ドッペルゲンガーと??? ①
トントントン、グツグツグツと、包丁が食材を刻む音、そして鍋の中身が煮えていく音が厨房でこだまする。
時刻は、まだ朝の5時を回っていない。
そんな時間から、翔太は厨房で仕込みを始めていた。
食材の量は、普段の営業時と同等、いやそれ以上とも思えるような量が冷蔵庫と倉庫にしまわれている。
翔太の仕込み始める時間は徐々にだが早まってきてはいた。
もともと閑古鳥が鳴いていた頃であれば7時台でも余裕だったのだ。
だが、ホットドッグの一件以降は徐々にだが仕込む時間が早くなり、今では5時からランチの仕込みをするようにはなっていた。
今日に至っては3時台に起床、シャワーを済ませ、厨房に入ったのは4時。
朝のニュースすら始まってはいない時間から翔太はフルスピードで動いていた。
「よし……」
翔太は一度気合を入れなおすと、普段のスピードよりはやく肉と野菜を刻んでいく。
今の彼を見れば、普段の少々ヘタレで弱気な彼を髣髴とさせる人は少ないだろう。それほどに鬼気迫る顔で作業を行っていた。
量で見れば二人前の肉野菜炒めに相当する野菜と肉を切ったところで翔太の動きは一度止まった後、時計に顔を向ける。
(普段のスピードより数秒縮まっている)
その速さに嬉しさを感じながらも、切った後の食材を細かく見てみて翔太は大きくため息を吐いた。
「だめかー……」
よく見ればわかるという範囲ではあるが、食材の切り幅がまちまちなのだ。肉も少し切断面が潰れている。
もはや数年間というレベルで、染み付いた自分の作業速度。
それを崩せばどうなるのか。その結果がこれである。
もちろんではあるが、料理によってはそのまちまちの切り幅を要求するものもある。
だが、例えば蕎麦のようなものであれば、この僅かな差は火の通る時間に直結し、食感、喉越しという『味』を変化させてしまうのが典型的な例で、基本的には幅などはそろっていたほうが良いのだ。
料理はスピードと丁寧さが必要とされるものである。
丁寧であればいくら時間をかけていいというものではない、鮨を握るのに10分もかかったようなものでは、魚の風味も味も台無しだ。
一方で、早ければいいというものでもない。
一つ一つの作業にそのバランスが存在し、それは各料理人の技量によって変化する。
故に、自分の実力、そして作業のバランスを顧みない今回の作業でこうなるのは当然の事といえた。
(ここだけ早くなってもダメなんだよなぁ……)
仕込みが早くなったとしても、実のところ今翔太、いや夢味亭が抱えている問題からすれば改善には程遠い状態である。
一つ一つの作業時間をほんの僅かに短縮することが出来たとしても、そんなものでは到底追いつかない問題なのだから。
(この前はシェルネアさんに迷惑かけたしな……)
先週のことを思い出した結果、思わず頭を掻いてしまい、慌てて毛髪が落ちてないか確認した後、手を洗いなおす。
翔太にとって先週の失態は屈辱である一方で、それはなんとか改善したいと思っている。
だが、その策が思いつかないのだ。自分にできることなんてのは限られている。
この前の琉華の一件のような自分の判断だけで決めれることであれば翔太は悩まなかっただろう。
同様の手で解決することができる。
だが、今回の場合は単純にそういう手を使うわけには行かないのが現状である。
「フィーナさんに頼むしかないんだよなぁ」
今回問題が発生しているのは、異世界サイドでの問題だ。
先週の失態は彼女ももちろんだが知っている。だが彼女がどこまでこの問題を深刻に考えているかはわからなかった。
というより、とてもではないが先週の営業後にそんな話題をする余裕がなかったのが原因だ。
この辺で彼女とのコミュニケーション不足が露呈していた。
次の休日の月曜日、ほぼずっと寝ていた翔太にも問題があるだろうが。
「とりあえずは、料理を出せませんってのだけは避けないとな……」
自分が料理人としても店を営む人間としてまだまだ未熟であることを実感しながら、仕込みを再開する。
失敗してしまった肉野菜炒めの食材は、朝のまかないにでも回すことに決めた翔太はフィーナが来る9時までに一通りの準備を済ませることを目標に作業を始めていくのであった。
「で……どうひたんふぇすか」
「食べ終わってからで大丈夫ですから、落ち着いてください」
本当にこの人は女神なのだろうかと思うような食べながら話すという行為を翔太は注意する。
実際のところ、フィーナは豊穣を司る女神ではあるが、いわゆるかしこまった作法的なものはないのである。
その手の行為は、他の神の『秩序と正義』を司る神や『知恵と平穏』を司る神の担当するところである。
どちらかといえば、「飲めや騒げや」を地で行く無礼講の祭りスタイルのほうが彼女の担当である。
また、豊穣ということで温厚的なイメージが有るかも知れないが、自然を相手にする神であるため、どちらかと言えば猛々しき方にカテゴライズされる。
農業だけではなく、いわゆる狩猟もそこには入っているためだ。
故に、弓などを扱うものの中には『力と勇気』を司る武神よりフィーナを信仰するものがいたりする。
一応、地球の女性として振る舞うならばといったレベルの作法はフィーナとしても身に付けているがこういったところでぼろが出るのである。
「先週の一件、フィーナさんはどうお考えでしょうか?」
「そのことでしたか……」
フィーナとしても、あの一件は悩ましいところではある。実際神ではなく人の姿を使っていたことも有り、あの日の後はしばらく何もしたくないと思うレベルには疲労していたのである。
「僕なりにいろいろと考えてはみたんですが」
「というと?」
「ただどれも問題があって……一番簡単かなと思うのは僕の他に料理ができる人間を新たに入れることです」
翔太としても信頼できる料理人に宛てがないわけではない。かつて勤めていたホテルなどの同期や後輩の人間を頼るなど手は有った。
だが翔太の言葉に、フィーナは顔をしかめる。
「……それは、難しいかもしれませんね」
「どうしてです?」
「色々理由はありますが、私は『深山翔太』という存在を信頼して私達の世界へ招いています。別の人間をとなると……」
「あー……」
フィーナの苦言に翔太も思わず頷いてしまう。
見ず知らずの人間を入れるという案を真っ向からフィーナに否定されてしまってはこの一件に巻き込むのは難しくなってしまった。
それに彼女が言うことは尤もだ。
翔太としても、現在夢味亭で働いているスタッフである琉華には異世界での営業に関しては全く話していない。信じてもらえないというのもあるかもしれないが、巻き込むことに対する抵抗もあったためである。
さらに言えば、フィーナが琉華を気に入るかどうかは別ということも有ったためである。
さて。フィーナが言わなかった別の理由としては、これ以上フィーナの直接的な手による世界の関り合いを生み出すことに抵抗があるためだ。
もともと、この世界と異世界【レクシール】は【レクシール】の神たちが研修として訪れている時点で、他の世界より関り合いが濃いのである。
そのため、事故死など突発的な出来事において、いわゆる【レクシール】への魂だけの移動による『異世界転生』であったり、肉体ごと移動してしまう『異世界転移』というべき現象が起こりやすいのが現状だ。
地球サイドとしては、『異世界への転移や転生』というような問題はあまり好ましくないはずなのだが、今のところは黙認されている。
翔太に話していないことでは、異世界【レクシール】に転移、転生した人間はまだまだ少ないが零ではない。
だが、これは神が直接的に関与したことではないため、そこまでは問題はないと認識されているとフィーナサイドとしては思っている。
だが、夢味亭の一件は、フィーナが直接的に動いている一件だ。下手をすれば、地球サイドの神がこの行為を侵略行為と捉えてきても仕方ないのである。
故に、これ以上のフィーナの直接的な行為により世界間を狭めることは避けなければならなかった。
また、翔太は行っていないので問題にもしていなかったが、『夢味亭』が異世界での営業を行っているなどいうことを漏らされてもフィーナとしては困ることになっていただろう。
「やはり、厳しいですか……」
翔太としても否定される可能性を考えていなかったわけではない。
だが、明言されてしまうとやはり当てが外れてしまったところがあるのだ。
「しかし、それほどなのですか? 翔太さんならきっと大丈夫ですよ」
「……かなり厳しいです」
フィーナの慰めに翔太は実情を漏らす。
翔太とて、大人数の客を相手にしたことは幾度も有りそれに関しては問題はないはずだった。
だが、それはいわゆる予約やコースメニューといった事前の対策があるものだから行えていたものであり、その策が今の夢味亭での営業では通じないのだ。
「じゃあ、【レクシール】の方を雇うってのはダメですか?」
翔太はとっさに思いついた案を第二案として提案する。
「それならば、問題はありません。ですが、私の命で動いてもらうよりはメディスさんやシェルネアさんに動いてもらうべきでしょうね」
第一の案は退けられたが、なんとか第二案は通ったことに安堵する翔太。
しかし、問題が解決したわけではない。先延ばしにしたにしか過ぎないのである。
翔太は早く提案し、なんとか問題を早期解決したいと思っている。
今のところ、メディスもシェルネアも来なかった日はない。というかここ最近は早いうちに訪れることが多い二人だ。
彼女たちが訪れるのを待ちながら、翔太とフィーナはまかないを片付けた後、営業の準備を始めていくのであった。




