婚約破棄と人物評価~アラークの場合~
アラーク視点ですので、後味はあまり良くはありません。ご了承の上、お読みください。
『それでは、お元気で。ごきげんよう』
ヘレンからそう言われたとき、ほんの少し、いや胸がずしりとするほどの衝撃を受けた。
「ごきげんよう……か」
ヘレン・リアス・エルランドにとって、俺はその程度の存在だったのか。自分で招いた結末にも関わらず、元の婚約者が去っていく方を見つめて、悲しみにも似た気持ちが沸いてくる。
クルンクルンと内巻きに跳ね返る豊かな髪。
大きく、くりくりとした瞳と小さな身体。
子兎のような外見からは想像もつかない冷静沈着思考を持つ婚約者――いや、元婚約者。
惜しいことをしたかもしれない。
そんな気持ちがじわじわと込み上げてくるが、気付かないフリをして、自分もその場を後にした。
隣国の王女、アリス様とはパシアス公爵家主催の夜会で出会った。ぜひ婚約者も同伴で。との事だったが、折悪く、ヘレンが領地内にある別荘に出掛けていた為、一人での参加となってしまった。
そう、だから王女様――アリスに出会ったのは運命としか言いようが無いのだ。
アリスに出会ったとき、心臓が鷲掴みにされたような気持ちになった。落雷に撃たれたかのような衝撃。生まれて初めての衝動だったが、心引かれるのを止めることは出来なかった。
黄金に輝く、美しい長髪。
キラキラと氷を閉じ込めたかのように光るアイスブルーの瞳。
自分の婚約者であるヘレンとは真逆の存在に、見てはいけない。心奪われてはいけない。と思いつつも抑えきれずに、その視線をチラチラと向けてしまっていた。
「やあ、アラーク殿ではないか」
「あ、こっこれはこれは、リューイ殿」
自分でも気づかぬうちに、人々に囲まれ談笑するアリスを再び凝視していたらしく、少し驚くほどの至近距離から突然声を掛けられた。
リューイ・アルグランド・パシアス
公爵家嫡男でもあり、非常に高貴なお方だったが、同い年だからか、なぜか伯爵家の私を大変気に入っているらしく、度々声をかけて頂いていた。もっとも、城への登城の度に出くわすだけで、他の知人――例えば婚約者のヘレンなどを紹介した事は無いのだったが。
「今日は、君の婚約者は一緒では無いのかい? せっかくお会いできると楽しみにしていたのに」
リューイ殿は、同姓の俺から見てもハッとするほど声やそのお姿が凛々しい。しっとりとした黒髪に濃いブルーの瞳。王家との血の繋がりがこくこくと頷ける大変高貴なお姿だった。その方が、ことのほか会ったこともないはずの俺の婚約者――ヘレンの存在を気にする。それだけ、俺を目にかけてくれているのだろうが、こうも興味を持たれると少し面白くない。
「は、はは。実は婚約者のヘレンは別荘がある領地に管理がてら、保養に行っておりまして……。あそこは、家族仲が大変良いので、毎年家族総出で行っており……」
「なるほど……家族総出で保養に……ねぇ」
リューイ殿は、何が面白かったのか、クスリと笑うと、優しく微笑みながら低めの声をかけてきた。
「では、今宵は婚約者殿には内緒で、美しい花と戯れることが出来ますな」
「んなっ……!!」
なんてことを言い出すのか、このお方は。俺の表情を見て察したのか、リューイ殿はさらに笑みを深くして言葉を続ける。
「今日はわが公爵家主催の夜会。遠方から黄金に輝く、麗しく高貴な蝶も来ておりますね」
「お、黄金の蝶……!」
それは、まさしくアリス王女の事ではないか――。そう思い、ハッと顔をあげると、にこやかに微笑むリューイ殿の瞳とぶつかった。
この人は一体何を考えておられるのか……。
そう疑問に思わなくもなかったが、俺を気に入ってくれているお方だし、夜会でシングルでの参加をする者は、多かれ少なかれハメを外すものだ。少し位、蝶や花と戯れても悪いことなど無いだろう。冷静沈着なヘレンならバレても分かってくれるはずだ。
その時は、本当にそう思っていた。それが、自分自身で取り返しのつかない事態を引き起こしてしまう前章だとは知らずに――
リューイ殿に紹介して頂いたアリス王女は外見と同じように、女性らしく、輝く内面をされているように感じられた。私が話しかけると妖艶に微笑み、ヒラリヒラリとかわされてしまう。私はその微笑みや態度に翻弄されっぱなしだった。ヘレンが、保養中なのを良いことに、王女が出席する舞踏会や夜会に全てシングルで出席した。中には、ひそひそと眉をしかめる輩もいたが、私の頭は完全にアリス王女で一杯だったのだ。
そして、その結果、私はヘレンとの婚約を早々に解消してしまう。
一番早く反応したのは、実の両親だった。
「この! 大うつけがっっ!!」
初めて父上に殴られ、母上からはさめざめと泣かれてしまった。
「これで、わが伯爵家の栄えある未来は消え失せてしまった……」
そう言って、頭を抱える父を見て、なぜだろうと口には出さなかったが、疑問だらけだった。ヘレンの実家は格下の男爵家。こちらから破棄したのだから、多少の外聞の悪さはあるが、そこまで気にする組み合わせでもない。なのに、父上にはそうではないらしい。
「婚約を破棄するだなんて……!」
ああ、そうか。父上は私が独り身を貫くと誤解しているのだろう。で、あれば、不安になるのも頷ける。独り身の貴族が辿るのは、地方都市派遣が主となるからだ。安定した家の力を保持するためには、首都である王城に仕え、少しでも王のお側にいなくてはならない。
「父上、ご心配めされぬよう。私は、隣国の第二王女、アリス王女に求婚しようと思っております」
「なななな、なにっ?!」
「ですから、アリス王女に――」
「アリス王女は、この国の第二王子との婚約話が進んでおるわ!! っっこの、うつけがあ!!」
「―――――はあ?」
何かの間違いだろうと父上に詰め寄ろうとしたが、それきり父も母も弟たちすらも、口を聞いてはくれなくなった。
アリス王女が、この国の第二王子と婚約?
何かの間違いではないだろうか。アリス王女は確かに俺に言ったのだ。『あなたと共に居られたら、とても楽しそうだわ』と――。
俺はいてもたってもいられずに、アリス王女と面会すべく、あらゆるツテやコネを使って、それを実現させた。
「アリス王女!!」
王城の庭園。アリス王女が城に滞在していると知った俺は、俺の乳母の子供であり、城に侍女として勤めている女に金を握らせて、何とか最奥へと忍び込むことに成功していた。
そこへ、一人でふらりと共も連れずにやって来たアリス王女。その、黄金に輝く長い髪を見ただけで、興奮が抑えられず、思わず飛び出してしまっていた。
「……あなた、は……」
「ああ、ああ、麗しのアリス王女……。あなたの事を思うと、夜も眠れず、ついには婚約まで破棄して、ここまでやって来てしまいました……」
「………………」
「ど、どうか、私の手をお取りください。二人でこの国で幸せに暮らしましょう!」
なぜ、アリス王女は返事をしてくれないのだろう? 不安に狩られて顔を覗き込むが、反らされたまま、一向にこちらを見ようとはしない。心なしか青ざめているように見える。
「ア、アリス王女……」「だ、誰かー!! 誰か来ておくれっっ!!」
突然、それまで俯いていた王女が声を張り上げ、周囲に向かって、助けを求め始めた。
「なな、なぜ、アリス……」
「この、狼藉ものが!! 私は第二王子の婚約者! お前などに気安く呼ばれる立場では無いっっ!」
「………………!!」
アイスブルーの瞳が、敵意に満ち溢れて、俺を貫いていた。俺はそのまま王女の叫び声から逃げるようにその場を後にした。
騙された。
辛くも家に帰りついた後で、俺の胸中に渦巻くのはこの言葉だけだった。王女は最初から俺なんか眼中に無かった。ただ、より良い相手を探すべく、その輝く粉を振り撒いていただけ。そんな蝶の舞に踊らされて、みすみす婚約まで破棄してしまうなんて。
「なんと、愚かな…………」
俺は自分の不甲斐なさと悔しさで夜も眠れぬ日々を過ごしていた。
そして、ある結論に至る。
『ヘレンに謝り、もう一度婚約者となる』
そうすれば、今まで通りの日々が送れるし、何より誰も傷付かず、平穏な日々が暮らせるではないか。
俺は、そう思い立つと、急いでエルランド男爵家に手紙をしたためる事にした。
自分の行動が、大きな波紋を呼び、決して戻らぬことなど知らずに――。
どんなに送っても、一向に返事が帰ってこなかった為、俺は直接男爵家へと足を運ぶことにした。格下の男爵家だが、こちらに非があるのは確かなので、一応は出向いて謝るつもりだったのだ。
しかし。
「旦那様も、奥方様もお会いにはなられません」
そう、年配の執事からピシャリと言われると、門前払いされたのだった。これは、通常ではあり得ない無礼さだ。手紙の返事を寄越さないばかりか、面会に来た格上の相手を追い返すなんて。俺は痺れを切らすと、王城にて騎士として仕えている二人の兄達を捕まえる事にした。
「エレン! ドレン! 」
王城内の騎士達が訓練する鍛練場。
二人を探しだした俺の呼び掛けに、ピクリと肩を震わせて、振り返るヘレンの兄達。二人とも近衛騎士として、将来を期待されている立場ではあったが、やはりここは階級がものを言う社会。両親達とは違って、話を聞く気はあるらしい。
「お前達に話があったのだ! ヘレンとの婚約の事なのだが――」
『ブンッッ』唸るような音がする風。そんな突風のような風が勢い良く頬を撫でていく。
「…………?!」
最初は訳もわからず、ただ驚いていたのだが、どうやら、この風は目の前の兄――一番上の兄エレンが拳を奮った音らしい。
「な、なななな……!」
まさか、この俺に向かって拳を奮うとは。その傍若無人さに呆れて言葉も出ない。すると、そんな兄の様子をたしなめるためか、二番目の兄、ドレンがエレンの肩をポンと叩いた。
「兄さん…………。手加減してわざと外しちゃ駄目だよ。ちゃんと当てないと……ね?」
「?!」
たしなめると思っていた下の兄の方が、より一層苛烈だということが判明した。
「…………アラーク・ヤード・サミエル。俺はお前を絶対に許さない。俺たちの可愛い、可愛いヘレンを傷つけやがって……。今は俺たちの両親やお前の両親から頭を下げられているから、堪えてやるが……。今度、俺たちの前でヘレンの名を口にしたら」
「「絶対に許さないからな」」
二人の息も声もばっちり重なっていた。そういえば、ヘレンが良く笑って言っていたな。
うちの父と兄達はそっくりなのだと――
両親からは見放され、弟からは冷めた軽蔑に満ちた目で見られる。夜会では、アリス王女に会うのが恐ろしくて行けない。男爵家に行っても、取り合ってはもらえず、二人の兄達からは殴られそうになった。
俺の人生は、なぜこんなことになってしまったのか。考えても考えても、結論が出ず、解決策も見いだせず、焦るばかりの毎日だった。
そして、そんな屋敷に籠るばかりの日々が半年ほどたった頃――。
俺は驚愕の事実を耳にすることになった。
「兄上、ヘレン様が婚約されたそうですよ」
「………………な、なに?!」
珍しく、俺の居室へとやって来た弟は、何の感情もこもらない声でそう告げてきた。
「ですから、ヘレン・リアス・エルランド様がご婚約されたのです」
「そ、そんなっっ」
何かの間違いではないだろうか。たったの半年で新たな婚約者が現れるだなんて。
「あ、相手は相手は一体、どこのどいつだ?!」
どうせ、身分の低い冴えない奴だろう。ただでさえ一度は婚約を破棄されている男爵令嬢なのだ。素晴らしい相手から見初められるとは考えづらい。もしや、後妻として、再婚相手に選ばれたんじゃ――
「リューイ様です」
「…………は?」
自分の考えに耽っていた俺は、弟の言葉がうまく飲み込めなかった。そんな俺を見下ろしながら、弟は愉快そうに顔を歪めた。
「ですから、公爵家嫡男であられるリューイ・アルグランド・パシアス様です――ああ、確か兄上のご友人なんでしたっけ?」
「……くっ。う、嘘だ!!」
「嘘ではありません。ああ、そうそう。ちなみにこのご婚約が発表されたことにより、正式に私が伯爵家を継ぐことになりました」
「な、なにっ?」
「だって――。それはそうでしょう? 公爵家のご婚約者様に無礼を働いた者を嫡男と認めるわけにはいかないのですよ……。そんな事をしたら、わが伯爵家は社交界から爪弾きにされてしまいます」
「くっ…………」
「この件は、既に父上から国王様へと上奏されておりますので。兄上は領地にでも行って骨休めしてきたらいかがですか……?」
「………………」
田舎に引っ込んで、顔を見せるな。
実の弟からそこまで言われてしまう自分の立場が悲しく、また悔しく、俺は何も言えずに顔を伏せ続けるしかなかった。
「は、ははははは……」
弟が出ていったきり、ガランとしたままの室内に俺の乾いた笑い声が響き渡る。
リューイ・アルグランド・パシアス
お前は一体いつからヘレンを狙っていたのだ? アリス王女に俺の気持ちが向かうように仕向けたのもお前か…………。
今さら気付いてもどうにもならない事だった。気に入られていると思っていたのは、俺ではなくヘレンだったとは。
暗くなった夜空を見上げて、空っぽの心の中に見えるのは、黒髪で小柄の少女の姿だけだった。
俺がもっとヘレンを大事にしていれば良かったのか――。リューイを恨んでも、結局は自分のしでかしたことが原因なのだと思い知らされる。
身近に居すぎて気が付かなかったのだ。
誰よりも愛しく必要な存在が側にあったことに。
俺は窓を少し開けると、彼女の姿を思い浮かべ、夜空に声を溶かした。
「ヘレン――どうか、幸せに」
願わくば、子兎のような少女が誰よりも幸せになることを願おう。