プロローグ
前日は早朝から昼頃まで強い雨が降ったため、恒例の梨狩りは順延となった。この日もそれ程強くはないものの昼過ぎまで雨が降り続いた。翌日は平日で、さらに延期するのは難しいと皆思っていたので、辛抱強く待った。その甲斐あって午後からは雨も上がり、時折太陽も顔を見せてくれて、ようやく梨狩りは実施された。
あいにく風はかなり強く、一人で新品種の梨の出来具合を見に来ていた矢祭隆には梢の擦れ合う音が何となく不吉なものに感じられた。
新品種の梨畑には、まだ成熟しきってない樹枝にやや大きめの果実が矢祭の予想を超えて沢山実っていた。皮が張っているように見える果実の底に手を置き、ずっしりと重みがあることを確かめた後、果実を上に押し上げて鋏を使わずに上手にもぎ取ると、大きな口を開けてかぶり付いた。器用に皮だけを吐き出し、果汁が滴り落ちる果肉を頬張った。
「うーん、果肉は緻密で果汁も豊富だし甘味もいい感じだ。こいつは本当に美味い。これなら良いだろう。十個くらい持って行けば皆で味見するには十分だな」
矢祭は勾玉状になっている梨畑の側道の上を、遠目で果実を吟味しながらゆっくりと歩いた。
筑波山とは反対側の竹林の中で何やら音がしたような気がした。矢祭はその方向に目をやったが、風の音が強いだけで特に変わった様子には見えなかったので安堵し、梨の熟れ具合を見ることに集中した。梨畑の先端を見渡せる所まで来るとUターンし、目を付けておいた果実を収穫し、持ち手を左腕に通していた籠の中に入れ始めた。
突然、得体の知れない音とともに、オレンジ色で柔軟に形を変える塊状のものが矢祭の身体を覆ってきた。
「うわっ、何だ、これは!」
矢祭の身体にまとわりつき、仲間を興奮させる毒液を撒き散らす!
頭の上に止まり、強力な顎で頭皮に深く噛み付く!
尻の先の毒針を突き刺し猛毒を注入する!
数えきれない程沢山のスズメバチが一斉に矢祭を襲ってきたのだ!
「あっ、痛てて! 畜生、頭を刺しやがったな!」
スズメバチは激しく興奮しているのか噛み付いたまま何度も刺してくる。間髪を入れず他のスズメバチどもも狂ったように次々と襲ってくる。
視界を遮る程の数のスズメバチが出す羽音は、まるで群れで走る暴走族の排気音のように矢祭の恐怖心を煽ってくる。
「うわー、助けてくれー!」
矢祭は驚きとあまりの痛さに無我夢中でそれらを振り払おうとしたが、その手や腕は何ヶ所も刺された。十数秒間に首筋、顔面、頭部、さらに目までもが数十ヶ所に渡ってやられた。
意味不明な大声を出し、梨を入れた籠をその場に放り出すと、来た道を全速力で走って引き返した。
五十メートルも走ったであろうか、ようやくまとわりついていたハチもいなくなった。安心したのも束の間、今度は刺された所がとんでもなく痛い。尋常な痛さではない。耐えられないくらいの痛さだ。我慢して本家の方向に歩き始めたが、刺された所が炎症を起こして腫れ上がってきた。
喉が詰まったような感じがして胸苦しい。口は渇き、しびれたような感じだ。吐き気がし腹も痛くひどい頭痛や眩暈もする。喉がヒューヒュー鳴り、喘息の発作でも起こったように呼吸するのも苦しい。歩こうと思っても体が思うように動かない。その場にうずくまってしまったが、自分を奮い立たせて何とかポケットからスマホを取り出すと、長男信行の番号をやっとのことで押した。
「はい、信行です。美味しそうな梨は採れた?」
「うぅぅぅ……、ハチ……に……刺されっ………」
矢祭のしわがれ声はそこで終わった。