借金取りとロースカツ ②
「おい、翔太。これどう言うつもりだ」
いつものように『翔ちゃん』と言わずに名前を呼んだ真田の声は明らかに怒りの様子を呈しているものだった。
以前の彼ならば絶対にしないことを今回はやってきたのだ。
父の跡を継ぐといった男が、いきなりぶっ潰してきたのだから真田としても怒りがこみ上げてくる。
「ソースがかかってねぇじゃねえか!」
まるで子供のような内容の真田の怒声。
だが、夢味亭のロースカツとは、すでにソースがかかってきた状態で出てくるのである。
足りない場合はテーブルの備え付けのソースを自分でかけて食べるというのがこの店のスタイルである。
そして、今まで翔太もそうして出してきた。
それが今回に限って、あれだけの大見得を切った上でこれだから真田の怒りは翔太にもわかるものでは有った。
「ソースは後がけです」
と言って、翔太は陶器で出来た小さな容器をコトンとロースカツが乗った皿の横においた。
真田はそれを見る。
――確かに、いつものカツで使われているソースだ。
色合いや匂いから推測するにそれは間違っていないはずだった。
だが、どうして後でかけるなんて方法を……?
翔太の意図は真田にはわからなかった。
ステーキソースなどは、肉が冷めるからとかいう理由で食べる直前にかけるなんて事を聞くがそのためか?
「よろしければ、最初はソースを使わずに食べてみてください」
翔太の言葉に更に驚く真田。
そうか、今までの夢味亭の味を完全に潰して独自の味を追求したのか。
真田はようやく理解した。
このロースカツは色んな意味での翔太の父親からの独立を意味しているのだと。
それはそれで面白いじゃないか。
翔太の腕は買っている。若干辺鄙な場所の夢味亭の場所はともかく、店住まいや内装などを変えれば十分に勝負できる。
真田は嬉しくなった。そういう手があったかと。確かに店を売らずに済む方法だ。
もちろんこれで真田が納得すればであるが。
真田は備え付けの箸を持ち、端から2番目の切られたロースカツを持ち上げる。
金色の衣に守られたその中の肉は、真っ白に染め上げられている。
ソースがかかっていない関係で、その断面をじっくりと見ることができる。
――綺麗だ。
食べ物に綺麗などという言葉が適しているのかは分からないが、真田は少なくともそんな陳腐な言葉しか思い浮かばなかった。
見ていても状況が変わるわけではない。
真田はついに意を決してロースカツを口の中へと送り込んだ。
サクッとパリパリに仕立てられた衣の食感が最初に伝わり、その次に衣の味が伝わってくる。
更に肉の脂とその旨味がなだれ込む。衣によって保護された旨味達は真田の口の中で融解していく。
――衣の味!?
口の中でゆっくりと咀嚼しながら、肉、そしてパン粉で出来た衣の味を堪能する。
「間違いねぇ……夢味亭の――おやじのカツだ」
真田は口の中のカツが完全に喉を通るまで何度も何度も噛んでその味を確かめそうつぶやいた。
そう、真田が若い頃食べていた夢味亭のロースカツは衣に味がついていたのである。
どういう理由や理屈で味が付いているのかは真田も知らないし、それはどうでもいいことである。
皿の端にこぼれた衣の残骸ですら、ご飯のお供になる。
それが自分が食べていた懐かしのロースカツ。
――そうか、翔太のやつ。これが狙いか。
真田は最初に思っていたことが間違っていたことにようやく気がついた。
翔太は親父さんの味を捨てたわけではなかった。自分の父の味を再現した上で更にそれを魅了させる形をとっただけにすぎないのだ。
パリパリの味がついた衣を堪能させるがために。
真田はソースの器を手に取る。
そして慎重にソースをロースカツへと流していく。それは中央部分に太い線を一本引くかのように。
そう、ソースと衣、そして肉を味わうにはこの形こそベストなのだ。
そして一切れが欠けた形にはなるが、そこには昔ながらの夢味亭のロースカツが復活する。
今度は中央の一番大きいところを持ち上げる。
金と白、そして黒がそこには加わる。その魅惑の景色を見ているなど一瞬だけのことで、すぐに口が動いていた。
今度は濃厚なソースが最初に来る。
だが、それに負けない形で肉の味が伝わってくる。そしてソースの味を逃れたところから衣の食感と味が伝わってくるのだ。三種三様の味が口の中で交錯していく。
――足りねぇ。
そう、この組み合わせにはなくはならないものがある。
「おい!翔太!!」
「は、はい!」
再びの真田の大声に今度は驚く翔太。
怒られると思ったのだろう、直立不動のまま動かない。
「なにやってやがる、飯だ。飯持って来い!!今すぐだ!」
「わ、わかりました!」
翔太は慌てて奥へ戻っていく。真田はこのほんの僅かな間でさえ待つのが辛い。
慌てて翔太が戻ってくる。
「お待たせいたしました!」
そこには、丼の中にいっぱいに盛られた白い飯。
そう、これがなければいけない。
そして、真田はついに翔太が今まで作ってたロースカツで初めてご飯とともに食べることになる。
――そうだ。これだよ。
自分が若いころ、バイトの給料日の時だけ食べていた夢味亭のロースカツ。
懐かしさと嬉しさが真田の普段は鉄面皮とまで言われる硬い表情すら緩めさせていく。
ご飯を左手に持ち、箸で掴んだカツを一旦ご飯の上に乗っける。
カツにご飯、ご飯の上に衣の一部とソースがついたのを確認して、カツを食べ始める。
ご飯粒がちょうどいいアクセントになって三重奏は更に複雑な味の四重奏となる。
口の中のカツがなくなる前に、ご飯を。
四重奏だった宴も徐々にご飯という存在によって消えていく。だがそれでいい。またこの宴を堪能することができる。
忘れてはいけない。合間にキャベツを頬張る。
ご飯とはまた違うシャキシャキとしたみずみずしさによって、口の中がリセットされる。
後半は、キャベツにもソースを掛け、さらにソースの味を堪能する。
真田の手、そして口はロースカツを食べることだけに費やされ続けた。
気がつけば、ロースカツが乗っていた皿にはもはや何もない。キャベツ一切れすら。
あれほど多かったご飯も一粒ぐらいが残っているだけだった。
――若いころは二杯は余裕だったんだがな。
真田は昔を思い出す。
先代の親父さんが、真田の食いっぷりを見て、いつもご飯がなくなる前に二杯目を持ってきてくれていた。
その懐かしき思い出を。
「うまかった。これは比喩や嘘じゃねぇ、本当のことだ」
真田は認めるしかなかった。翔太は親父をロースカツにおいては並んだ、いや演出を考えれば超えたかもしれない。
「翔ちゃん。何があった?」
一ヶ月でここまで変わるものなのか。
あの苦悩し続けて暗い顔を見せ続けていた翔太の顔はない。その変化の理由を聞きたかった。
「――そうですね。神様がチャンスをくれたんですよ」
「神様だぁ?」
「ええ、神様です。その人が『美味しかった』って満面の笑みで僕の料理を褒めてくれたんですよ」
「そりゃあ、いい夢を見れたな」
「夢……。そうかもしれませんね。でも僕はその夢のお陰で何かが見えた気がします。親父の影のほんの一部かもしれませんが」
翔太の言葉を信じられない真田は、夢だと判断した。
そりゃあそうだろう、普通の人間が信じられるような話ではない。
「だが、その夢でお前が一皮むけたっていうならそれはいい話だ。――っと。金を払うわ」
そして、真田は翔太にロースカツ代を支払う。
「いや……真田さん?これは」
翔太はきょとんとする。翔太が受け取ったのは先ほどの封筒の中から抜かれた1万円札の1枚。
「ああ、お釣り持ってきますね」
「違うわ。釣りはいらねぇよ」
「そういうわけには」
1万円など受け取るわけにはいけないと拒否する翔太。
「馬鹿野郎。借金まみれの身で何を生意気なこと言ってやがる。受け取っとけ。俺からの気持ちだ」
「真田さん――。」
「てめぇ、そんな顔してる余裕が有るんなら、さっさと借金返しやがれ!!!!」
真田の大声に、翔太は再び直立不動のまま固まってしまった。
店を出た真田は、ふと上を見る。
不思議な形の雲がいくつも浮かんだ青空がそこにある。
しばらく上を見続けていて、そういえばタバコを吸い忘れてたな。と胸ポケットに入れてたタバコを取り出す。
そして店の中で吸おうとして思いとどまった一本を口に咥える。
ライターで火をつけ、一息。
紫煙が空へと消えていく。
――何時からだろうな。
――食べ終わった後にタバコを吸い出したのは。
――飯を食べるのがただの栄養補給の一環と化して楽しくなくなったのは。
そんなことを真田は考えていた。
借金取りの仕事は忙しい。
金に困った奴というのは何をしでかすかわからないから、ゆっくりしている合間など殆ど無い。
睡眠時間も削り、飯の時間だって削ってきた。
栄養ドリンクと菓子パンなどと、とにかく早く済むものばかり食ってきていた。
そんな自分が、実際の時間としては一瞬だったかもしれないが。あの瞬間だけは自分の中でゆっくりとしていた時間だったのだ。
――案外早く返せるかもしれねぇなぁ。
真田は、そう考えていた。
まだ黒字には程遠いかもしれない。だが、何故かあいつが借金を返し切る瞬間が目に浮かぶのだ。
そうすれば、債務者と債権者の関係ではなく、ただの店の客として何度でもあのロースカツが楽しめるのだ。
それは真田の一つの願望だったかもしれない。
気がつけば、タバコがずいぶん短くなってきた。
短くなったタバコをそのまま捨てようとして思いとどまる。
普段は使わない携帯灰皿を鞄の中から探し出し、その中で消す。
「止めるかね……」
ちょうどいい機会かもしれない。
あの店は禁煙なのだ。客としていくならばそれに相応しくならないといけない。
そんなことを考えていた真田は急に震え始めた携帯に気が付き電話にでる。
「――ああ、俺だ。――――わかった。すぐ向かう」
部下の緊急の連絡にあわてて目的地へ向かう真田。
途中で、ふと真田は【夢味亭】の方角へと振り向いた。
「――もしかして神様って、あんたかい?親父さん」
そんな真田の独り言を聞くものなど誰もいなかった。
だが、真田には誰かが微笑んだような気がした。




