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31.指紋

 翌朝、洋介が電話で昨夜の出来事を簡単に説明すると、鹿子木は筑波ホビークラブにすっ飛んできた。洋介から一通り話を聞いた後、自信満々の表情で鹿子木が大声で言った。

「なるほど! この写真から判断すると、怪しい人物は美恵子、秀三、玲奈、正明、勇之助、雨引の六人ということになりますね」

「秀樹さんの撮影した写真は、郡頭本家の全ての場所をカバーできてはいないということを忘れてはいけませんけどね……」

「この六人の中では、美恵子が最も怪しいと思えますよ。もし、この白装束の人物が美恵子だとしたら、相沢秀樹が見失ってしまった後、どこに行ったと考えられるでしょうね?」

「まあ、いいでしょう。美恵子さんが犯人だと仮定したらの話をしましょうか。白装束の人が竹林の中に消えたことから考えると、あの農機具置き場に行って必要なものを持ち出し、キイロスズメバチの巣を威嚇したのではないかと思います。それから、私は思い出したことがあるんですよ。事件発生直後に鹿子木さんと一緒に郡頭本家を訪ねた時、玄関に出て来た美恵子さんは左手に白い包帯をしていましたよね。鹿子木さんは覚えておられませんか?」

「あれっ、そうでしたっけ?」


「確かに左手に包帯をしていたのです。美恵子さんは『梨を試しに剥いていた時、ちょっと切ってしまった』と言っていましたが、私はスズメバチに刺された傷ではないかと思うのです」

「きっとそうですよ。しかし、この一連の写真に写ってないというだけでは美恵子がこの白装束の人物で、スズメバチを威嚇したという証拠にはなりませんね。もう少しはっきりとした物証はありませんかねえ?」

「鹿子木さん、これから私の言うことは全て想像です。間違っているかもしれません。それを承知の上で聞いてください」

「分かりました。話してください」


「美恵子さんは、矢祭隆さんに電話して新品種の梨の収穫を依頼したのだと思います。その直後に本家の裏手にある倉庫に行き、防護服を急いで着て竹林の中の近道を通ってあの農機具小屋に行ったのではないでしょうか。あそこにオオスズメバチを数匹生かした状態で隠しておいた可能性は高いのではないかと思います。そのオオスズメバチと長い竹竿とを持ち出してキイロスズメバチの巣の所に行き、先ずオオスズメバチを放した後、竹竿で巣を威嚇したのだと思うのです」

「それで、スズメバチの巣は大混乱に陥り、凶暴になったキイロスズメバチは動くものなら何でも襲うようになってしまったというわけですね」

「そういう状況になっている所に矢祭さんがやってきて、あのような酷い刺され方をしたのだと思います」

「美恵子の思う壺にはまってしまったということですね」

「ところが、美恵子さんは何らかの理由で左手の手袋が脱げてしまったのでしょう。そのためスズメバチに刺されたのではないかと思うのです。それで、慌てて農機具小屋に逃げ込み、応急処置を施した後、手袋をしっかりとしてから何とか倉庫まで戻り、そこで防護服を脱いで何食わぬ顔をして本家の台所に入り、梨剥きの作業をしていたように装ったのでしょう。そして直ぐに手を切ってしまったと嘘をついて、皆の見えない所に行って自分一人できちんとした処置をしたのではないでしょうか。美恵子さんはハチにはかなり詳しい人だったようですから、スズメバチに刺された時の対処法もよく知っていたものと思われます」

「それで、我々と会った時に左手に包帯をしていたということですか……。あり得る話ですね」


「それでね、鹿子木さん。スズメバチに刺された美恵子さんが農機具小屋に入った時、彼女はすごく慌てていたのではないかと思います。スズメバチに関する知識の豊富な美恵子さんはスズメバチに刺された後、あの小屋の中に逃げ込むと直ぐに傷口から毒を押し出した可能性はあると思います。もしかするとその左手でどこかに触ったかもしれないと思うのです。そうであれば、美恵子さんの左手は普通の状態ではなく、刺し傷の周辺にスズメバチの毒成分が付着していたはずです。そんな手で触った指紋が採取されれば、相当有力な証拠になるのではないかと思うのです。あの農機具小屋に鑑識の捜査を入れていただくわけにはいかないでしょうか?」

「分かりました。ハチ刺され状態の美恵子の指紋を発見できる可能性は確かにありますよね。お任せください」


「実は夕べ、ハチ毒の成分について少し調べてみたのです。ハチ刺され状態の美恵子さんがあの小屋の中のどこかに触ったとします。そして、警察の鑑識による捜査でその指紋が発見された場合、それが証拠になる可能性があるかどうかが気になったものですからね」

 鹿子木は頷くと目を輝かして話の先を促すような素振りをした。

「スズメバチの毒成分は、主に『ハチ毒の三点セット』と呼ばれている、生体アミン、ペプチド、酵素の三種類から構成されています。生体アミンとしてはヒスタミン、セロトニン、アセチルコリンが、ペプチドとしてはホーネットキニンなどが、また、酵素としてはホスホリパーゼA、Bなどが含まれています。スズメバチでは他の生物毒と比べてセロトニンの量が多いことが特徴になっているのだそうです。

 事件のあった日にスズメバチに刺されて間もない手の指紋が付いたとして、それからかなりの時間が経過してしまいました。ハチ毒の各成分が分解や変性もしないでそのまま残っているかどうか心配だったのです」

「確かにその通りですね。それで、何か分かりましたか?」


「先ずヒスタミンですが、熱に相当安定であるので、一度生成されると焼き物や揚げ物などの加熱調理済みの食品であっても食中毒が発生するそうです。だから、ハチ毒が付着していれば検出できると思います。それからセロトニン、これはちょっとやっかいです。水溶液は弱酸性なら安定のようですが、光にはやや弱いようです。これは困ったぞ、と思ったのですが、希望はあります」

 心配そうな顔つきになっていた鹿子木は微笑みを取り戻して大きな声で言った。

「早く教えてくださいよ」

 洋介は笑いながら話を続けた。

「指紋が付いていた場所があの小屋の中なら、窓も付いてない所なので太陽の光はほとんど入ってこないと思います。また、美恵子さんが手袋の中で汗をかいていたとすれば、汗の成分には乳酸と尿酸が含まれているため、汗は弱酸性なのです。うまくすればセロトニンも分解や変性をしないで残っていてくれているかもしれません」

 それを聞いた鹿子木は胸を撫で下ろした。


「生体アミンの最後はアセチルコリンです。これは水に良く溶けるのですが、熱水やアルカリ中では分解されます。でも汗をかいていれば弱酸性になっていたはずですから、これも大丈夫かもしれません」

「そうすると、美恵子が汗をかいてからスズメバチに刺されたのであれば、生体アミンは三つとも検出される可能性があるわけですね」

「そういうことになります。あの日は雨上がりだったとは言え、まだ九月中旬でしたから、厚手の手袋をすれば汗をかいていた可能性はかなりあると思うのです。それからペプチドであるホーネットキニンですが、溶液が中性か弱酸性であれば熱に対しては非常に安定であると書かれていました。

 最後は酵素ですが、ホスホリパーゼA、ホスホリパーゼBはいずれも熱に安定だとされています。つまり、美恵子さんの汗をかいた手をスズメバチが刺したのであれば、『ハチ毒の三点セット』は美恵子さんの汗の成分や血液の成分と一緒に酷い分解や変性を受けずに指紋とともに残されている可能性は十分にあるということです」

「それはいい! 私も自信を持って鑑識に依頼することができそうです。神尾さん、本当に有難うございました。一所懸命やってみます」

「よろしくお願いします」

 鹿子木は相沢秀樹の撮影した写真をCDにコピーしてもらい、目を輝かせてつくば東署に戻っていった。


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