っぱちなのに。

私は全て聞いた。父の仕事のことも、あの打ち上げ会場で暴れた生物のことも。現場を目撃した一般人は処分するとかいう馬鹿みたいなルールがあるくせに、それが関係者の身内だと簡単に捻じ曲げられる。

私が誰の娘だろうと、あの場で殺せば良かったのだ。中途半端にルールを変えるから、娘に嫌われたくないからと、馬鹿な男が口を滑らせるから、私みたいなやつが生まれてしまう。

「……誰?」

友人一同からの励ましの言葉の数々に感謝しつつ、ようやく廊下で見つけたシンを人目につかないところまで連れ出した。

本当に私のことなんて覚えていない。

私は、全部知っている。

「悪いけど、僕はこれからバイトがあるんだよ。早く行かないと」

「霜島シン。血液型はB、二歳の時に両親と死別、養護施設で育ち、現在は市内の住宅に一人暮らし。ぜーんぶ嘘」

早々に私に背中を向けたシンに、知っている情報を投げつける。

「被験体1475号、研究室生まれの試験管ベビー、W-1258と拠点番号C-3-6に同居。W-1258の……」

私がそこまで言ったとき、振り向いたシンが一瞬で距離を詰めてきて、喉元を押さえられたまま壁に叩きつけられる。そのまま腹を殴られて、こみ上げてくる吐き気を締められた首にせき止められたまま、ほとんど力の入らなくなった身体をシンに持ち上げられた。

「僕が誰と住んでるって?」

床に投げ捨てられ、咳き込む間もなく髪の毛を掴んで頭を持ち上げられる。

「……W-1258」

耳元で囁かれた問いに掠れた声でなんとか答えると、シンは舌打ちしてまた私を床に投げ捨てた。

「カヤだ。あいつはそんな名前じゃない」

W-1258。それが、あの現場でシンが連れていた女の子の名前。シンに地獄を強いている元凶。シンが特別な執着を見せているとは聞いていたけれど、まさかこれほどとは。

「お前が誰だか知らないけど、カヤのことを傷つけるつもりならこの場で殺してやる」

「待って……」

シンは本気だ。私がこの場であの子の敵だと思われたら、本当に殺される。

「私はあなたを助けたいの……」

私は、シンに敵対するつもりはない。あの日、知らなくていいことまで知ってしまったから、シンの力になりたい。W-1258が存在する理由も、そのそばにシンが置かれている理由も、シンの未来も、全て知ってしまったから。

「僕を助けたいなら、近寄るな」

そう言うと、シンはまた私に背中を向けて歩きだす。

「待って!」

このままではいけない。こんなこと、許されてはいけない。

「このままあの子と一緒にいたら、あなたは……」

「何がどうなろうと関係ない。僕にはあいつしかいないんだよ」

「それがいけないのよ!」

シンがW-1258に特別な感情を抱いているのは、そう調整されているから。そのために造られたから。きっと、あの子のためならシンはどんなこともするだろう。痛みも恐怖も意に介さず、最後の日がくるまで、あの子のためになんでもする。そのために生み出されたのだから。

「もう関わるな。次は殺す」

それきり、シンはもう私に振り返らずに行ってしまった。

私は床に這ったまま、口の端から流れる涎を強引に拭う。

「諦めないから……」

このまま、拒絶されたままでは終わらせない。こんなこと、あっていいはずがない。

訳のわからない生き物のためにシンが死ぬなど、許されない。人を食う化け物を飼い慣らすための餌として生み出された人間なんて、最後にはその化け物に食われるのが決まっているなんて、絶対にだめだ。

「許さない、お父さん……」

食い殺されるための人間を人間として育てるなんて、そんなの人間のすることじゃない。感情を与えて、愛を与えて、ふたりで暮らしてしっかりと絆を育んだ後に食い殺されるなんて、あまりにもシンが可哀想だ。

私は、知らなくていいことまで知ってしまった。父が私に伝えてしまった。だから、邪魔をする。こんな馬鹿げた話、私が否定してみせる。

愚かな父のせいで命を丸ごと振り回されているシンの死を回避するのが、あの男の血を受け継いだ私のやるべきことだ。


おしまい

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