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the cat's meow

作者: 戸松秋茄子

 吾輩は猫である。名前はまだ無い。

                   夏目漱石『吾輩は猫である』

   0


 ときおり前世の夢を見る。


 にゃあ。


 ツタに覆われた洋館の薄暗い庭の隅で、あなたに出会う夢を見る。


 にゃあ。


 ツタに覆われた洋館の薄暗い庭の隅で、あなたに見守られながら遊び回る夢を見る。


 にゃあ。


 ツタに覆われた洋館の薄暗い庭の隅で、あなたにもらった名前で呼ばれる夢を見る。


 にゃあ。


 起きたらもう覚えていない。


   1


 晩冬の風が、断末魔のような唸りをあげて通り過ぎると、グランパレス栄の外廊下はふたたび静まり返った。トン、トン、トン、とリズミカルな足音を響かせながら、わたしは大宮家の部屋を目指す。


 五二七、五二八、五二九、五三〇、五三一――


 わたしは足を止めた。


 ピンポーン。


 誰も出ない。


 ピンポーン。


 誰も出ない。ドアに耳を当てる。カタカタと、雄二のハムスターが滑車を回す音が聞こえる。


 ピンポーン。


 ベッドが軋む音がした。しぶしぶと言った様子で立ち上がる雄二の姿が目に浮かぶ。ゆっくりと自室のドアを開け、気の進まなさそうな足取りで玄関に向かってくる。わたしはドアから耳を離した。足音がぴたりと止まると同時に、インターホンに応答があった。


「来るなって言っただろ」


 寝起きのように低い声だった。


「お願い。頼みたいことがあるの」


「入試の出題予想なら相手を間違えてるぞ」自嘲のこもった口調だった。雄二はすでに工業高校への入学が決まっていた。「地道に追い込みをかけるんだな」


「泉さんみたいに?」


 雄二は言葉を詰まらせた。その事実に、少し勝ち誇った気持ちになる。


「入試なんてどうでもいいの」


「どうでもいいわけないだろ」雄二は言った。「おばさんが心配する前に帰れ」


「お母さんの話はしないで」


 雄二は事情を察したように、「おいおい、勘弁してくれよ。入試の前日に家出か? うちに泊めろって言うんなら無理な話だからな」


「どうして?」わたしは言った。「泉さんは追い込み中なんでしょ。いくら同じマンションに住んでるからって、彼氏の部屋に立ち寄る余裕なんてないと思うけど」


「やめろよ。向こうからこっちの玄関が見えるんだから」


 振り返って確認する。グランパレス栄は、コの字型の十二階建てマンションだ。大宮家の五三一号室は南棟角部屋のすぐ隣だった。向かいには北棟の、左手には西棟の外廊下がそれぞれ見渡せる。三一二号室は西棟にあったはずだ。二階下――無個性なドアがずらりと並んでいる。この距離からでは部屋の番号までは確認できない。


「なるほどね、それが不安だったんだ」


「そういうんじゃ――」


「あ、泉さんが出てきた」


「え?」雄二は素っ頓狂な声を漏らした。「おい、早くしゃがめ!」


 わたしは息をひそめた。角部屋の真間家は小学生の子供が二人いる。ドアの前にはプラスチックのプランターが仲良く並んでいた。


「行ったか?」


 雄二の口調があまりにも深刻なものだから、思わず声をあげて笑ってしまった。


「からかったな」雄二はようやく気づいたようだった。顔を真っ赤にしていることは想像に難くない。「ストレス解消ならよそでやってくれ」


「ごめん」


 遠くでサイレンの音が聞こえた。消防車だろうか。マンションの北部に面した幹線道路を、こっちに向かって進んでくるらしい。紙を割くような、いやな音だった。乾燥した空気を伝って、わたしの肌をびりびりと震わせる。


「お前、なんかおかしいぞ」


「あのね」わたしは切り出した。「申弥がいなくなっちゃったの」


   2


『申弥ぁ?』母は言った。『そういえば、起きてから見てへんなあ』


 それだけ言ってテープ起こしの作業に戻ろうとするので、慌てて引き留めた。


『そんなわけないでしょ』わたしは言った。『わたしが家を出るときは、たしかにいたのに』


 母は居間の布団で寝ていた。今月は、雇われ店長をやっているコンビニで夜勤のシフトに入っていた。


『かんかん声でわめきなさんなって』母は言った。ずり落ちた老眼鏡を指で直し、小声で続ける。『お隣がうるさいのをお忘れ?』


 ハイツ住谷の壁は、ウエハースのように薄かった。テープ起こしの打鍵音にも苦情が来たことがある。母は作業机を反対側の壁際に移さなくてはならなかった。


『発情期やからね』母は言った。『申弥も雄やし、雌猫が甘えた声でにゃんにゃん鳴いてれば、ふらっと飛び出したくもなるやろ』


『去勢してるの忘れたの?』


『なら、散歩でもしてるんやろ。腹ペコになったら帰ってくるわ』この話はおしまいとばかりに、母は手をぱんと叩いた。『それより、何か忘れてへん? 受験生さん。やることやりや。明日になって、後悔したくあらへんやろ?』


『お母さんががっかりしたくないんでしょ』わたしは小声で言った。


『何? お母さん、もうイヤホンつけてもうた。そんなか細い声じゃ聞こえへんよ』


『もういい』


 わたしは母に背を向けた。視線の先にあるのは、五畳半の和室――素晴らしきわが子供部屋だ。教科書、ノートが収まったカラーボックス。勉強机がわりのこたつ。折りたたまれた布団。い草のカーペット。猫のトイレと段ボールのキャットタワー。


『そうそう』母は慰めるように言った。『今夜はカツ丼にしようと思ってんねん。お店の売れ残りじゃなくて、ちゃあんと、お母さんの手作りやからね』


『そんなので喜ぶほど子供じゃない』


『何、拗ねてんの』母は言った。『ホント、子供なんやから』


『子供じゃないってば!』わたしは怒鳴った。間髪入れず、隣人が壁を叩く音がした。


 ドンドン。


『しいっ』母は子供をたしなめるように言った。それから、小声で続ける。『まったく、あのママさん、壁に張りついてるんとちゃう』


『お母さんは、申弥がいなくなってもどうだっていいんだ』


『大袈裟やなあ』母は言った。『申弥もいまごろ、よその猫に相談してるとこなんちゃう。飼い主の女の子が過保護で困るって。ほら、お店までの道中にガラガラの駐車場があるやろ。あそこでよく猫が井戸端会議してるのを見かけんねん』


『申弥は家を出たことなんてなかったんだよ!』


 ドンドン。


『騒がしくてどうも』母は声を張り上げた。それから、わたしに向かって、『元は野良やろ。こんな狭い部屋じゃ、猫だって息がつまるってもんやって。たまには外に出してあげても――』


『お母さんが逃がしたの!?』


 ドンドン。


『揚げ足をとるもんやないよ』それから、どちらにともなく、『ああ、もうやかましい!』


 ドンドン。


『お母さんはわかってない!』わたしは叫んだ。『申弥はわたしの弟なんだよ!』


 ドン!


『あんた、まだそんなこと――』母は言葉を切った。『ちょっと、未亜。どこ行くん』


 わたしはニッセンのスニーカーをつっかけながら言った。『申弥を探しに行く』


『入試はどうなんの』母は言った。『お母さんを失望させる気? たった一人の家族を?』


『申弥だって家族だもん!』


 わたしはドアを叩きつけた。


 ドン!


   3


 雄二は、ドアを開くなり目を丸くした。


「お前、そんな格好で来たのか」


 わたしは無視して、「申弥の顔は覚えてる?」


「茶白の雄だろ。首輪はしてたっけ?」


「うん。ミサンガのやつ」


「なら、すぐわかるな」


 雄二は紺のピーコートを着ていた。神経を尖らせているときの癖で、キーホルダーを指に引っかけぶんぶんと回している。泉さんのことが気になるらしい、ロビーまで降り、オートロックを抜けて、駐輪場へ向かう間、絶えず周囲に目を光らせていた。


「二手に分かれよう」雄二は三段変速のシティサイクルを出庫させながら言った。「連絡は――って、スマホ持ってなかったな」


「捕まえたら、駄菓子屋の前で待ってて」


「逃げられないか? 僕の顔なんて覚えてないだろ」


「とりあえず試してみて。逃げられたら……そうだね、やっぱり駄菓子屋の前で待ってて。わたしも定期的に立ち寄るから」


「まあ、そんな遠くには行かないだろうしな」雄二は言った。「コンビニで猫のおやつでも買っておくよ。少しは捕まえやすくなるだろ」


「ありがとう」


 雄二は変速機をカチャカチャさせながら、


「自転車使うか?」


「ううん、いい」


   4


 陽が傾きつつあった。春はまだ遠い。ときおり強い風が低層住宅地の細い道路を吹き抜ける。部屋着のまま飛び出してきたことを後悔した。路上で遊ぶ子供、話し込む主婦、散歩帰りの老人――奇異の視線を感じながら、一帯を走り回った。家々や植木鉢の隙間、塀の上や屋根の上への注意も忘れない。


「申弥ぁ」


 建売住宅が並ぶ一角を抜けると、商店街に面した通りに出た。買い出し中の主婦や子供の姿が目立つ。精肉店から揚げ物の香ばしい匂いが漂ってくる。財布はない。息を止めて走り抜けた。


「申弥ぁ。申弥ぁ」


 商店街の入り口を通り過ぎ、裏通りに入った。パチンコホールのドアが開閉する度、賑やかな音が漏れる。


「申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ」


 診療所、コンビニ、和菓子屋、クリーニング店、公衆浴場、雀荘、居酒屋――民家と商業施設が混在する通りを抜けると、私鉄の路線にぶつかる。このあたりまで来ると、猫には遠すぎる距離だ。路線に沿って西に進み、自宅の方角へと引き換えすことにした。


「申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ」


 黒い街路樹が立ち並ぶ通りを北上する。公営住宅の敷地で、スズメたちがちょこまかと飛び跳ねていた。


「申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ。申弥ぁ」


 三毛猫、キジ猫、サビ猫、サバ猫、黒猫――下町に溶け込む野良猫たち。しかし、申弥はいない。首輪がついた茶白の雄猫はいない。


「申弥?」


 お寺の前で茶色い後姿を見つけた。すぐに角を折れて見えなくなる。わたしは追いかけた。路地裏と言っていいだろう、文化住宅と古い民家が軒を並べていた。道は、わずかにうねるようにして奥に伸びているが、猫の姿は見当たらない。


「申弥? 申弥?」


 文化住宅の手前で左に折れる道があった。覗き込むと、空き地が続いており、正面は「安全第一」のフェンスに阻まれていた。ここからでは、左右に折れる道があるのかわからない。確かめるべきだろう。しかし、なぜか足がすくんだ。


『未亜?』


 記憶の中で、わたしは母に手を引かれている。視線の先には、野良猫がいて、わたしと目が合うと、路地裏に逃げ込んでしまう。とっさに追いかけようとするが、母はわたしの手を握ったまま動かない。


『お母さん、猫』


『こういうところは危ないのよ』


 いまとは別人のような口調だった。思い出して、少し驚く。


『どうして?』


『人目がないところにはね、悪いものが棲みつくの』


 おそらく十年以上前の記憶だ。ここと同じ場所かどうかもわからない。どうして、急にこんなことを思い出したのかわからなかった。


 ガアガア。


 カラスが頭上を飛び去って行く。わたしはフェンスを見つめたまま動けない。


 ガアガア。ガアガア。


 一歩、二歩と後じさりした。


 ガアガア。ガアガア。ガアガア。


 強い風が路地裏を吹き抜けた。洗濯物だろうか、どこか近くで布が激しくなびく音が聞こえる。 


 ガアガア。ガアガア。ガアガア。ガアガア。


 わたしは部屋着のまま飛び出してきたことを後悔した。


 ガアガア。ガアガア。ガアガア。ガアガア。ガアガア。


 表通りに出ようというところで足がもつれ、そのまま倒れ込んだ。激痛。わたしは手をついて体を起こし――


『未亜?』


 痛みが呼び水となったのか、記憶がふたたび蘇る。野良猫――たしかオッドアイだった。目が合うと、路地裏へと逃げ込み――


「待っ――」


 しかし、わたしは立ち上がることができず、追いかけることができず――手をついたまま、四つん這いになったまま動けない。


「未亜?」


 呼びかけとともに自転車のブレーキ音が聞こえた。振り向くと、雄二が自転車を降りるところだった。夕日を背負っている。


「大丈夫か?」


「うん……」


 雄二の手を借りて立ち上がる。右膝が擦り剝けていた。


「何やってんだよ」


「猫……」


「申弥のことか? あいにくと、まだ見つかってないよ」


 わたしは膝から目を上げた。路地裏の方を振り向いて、それから雄二と目を合わせる。灯油巡回販売サービスの車が近くを回っているらしい、テーマ曲の「雪やこんこん」が聞こえた。


「そう」


   5


「自分でできるよ」


 雄二は聞かなかった。わたしを公園のベンチに座らせると、その正面にしゃがみ込み、傷の手当てをはじめる。コンビニの袋に入ったミネラルウォーター、ウェットティッシュ、絆創膏。


「痛ぁ……」ミネラルウォーターが傷にしみた。


「すぐすむ」雄二は慎重に、ウェットティッシュを押し当てた。汚れを拭い、最後に絆創膏を貼る。


「慣れてるね」


「よく転ぶ部活だったからな」雄二は立ち上がった。「何か飲むか?」


「うん」


 雄二は駄菓子屋前の自販機に向かった。待っている間、公園の外を制服の同級生が通り過ぎるのが見えた。塾に行くのだろうか。入試の前日に猫を探して走り回っていることがひどく非現実的に思えた。


「ココアでよかったか」雄二はコーヒーとココアの缶を提げて帰ってきた。


「うん」


 公園には、わたしたちの他に、リフティングの練習をする少年が一人いるだけだった。ベンチに座ったわたしたちと、遊具の影が長く伸びている。ブランコ、滑り台、鉄棒、うんてい。ジャングルジムが撤去されたのはいつ頃のことだったろう。雄二と最後にこの公園で遊んだのは。


「思うんだが、いったん帰ったらどうだ」雄二は缶コーヒーのプルタブを引っ張りながら言った。「申弥だってもう帰ってるかもしれないだろ」


「うちにいないのはわかってるでしょ」わたしは言った。「どうせ、電話して確認したくせに」


 横目で睨みつけると、雄二は気まずそうに目をそらした。


「それを期待しなかったなんて言うなよ」雄二は白い息を吐いた。「やっぱりおばさんと喧嘩してたんだな」


「そんなんじゃないよ」


 雄二は無視して、「お前は頭いいんだから、変な意地で将来を無駄にするなよ」


「何それ」


「事実だろ」雄二はコーヒーを飲み干すようにしてから、続けた。「誰より早く足し算ができたじゃないか」


「本当に頭がよかったら」わたしは言った。「入試前日の追い込みなんて必要ないと思わない?」


 雄二は手に負えないとばかりに首を振った。空っぽの缶コーヒーを傾け、飲む真似をする。そして、東の空を眺めながら言った。「暗くなるな」


 公園の時計に目をやると、五時半を回っていた。


「二年の日村って子」雄二は急に言った。「家出したまま戻らないって知ってるか?」


「申弥を見つけたら戻るってば」


「そうじゃない」雄二は首を振った。「元々夜遊びする子だったから事件になってないけど、攫われたって噂もあるんだ。っていうのも、他にも家出したまま戻らない子がけっこういて――」


「帰らせたいんだ」わたしは遮った。「どうしてお母さんの味方するの。そんな嘘までついて」


「おい、急にどうしたんだよ」雄二は戸惑ったように言った。「泣いてるのか」


「泣いてない」わたしは顔を背けた。


 ポーン、ポーン、ポーンと、少年がボールを蹴り上げる音が聞こえてくる。七回まで数えたところで、雄二が肩に腕を回してきた。そのまま自分の方に引き寄せ、髪を撫ではじめる。


「むかしからそうだったよな。甘えたの癖に変なとこで強がりで」


 もう一方の手を、わたしの手に重ねてくる。缶コーヒーであったまった手が、わたしの手をすっぽり覆い、指を絡ませてきた。


「彼女がいるのに、こういうことしていいの」


「言うなよ」雄二の呼気が耳をくすぐった。


「あ」


 気の抜けた声とともに、リフティングの音が止まった。ボールが地面を転がる。少年は再度、足でボールを上げリフティングを再開するが、長く続かない。こちらを気にしているのかもしれない。わたしは雄二の腕から逃れるように身をよじった。


 雄二は気まずそうに言った。「腹空かないか?」


「いい」わたしは首を振った。「今晩はカツ丼らしいから」


「そうか」雄二はかえって安心したようだった。


 わたしたちは立ち上がった。雄二が二人分の空き缶をまとめてゴミ箱に捨てる。二人で公園の外に出る。自転車の前まで来ると、雄二は不意にこちらを振り向きコートを脱ぎはじめた。


「これ着ろ」雄二は脱いだコートを、わたしの肩にかけた。よく着こまれたメルトン生地のピーコート。まだ雄二の熱が残っている。


「ぶかぶかなんだけど」わたしは袖に腕を通しながら言った。


「そのままの格好よりましだ」雄二は鍵を差し込みながら言った。「気をつけろよ。さっきのはただの噂にしても、不審者がいないわけじゃないんだからな」


「もうすぐ春だしね」


「そうだな。春だな」雄二はスタンドを蹴った。足で前輪のLEDライトを点灯し、サドルにまたがる。「じゃあ、またここで」


「うん」


 雄二はペダルをこぎはじめた。自転車にまたがった背中が遠くなっていく。公園の角を折れるのを待って反対方向に振り向くと、夕闇の路上で怪しげに輝く双眸と目が合った。


 にゃあ。


 オッドアイの白猫。


   6


 陽が沈みつつあった。コートのぬくもりが心強い。ボールを抱えて走る子供、退勤中のサラリーマンとすれ違いながら、白い後姿を追う。


『未亜?』


 黒い街路樹が並ぶ通りを南下する。これからねぐらに帰るのだろう、電線に群がったスズメたちがやかましくおしゃべりしていた。お腹を空かせているのか、白猫が足を止め、飛び立つスズメを見送る。


『お母さん、猫』


 診療所、コンビニ、学習塾、理容室、喫茶店、新聞販売店――民家と商業施設が混在する通りを抜けると、私鉄の路線にぶつかる。カンカンカン――かん高い踏切の音。白猫はその音を嫌ったように、パン屋の角を右に折れた。しばらく直進し、タバコ屋の角を折れ、砂利道に入った。


『こういうところは危ないのよ』


 砂利を踏む音。背後から聞こえてくる。じゃり、じゃり、じゃり……振り返って確認するが誰もいない。


『どうして?』


 砂利道を抜けると、例の寺に面した通りに出る。


『人目がないところにはね、悪いものが棲みつくの』


 白猫は逆方向に折れた。


「申弥……」

 わたしはつぶやいた。

「申弥……」


 やがて、町を縦に貫く幹線道路の裏通りに出た。徐行する車をやり過ごすようにしてから、白猫は北上しはじめる。左手には、平屋が目立つ民家が並び、右手には、月極の駐車場があった。


『ほら、お店までの道中にガラガラの駐車場があるだろ』


 後ろを振り返った。誰もいない。窓から漏れる明かり。換気扇が回る音。料理の匂い。


『あそこでよく猫が井戸端会議してるのを見かけるんだ』


 白猫は駐車場に足を踏み入れた。土地を遊ばせるとはこのことだろう、野球でもできそうな広さだが、契約者はあまり多くない。車の陰に猫が隠れているのを見つけた。一匹、二匹、三匹……何匹かまとまっているものもいる。


『申弥もいまごろ、よその猫に相談してるとこなんじゃないかい。飼い主の女の子が過保護で困るってね』


 白猫は足を止めた。猫が何匹か周りに集まってくる。ほどなくして、互いに毛づくろいをはじめた。駐車場全体を見回すが、首輪がついた猫はいない。


「申弥……」

 駐車場に集まってくる猫を、車の陰から観察した。申弥ではない猫たちを。

「申弥……」

 やがて陽が落ちた。

「申弥……」


 にゃあ。


 陽が沈むのを見送るようにした後、白猫が鳴いた。


 にゃあ。


 ごろごろしていた猫たちが不承不承と言った体で立ち上がる。


 にゃあ。


 隊列が組まれつつあった。白猫を先頭に、駐車場の奥へと向かっていく。


 にゃあ。


 白猫の進路の先、フェンスの手前に、白いワンボックスカーが停車していた。白猫がその裏に消える。


 にゃあ。


 裏に回り込むと、車に隠れる格好で、人がかろうじて通り抜けられる幅の出入り口があった。後ろから来た猫たちが、石積みの階段を飛び降りていく。フェンス越しに、猫たちが路地裏を歩いているのが見えた。


 ゴオオオ。


 飛行機が頭上を飛び去って行く。わたしはフェンスの隙間を見つめたまま動けない。


 ゴオオオオオオ。


 一歩、二歩と踏み出した。


 ゴオオオオオオオオオ。


 コートのぬくもりが心強い。


 ゴオオオオオオオオオオオオ。


 わたしは階段を踏みしめた。


 ゴオオオオオオオオオオオオオオオ。


「申弥……」

『家出したまま戻らないって知ってるか?』

「申弥……」

『元々夜遊びする子だったから事件になってないけど、攫われたって噂もあるんだ』

「申弥……」

『っていうのも、他にも家出したまま戻らない子がけっこういて――』

「申弥……」


 んにゃあおお。


 路地裏には、アパートや文化住宅の背面が並んでいる。窓に明かりはない。料理の匂いはない。換気扇が回る音もない。どういう人間が生活しているのか想像もつかなかった。


 んにゃあおお。んにゃあおお。


 道はまっすぐ続いた。ほどなくして、駐車場の横を通り過ぎる。漆喰壁のアパート、そのさらに奥に、緑深い一角があった。高い塀に囲まれている。塀は道の奥で右手に向かって直角に折れており、行き止まりを作っていた。その手前には「安全第一」の低いフェンスが立てかけてある。背後には何かガラクタらしきものが積んであって、その上にブルーシートがかぶせてあった。汚れた水が溜まっている。落ち葉と木の枝。後輪が外れた自転車が、まるで重石のようにシートの上に投げ捨てられていた。


 んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。


 鳴き声は塀の向こうから聞こえた。一匹ではなく、何匹もの声が重なって聞こえてくる。


 んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。


 塀の手前にゴミ箱があった。白猫がその上に飛び乗る。そこから塀の上へと飛び移り、向こう側に姿を消した。


 んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。


 わたしは立ち尽くした。


 んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。


 猫たちは次々に続いた。一匹、二匹、三匹……ゴミ箱から塀の上へと軽快に飛び移っていく。


 んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。


 猫の列が途切れるのを待って、ゴミ箱に登った。バランスを取り、足場が崩れないことに安堵しながら、塀の上を見やる。


 んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。んにゃあおお。


 わたしは思い切って飛びつき、塀の縁を掴んだ。


「申弥……」


   7


『申弥』


 その名前は自然と口をついて出た。


『申弥』


 親とはぐれた子猫。アパートの裏で、体を震わせぴいぴいと鳴いていた。


『申弥』


 手を噛まれながらもなんとか捕らえ、病院に連れて行った。虫下し、ワクチン、検査――母を説得して代金を払わせた。


『申弥』


 段ボールとクッションでベッドを拵えた。その安らかな寝顔に一生かけて守ると誓った。


   8

 

 塀の内側に転げ落ちた。ぼうぼうに茂った草がわたしの体を受け止める。


「申弥!」


 わたしは立ち上がった。草がちくちくと足を刺す。ざわざわ、と音を立てながら、建物が落とす影の中を進んだ。


「申弥!」


 ツタに覆われた洋館だった。緑の隙間から辛うじて、レンガ積みの壁とスレート屋根が窺える。


「申弥!」


 裏手から正面に回る。人の出入りがないのだろうか、門扉はツタに覆われている。庭の隅には、カシやシイが半ば林のように密集していた。


「申弥!」


 三毛猫、キジ猫、サビ猫、サバ猫、黒猫――緑の中に溶け込む野良猫たち。じゃれ合い、威嚇し合い、あるいは鳴き――しかし、申弥はいない。首輪がついた茶白の雄猫はいない。


「申弥……」


 わたしは猫と緑の中に立ち尽くした。茂みに縁どられた狭い空を、飛行機が横切っていく。離発着のラッシュがはじまる時間だった。耳慣れたはずの物音がやけに空々しく聞こえた。


 にゃあ。


 わたしはその声を聞き逃さなかった。


「申弥!」


 申弥はそこにいた。ツタに覆われた洋館の、薄暗い庭の隅。切り株の上で丸くなっている。


「申弥!」


 申弥は切り株から降りた。猫たちの間を縫って、こちらに向かって駆け寄ってくる。わたしはそれを迎え、抱え上げた。


「申弥ぁ。申弥ぁ……」


 柔らかな毛並み。太陽と緑の匂い。生命のぬくもり……家を出た間に、少し重くなったような気がした。念のために確認するが間違いなく申弥だ。ミサンガの首輪、前足の水玉模様、あまり雄らしくない小さな顔。


「心配したんだから」わたしは言った。「家に帰るよ」


 みゃあお。


 申弥がぐずりだす。むかしから抱っこは苦手だった。


「自分で歩きたいの?」


 地面に下ろしてあげる。すると、申弥は洋館に向かって一直線に走り出した。壁面がツタに覆われているが、テラスに出る窓だけは屋根に守られ浸食を免れている。窓がわずかに開いており、申弥はその隙間に吸い込まれるようにして姿を消した。


「待って!」


 わたしは追いかけた。天井が高いのか、二階建てにしては大きな建物だった。距離感が狂わされる。騙し絵でも見ている気分だった。 


「申弥……」


 カーテンがわずかに揺れていた。その隙間からオレンジ色の光が漏れている。猫の鳴き声。飛び跳ねる音。それらを咎める声はない。


「あの、すみません」


 大声で呼びかけようとしたが、声が思ったように出なかった。当然のように返事はない。もう一度繰り返す。


「あの、すみません」


 返事はない。声を発する度に、身体ごとちいさくなっていくようだった。


「あの――」


 ゴオオオオオオオ。


 離発着のラッシュが続く。わたしは言葉を切って、ふと足元を見下ろした。コートが膝を隠している。裾をめくると、膝の傷が剥き出しになっていた。スニーカーは片方が脱げている。どこで落としたのだろう。


 ゴオオオオオオオ。


「夢なんだ」わたしはつぶやいた。「きっと何度も繰り返して見る夢なんだ。起きたら忘れちゃうような、うたかたの、はかない夢」


 ゴオオオオオオオ。


「わたしはここで何度も申弥を見つけて、それで――」


 ゴオオオオオオオ。


「だから、わたしはこの場所を知っている。だから、わたしはここに誘い込まれた」


 ゴオオオオオオオ。


「毎晩、訪れてるから。これまでも、これからもずっと訪れ続けるから」


 ゴオオオオオオオ。


「ねえ、そうだよね、申弥」


 ゴオオオオオオオ。


 空が闇の軍勢に屈しつつあった。西方の撤退戦は、もう間もなく決着がつくだろう。半分だけの月が、決着を待ちかねたように東の空に顔を覗かせていた。


 ゴオオオオオオオ。


「申弥」わたしは声を絞り出した。「ごめんね」


 ゴオオオオオオオ。


「わたしが勉強ばっかりでさびしかったんだよね。でももう大丈夫だよ、明日で全部終わるから」


 ゴオオオオオオオ。


「でもね、それでも外に出たいっていうんなら、いいよ。今度からたまに散歩に出してあげる。だから、ねえ、うちに帰ろう?」


 ゴオオオオオオオ。


「お母さんだって、きっと心配してるよ」


 ゴオオオオオオオ。


「お母さん、いまごろ職場だろうな。謝るのは明日になっちゃいそう」


 ゴオオオオオオオ。


「でもきっと、この夢じゃもうお母さんには会えないんだよね」


 ゴオオオオオオオ。


「カツ丼、食べたかったな」


 ゴオオオオオオオ。


「お母さ――」


 ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ。


   9


 にゃあ。


 すぐ耳元で鳴き声が聞こえた。顔を舐められる。くすぐったさに目を開けると、ぼやけた視界に、二本足で立つ大きな影が浮かび上がってきた。


「あら、大変」年齢が読み取りづらいソプラノだった。外国人かもしれない、どこかぎこちない発音で、隣の猫に問う。「あなたのお友達?」


 にゃあ。


「そうね、手当てしないと」


 あなたはわたしを抱え上げた。歩きはじめる。進行方向にぼんやりと、オレンジ色の明かりが見えた。


「あなたのご飯も用意しないとね」


 あなたがわたしに微笑みかけるのがわかった。見上げると、左右で異なる色の瞳が優しげに細められていた。


「ふふ、あなたのことは何て呼べばいいかしら」


 わたしはあなたに応えた。


 にゃあ。

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