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1.恒例の梨狩り

 郡頭こおりがしら一族の歴史を支えてきた本家の大きな家と広い庭は長い年月に晒されながらも重厚さを保持し続けていた。

 二〇一三年九月十六日、雨に洗われて一段と鮮やかさを増した緑の絨毯の上に置かれた大きなテーブルの周りに親族が大勢集まり、一日間待たされてようやく開催された、敬老の日の恒例である梨狩りのフィナーレを待っていた。テーブルの上には少し前に収穫したばかりの立派な梨が沢山皿に盛られていた。この時期は幸水の収穫適期は既に終わり、豊水の収穫最盛期を迎えていた。郡頭家四女弘子の夫である矢祭隆が採ってくることになった新品種の梨が揃ったところで、皆がその美味しさを堪能する段取りになっていた。


 珍しく矢祭隆が自分から手を挙げて収穫に向かった新品種の梨が植えてある畑は、勾玉のような形で開かれている畑地の最も奥で、先が狭くなって右に曲がり込んだ所にあった。畑の左側は筑波山の山並みから連なっている杉林がその畑の手前で途切れ、右側はこんもりと盛り上がった地形の上に鬱蒼とした竹林が勢力を拡大中であった。本家の庭からはだいぶ遠回りにはなるが、野菜や果樹の畑に沿って軽トラックがやっと通れるほどの簡易舗装の側道がその新品種の梨畑まで付けられていた。


 皆の期待感は矢祭信行の引きつったような声で一瞬にして吹き飛ばされた。

「大変だ! 父さんがハチに刺された!」

 信行とその傍にいた郡頭家の三男勇三の二人が慌てて梨畑の方に走り出した。信行の弟豊行と郡頭家の三女相沢邦子の長男宗彦もその後に続いた。郡頭家の次女順子の息子吉見壮一は皆とは反対方向に動いて母屋の中に入り、自分のバッグを肩に担ぐと妻に大声で告げた。

「真理子、直ぐに救急車を呼んで!」

 男たちは新品種の梨畑の方向に全速力で走った。


 梨畑に沿った道にそれらしき姿を発見して駆け寄ると、道にうずくまるようにして倒れていた矢祭隆の様子は尋常ではない。

 顔や首筋はもちろん、手や腕も露出している部分は全て腫れ上がっている。手足は痙攣し、ズボンは失禁したようで濡れている。

「隆さん、隆さん、しっかりして!」

 最初に辿り着いた勇三は隆を抱き起し、声を掛けたがまともな返事は返ってこない。


 少し遅れて到着した壮一は、直ぐに隆の手首を握ると脈を診た。心臓の鼓動は強くは感じられず、呼吸もしっかりしているようには見えない。頭や首筋や手には、隆の平手打ちで死んだ数匹のハチが針を突き刺した皮膚にそのままの状態でぶら下がっている。他にもハチの毒針だけが何本か刺さったまま残されている。

壮一は見えた所にある毒針を深く押し込まないように注意しながら自分の爪で弾き飛ばした。さらに、刺された場所を指でつまんで毒液を押し出した。沢山の場所を刺されていたが、目に付いた所の毒を次々に押し出していった。


 それを見た宗彦が口で毒を吸い出そうとした。

「ダメだ! 口で吸い出してはダメです。口の中に傷や虫歯があると宗彦さんに毒が入ってしまう」

 そう言いながらほとんどの刺し傷のある所から毒を押し出すと隆を仰向けに寝かせ、自分のバッグから小さな発泡スチロールの箱を取り出し、しまってあったアドレナリン携帯自己注射キットを大事そうに取り出した。注射キットのカバーキャップを外し、右手で鷲づかみにすると必死の形相で隆のズボンの上から太ももの前外側に突き立てた。強く押し付けたまま数秒間保持した後キットを引き抜き、注射針がきちんと出ていることを確認してようやく一息付いたような表情を見せた。


 そこに相沢宗彦の弟の秀樹が軽トラックを運転してやってきた。

「そのトラックに隆叔父さんを乗せて急いで母屋まで運んで!」

 そう叫んだ壮一はその場を皆に任せ、母屋の方に走り出した。

 残された男たちは矢祭を軽トラックの荷台に寝かせ、勇三は助手席に、他の二人は荷台に飛び乗った。秀樹は狭い農道を少し奥まで走り、やっとのことで車の向きを変えると甲高いエンジン音をさせて母屋に向けて突っ走った。


 本家の庭で心配して待っていた女性たちは壮一の姿を見ると声をかけた。

「隆さんは大丈夫?」

 壮一はそれには答えずに叫んだ。

「番茶をヤカンに入れて持ってきて! 熱くないものをね! それから、大きめの洗面器に氷水を入れてタオルも沢山用意して!」


 そのうち軽トラックが母屋に着いた。荷台に乗っていた二人で隆を車から降ろし、玄関の中の板の間に運び入れ、寝かせて様子を見ているうちにヤカンに入れられた番茶が持って来られた。

 壮一は刺された傷口全てを番茶で洗い流した後タオルでふき取り、その上に自分のバッグから取り出したステロイド系抗ヒスタミン軟膏を塗り、皆に頼んで氷水で冷やしたタオルで刺された所を押さえてもらった。


 しばらく様子を見ていると、隆の状態は気のせいかいくらか回復したように見えた。しかし、それ以上壮一たちには対処する方法の持ち合わせはなかった。

「真理子、救急車は呼んでくれたんだよね」

 壮一は自分の気持ちを紛らわせるように確認した。

「はい、あの後直ぐに連絡しました」

「それで、直ぐ来てくれるって?」

「電話では直ちに駆け付けるって言ってくれましたけど……」

「そうか……、有難う」

 その後彼らにできたのは、ただただ救急車の到着を待つことだけであった。


 街並みからはかなり離れている場所のためか、壮一たちが焦っているからなのか、救急車はなかなか来ないように感じられた。ずいぶんと長い時間を無駄に過ごしてしまったような気がしてきた。脈はほとんど感じられず呼吸もままならない状況で矢祭の容態は酷いままに見えた。

 壮一がもうダメかもしれないと思った時、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

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