食事
狂ってる。
マコトはただただそう考えていた。
先ほどまでの異常な光景も、そして自分の身におきた結果も。
そして今いる何もなく何も感じないただ暗闇に包まれた空間も、全てに対してマコトはそう言ったのだ。
そう言わなければマコトはマコトを保てなかった。
そう断じなければ、まるで自分も狂ってしまったかのように感じてしまうからだ。
少なくとも少し前。
今の自分に正確な時間を推測する自信はないけれど、体感的には少し前。
僕は間違いない狂っていた。
そうマコトは思っている。
黒いナニか。今振り返れば得体の知れない、クラスメイトみんなを飲み込んだ恐怖そのもののようなもの。
マコトはそれに対し、叫び声をあげるのでもなく足を震わせ逃げるのでもなく。受け入れるかのようにその黒いナニかを受け入れたのだ。
これが狂っていると言わずして何と言おう。
マコトはそう考える。
そして今マコトを取り囲む暗闇。
立っている感触はない。
他に何かの気配も感じない。
自分が立っているのか、座っているのか、横たわっているのか。
目を開いているのか、開いてないのか。
声を出しているのか、声を出していないのか。
今自分に手があるのか、足があるのか、口があるのか、頭があるのか、それさえ定かではない。
狂いそうだった。
声をあげようにも、声帯らしき部分に力をいれても声はでない。
自分が目を開いているのか確認しようにも、手らしき部分に力をいれ頭に近づけようとも何もかも手応えがない。
まるで、マコトという存在が。脳だけを浮かせて暗闇に漂っているのではないか。
そう感じてしまうほどにマコトは狂いそうだった。
だからマコトはマコトを守るために狂っているのは自分ではない。自分ではない全てだと思うことで精神の均衡を保っていた。
しかし考えることしか出来ないマコトはこうも思ってしまうのだ。
己以外の全てが狂っているというならば、それは周りからみれば"己こそが狂っているのではないか"と。
マコトは感じない頭を振るう。
その考えを打ち消すように、何も見なかった。考えなかったとするように強く振るう。
そして神がその必死な姿を見て慈悲を与えたかのように、マコトは突然自分に腕があることを実感した。
頭もある。
体もある。
足もある。
口も。舌も。花も。髪も。胸も。臍も。手も。爪も。
自分の肉体を構成する、全ての器官が己にはあることを見えはしないけど実感した。
そのことに対しマコトは歓喜する。
自分には体がある!
見ることは出来ないけれど、今自分に腕があり手があり。指を開き、そして閉じる。
間違いなく自分はその行為をしているという実感があった。
やはり狂っていたのは自分ではない、周囲のほうだったのだとマコトは安堵した。
そして安堵共に落ち着きを取り戻した頭は思考する。
ここは何処なのか?
と、至極自然な疑問を。
目を開く…今確実に目があるのは実感出来るのだが、瞼を開いたように思っても自分が確認出来る状況は暗く真っ黒に染められた空間だと言うことには変わりは無い。
同時にやはり自分は足で立つのでもなく、尻で座るのでもなく、横腹で横たわっているのでもなく、手で逆立ちをしている訳でもないのを再確認する。
常識的に考えればそれは宙にいるということであり、地球であるのならば落下している最中ということでしかこの状況は説明出来ない。
しかし自分に落ちているという実感はないし、また最もシンプルな否定の見解がある。
それは未だにして自分の体に触れることは出来ないということ。
先程と違い自分に四肢を持ち頭を持つことは間違いない。しかし自分の手で自分の体を触ることは出来ない。
マコトが以上のことから出した推論は、この空間で自分は意識を有しているが肉体はこの空間に存在しない。
そんな心と肉体が別々の場所にあるという推測だった。
そしてそのような状況を生み出す空間に対し、マコトは一つだけ心当たりがある。
それは――夢――。
要は自身が生み出す想像の中であり、自分が思想体であるということだ。
そこまで落ち着いた頭でミコトは考え、そして結論づけた。
でなければ、説明がつかないし。
言うなれば先程まで自分が慌てていたのは現実でうつ伏せになり、枕に顔を押し付け窒息しそうになっていたようなもの。
そんな風に考えれば筋も通る。
しかしそうなればさっきまでの全てのことは夢の一言で片付けられるのか。
片付けなければおかしい、狂っている。
そうマコトは考えるが、自分が飲み込まれたというあの感触だけは夢の一言では納得出来ない自分がいるのを感じた。
目を向けたりはしないけど。
ここが夢、もしくは自信の想像の範疇と信じるならば現実の自分に起きるまで待てばいい。
だからマコトはそれ以上の思考はせず、ただ何も考えず何も思わないことにした。
今のマコトにハッキリとした時間感覚はないが、考えなくなってから幾何かのときが流れたと思う。
触られている。
そう感じた。
自分の体の四肢を滑るように何かが触れている。
気持ち悪い。
正体の知れない者の肉体の接触など気味が悪いほかない。
もしも肉体と精神が繋がっているならば迷わずはねのけたりしたのだろうが、今の自分と肉体はリンクしておらず触られるがままだ。
マコトは否が応にも肉体を触られる、いや嬲られるのを我慢して享受するしかない。
その嬲る者は手を持つようだった。
人間のように五指を持ち、マコトの腕を足を髪を頬を目を耳を鼻を口を舌を、一つ一つじっくりと吟味するように触られていく。
恐怖。
マコトは自分の体を言い様に扱われ、自分の体がその何者かも分からない物にもてあそばれ手のひらの上にあることを如実に感じ取っていた。
今、己の命はその何者かに握られていることに。
突然だった。
マコトは今まで味わったことのない感覚を覚えた。
"溶かされている"
マコトはすぐさま理解する。
これは"食べられている"のだ。
いつもの逆のことだ。皿の上に置かれた料理。
いつもはその餌を手に取り咀嚼するのは僕だった。
それが逆になっただけ。僕が皿の上に置かれただけに過ぎない。
今僕は何者かの餌に過ぎないのだ。
咀嚼されている。皮膚が飴の様に溶け、骨がクッキーのように砕ける。
僕は僕の体のことなのに他人事のようにその事実を受け止めていた。
痛みはあった。
味わったことのないような感覚を覚えさせられながら。
しかしその何者かは優しかったようで神経を先に平らげ痛みが伴わない様にしてくれた。
マコトに残ったのは肉体一つ一つを解体されていくのを黙って受け止めることだけだった。
皮膚も骨も肉も内臓もその者はペロリと平らげた。
マコトには自分の肉体が失われたことに実感は伴わず最初と同じように何も感じなくなった空間で一人で佇む。
しかし何の感覚もないはずなのにマコトは分かっていた。
――見られている
その咀嚼者は"僕"を見つめている。
失った肉体に嘆くよりマコトはその事実に恐怖する。
圧倒的な優位者に対する恐怖。理不尽な暴力に対する恐怖。何の意味も分からない恐怖――自分を口に含まれた恐怖。
マコトの精神を包む壁もあっさりと溶かし咀嚼者はマコトを咀嚼した。
唾液を含ませ舌で舐め挙げ口の中で転がす。
そしてマコトをたっぷりと楽しんだあと"マズい物でも食べたかのように吐き出した"。
ふざけるなッッッ――!!
そのことに対しマコトが抱いた感情は、先程の恐怖なども払拭させるかのような激しい怒りだった。
――僕には食べる価値さえもないというのか! 肉一片の価値より低いというのか!?
何のしがらみも無いこの場では、マコトの本心が剥き出しになってその咀嚼者に伝えられた。
咀嚼者はマコトの怒りの感情に対し、面白いものを見つけた子供のような笑みを滲ませ何も残されていないマコトにこう囁いたのだ。
「だって貴方、マズいんだもの」