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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

短編小説

童話『レーヴ草原のギニョール』

 ある日、大きな地震があって、レーヴと呼ばれている広い草原の地面が長く縦に割れた。

 そして、その中、地の底から少年が一人、這い上がって来た。その少年は体中に痣や膿んだ生傷がたくさんあり、右眼は潰れ、右の足首の骨が折れて内側に曲がっていた。少年は草原に上がり、苦痛に顔を歪めてうずくまった。その少年の名前はギニョールといった。

 レーヴ草原の陽射しはギニョールの残った眼を潰そうと、眩しく輝いている。ギニョールは体を低くして、臆病に草原を横切った。切り立った崖の方、大きな岩のある所までびくびくしながら、足を引き摺って進んだ。誰かが殴ってきやしないか心配だった。でも、誰もギニョールのことを殴らなかった。

 ギニョールは大きな岩に隠れるようにして辺りを窺った。辺りには誰もいなかった。

 暫くして陽が落ちてくると、蚊喰い鳥が草原の上を群れになって通り過ぎて行った。そして星が空に溶けてくる頃、また同じように通り過ぎた。

 ギニョールは大きな岩の陰から、草原を見ていた。昼も夜も。辺りには誰もいなかったから誰もギニョールを殴らなかった。辺りには、ただ、草の青い匂いがしていた。ただ、静かだった。


 それから幾日かが経った。東から吹く風が緑の草とギニョールを優しく撫でていた。

 そこへ子供達が何人かやって来て、草原を駆け回った。ギニョールは殴られるのが怖くて、岩の陰にうずくまった。

 子供達はバッタを捕まえている。追い駆け回されたバッタは、薄い翅をハタハタとさせ、きらきらと短く飛んだ。

 そのうちに一人の子供が大きな岩の所まで来た。そして屈み込んでいるギニョールに気付いた。子供はギニョールの姿を見て大声を上げて逃げた。それに釣られて他の子供達も草原からいなくなった。

 子供達がいなくなった後、一匹のバッタがギニョールの折れた足首に飛び乗って来た。ギニョールは子供達の真似をして緑色のバッタを捕まえた。バッタがギニョールの手の中で逃げようともがいた。だからギニョールは、それを強く握った。するとバッタは、ぐちゃりと潰れた。緑色の汁がギニョールの掌にべったりと付いた。その途端、ギニョールの頭の中に色の無い光が閃いた。そして胸がすっとして、つかえていたものが取れたように気分が良くなった。

 ギニョールはバッタを捕まえた。捕まえては潰した。緑色の血やもがれた足が付いた掌を見てギニョールは喜んだ。そしてバッタを口に入れ、食べた。

 その日からギニョールは毎日、バッタを殺した。バッタだけではなくて、掌に捕まえた時、動いているものなら何でも殺した。トカゲも殺した。蛇も殺した。握っても腸が出るだけ。それでは満足出来なくて頭を噛みちぎった。ギニョールの口元は赤く濡れた。血の味を確かめた。ギニョールは自分が強くなったと感じた。もっとたくさん殺せば、もっと強くなると思った。


 また暫く経った日、レーヴ草原に子供達が来た。皆が手に棒切れを持っている。一人の子供は子犬を繋いでいた紐を解いて放した。子犬は自由を得て、草の上を駆けずり、転げ回った。

「そっちじゃない! 岩に隠れてる化け物をやるんだ!」子供達の声がレーヴ草原に響いた。

 それを覗いていたギニョールは苛立ちを覚えた。そして思った。

(あの弱そうな動物は、どうしてあんなに楽しそうなのだろう。どうして僕が岩陰に隠れていて、あの動物が楽しそうに駆けているのか)

 子犬が大きな岩に近付いて来た時、ギニョールは、ためらうことなく、それを殺した。ギニョールは子犬の腹を引き裂いた。

 飛び散った血で赤く染まった体をギニョールが岩陰から覗かせると、子供達の悲鳴が夢のように辺りを満たした。


 次の日、大きな人間の男達が、猟銃や斧を手にレーヴ草原へやって来た。五人いる。ギニョールは恐怖に駈られた。人間達が自分を殺しに来たのだと思った。そして、その考えは当たっていた。

 人間は、牙の鋭い、大きな黒い猟犬をけしかけた。猟犬のうなり声がギニョールに近付いて来る。その数は七匹だった。

 猟犬は一斉に岩陰に飛び込んだ。そしてギニョールの腕や曲がった足に噛みついた。ギニョールの体から血が流れてゆく。ギニョールは、肉を剥ごうとする七匹の猟犬を必死になって払い除けようとした。そして、猟犬の頭を掴んだ。すると、その頭は、まるでトマトのように簡単に潰れた。ギニョールは同じようにして、七匹の猟犬の頭を潰した。

 大きな岩の陰から猟犬のうなり声は消えた。人間達は、ギニョールの方へ向けて猟銃を撃った。だんだんと近付いて来る。だんだんと草を踏む音が近付いて来る。

(……殺される)ギニョールは、そう思った。

 その瞬間、恐怖を握り潰すほどの怒りが湧き上がった。ギニョールは、岩陰から踊り出て、人間に襲い掛かった。何も見えていない。何も聞こえていない。何も考えられなかった。ただ、人間を追い、捕まえると当然のように殺した。体には猟銃の弾が幾度も掠ったがギニョールは止まらなかった。四人は殺した。一番遠く離れていた人間は一人で逃げた。

 ギニョールは大声で叫んだ。その声は、化け物のように恐ろしく歪んでいた。ギニョールは狂喜していた。体の中が湧き立つような昂奮を覚えて、気が付くと駆け出していた。流れて行く景色が渦巻き、逆立って、よろめきながら走るギニョールを追い越して行く。レーヴ草原を出て、ギニョールは、逃げた人間を追っていた。

 やがて人間の集落に着いた。足を止めたギニョールの心は漆黒の玉のように固まっていた。人間は、血まみれのギニョールの姿を怖れ、逃げ惑い、扉を固く閉ざした。

 ギニョールは、毛を逆立てた猫を殺した。吠え立てる犬を殺した。樹々に休んでいた鳥達は彼方へ逃げ去った。

 次にギニョールは、家々の扉を破った。そして大人を殺した。それから子供を殺した。泣き叫ぶ者、ナイフや銃を持って向かって来る者、皆、全て殺した。

 やがて、辺りに動くものは無くなった。誰もいなくなった。ギニョールは、そのことに不満を覚えた。殺し足りないと思った。けれど、凄く強くなったと思った。ギニョールは、どんなに強そうな人間でもバッタと同じように簡単に殺せた。ギニョールは、ここでは圧倒的に強かった。


 それからギニョールは、レーヴ草原に戻った。他には行く所がなかったから。

 もう日が暮れて、草は暗緑色に沈み、波打ち、レーヴ草原は黒い湖のようだった。ギニョールが大きな岩に寄り掛かると、その表面には血の跡がべったりと付いた。ギニョールは真っ赤だった。血で、体が。ギニョールは、そのまま眠った。

(こんなに安心して眠りに着いたのは生まれて初めてだ)ぼんやりと、そう思った。


 それから数時間が経った。レーヴ草原に脳を震わせるような、心臓が掴まれるような呼び声が響いた。ギニョールが目を覚ますとレーヴ草原はまだ真夜中だった。しかし、夜空を見上げると、そこに太陽があるのを見た。辺りは暗いのに、空には光り輝く太陽があった。

 ギニョールが濁った左眼で見詰めていると、太陽は次第に閉じていった。空気は、虹の粒が降ったよう彩られたが、すぐに黒くなった。空と草原には暗闇が残った。

 やけに静かだ。自分の呼吸と心臓の音だけが聞こえてくる。草の擦れる音、虫の鳴く声は消えていた。その時、ギニョールの頭の中に声がした。そして、目の前には一人の少女が立っていた。少女は真っ白な服を着ていた。身体は細く、とても弱そうだった。ギニョールは少女の首を絞めた。少女は、ぴくりとも動かず、ギニョールにされるままになっている。一瞬、ギニョールは不思議に思った。今までは殺そうとすれば誰でも逃げ、捕まえれば誰でも、もがいたから。しかし、そんなことはすぐに忘れた。

 ギニョールが首を強く絞めると少女の首は音を立てて折れた。少女は口唇から血を流して倒れた。そして、空気のようになって消えた。ギニョールに苛立ちと不安が取り憑き、さっきまでのようには眠れなくなった。


 やがて、朝が来た。緑の光がレーヴ草原を波のように漂っていた。太陽が昇り、輝き、ギニョールの眼を灼こうとしていた。ギニョールは、自分のことを弱いものだと感じた。そして何か殺すものを探した。辺りに殺せるものは無かった。草や岩は逃げなかったが、殺せなかった。ギニョールは、もっと遠くの集落に行ってみようと思った。

 しかし、再び、頭の中に呼ぶ声がした。レーヴ草原の真ん中に昨夜の少女が立っていた。ギニョールは悪い足を引き摺りながら駆け寄った。少女は決して逃げようとはしなかった。

 ギニョールは少女の細い首を両手で掴み、絞めた。そして鋭い爪で右眼を突いた後、その首を掻き切った。少女は息絶え、消えた。ギニョールに掛かった赤い血だけを残して。


 次の日も、また次の日も、毎日、レーヴ草原に少女は現れた。その度にギニョールは少女を殺した。しかし、少女は本当には死んでいないようだった。再び現れては息絶え、消える。

 そんな毎日が続いた。永遠に続くかのように思われた。ギニョールは、もう虫や動物、人間を殺さなかった。ただ、バッタだけは食べた。その他には少女の首を絞めることだけが日々に課せられていた。

 何故、少女は死なないのか。ギニョールは、その少女を殺せた時、本当に自分が、本当に強いのだと思えるような気がしていた。


 少女が現れるのは本当に毎日だった。草原に陽炎の涌く暑い日。張り付くほど渇いた喉を潤す血をギニョールに与えた。緑を失った草原が雪の白に覆われ、刺すような光が乱反射する寒い日。束の間の熱をギニョールに与えた。風雨が、紅葉した草葉とギニョールの神経を削る日。その苛立ちを黙って受け入れた。ギニョールは大きな岩が苔に覆われるほどの長い間、数え切れないほど少女を殺して来た。しかし、不安や怒りは消えることがなかった。


 いつもと同じある日。それは輝く日。初めてレーヴ草原に来た時と同じ風の匂い、空の色、土の温度、目玉が潰れるような陽の光。少女は立っていた。ギニョールが這い上がって来た地の裂け目に。

 ギニョールは遥か昔を思い出していた。暗く恐怖に満ちた地の底から逃げ出して来た日のことを。

(痛い、苦しい、怖い、僕の感情は、それしか無かった……今、僕は何が痛い? 何が苦しい? 何が怖い?)

 まるで時が戻ったかのような光景。少女はギニョールのようにそこにいた。

 ギニョールは少女に近付いた。緑の草が足下でさやさやと鳴っている。景色は揺れた。まるで夢の中にいるように。手と足、指先が微かに震えている。心臓を打つ音が小さな動物のように早い。

 ギニョールは少女の前に立った。そして、いつものように少女の首に手を掛けた。節くれ立った指が少女の白い首にめり込んでゆく。ふと、ギニョールは思った。

(この少女は生きていないのじゃないか)

 ギニョールが力を込めた両手を少し緩めると、少女の首の動脈が、とくんとくんと温かく脈打っていることに初めて気が付いた。

(今までも、こうして脈を打っていたのだろうか。多分、そうだろう。この少女は生きている)

 ギニョールの手の中から緑色の液が溢れ出して少女の首を伝った。その色は次第に赤く変わり、少女の白い服を真っ赤に染めた。ギニョールは、もう一度、気が付いた。これは、自分が殺して来たものの血だと。

 血は少女の服の裾から地面に滴り落ち、足下の草を枯らした。血は止め処無く流れた。

 少女の首を掴むギニョールの手は更に緩くなり、そのまま、だらりと腕ごと垂れた。すると、少女が少し微笑んだように見えた。

 ギニョールは知った。この少女は強く、その強さとは死なないことなのでは無く、痛みや苦しみ、そして、死ぬことを怖れていないことなのだと。ギニョールが与えられ、抱えた怒りは、この少女に移り続け、全て止まっている。

 力無く、草の上に膝を着いたギニョールは、自分を酷く弱く感じた。今までに無いほど弱く感じた。

(僕は自分が扱われたように皆を扱った……同じことをたくさんしてきた……でも僕は生きていて……皆は死んだ……僕は怨みを晴らそうとしていたけど、皆の僕に対する怨みの方が、よほど大きく深いだろう……僕は、きっと地の底に戻される……)

 その時、少女が、うずくまるギニョールをそっと抱き締めた。ギニョールは自分でも気が付かないうちに涙を流していた。霞んだ左眼と潰れた右眼から。

 その涙は草の葉に弾かれ、地の裂け目の中に吸い込まれて行った。そして、その隙間をいっぱいに満たした。それは、溢れ出し、やがて川のように流れ出した。陽を浴びて金の魚と銀の魚が跳ねた。少女の優しく降る声が呼ぶ。いつものように。

 緑に光るレーヴ草原は、あの日のように静か。短く飛んだバッタの薄い翅が陽光にきらめいている。もう怖いことは、何処にも無かった。



          《了》


 

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