第7話 タイフーンアイ
第7話 タイフーンアイ
入口から右に向かって、8席のカウンターがあり、左にはトイレと狭いボックス席がある。このボックス席はほとんど使えないように見えた。後ろの棚には、ウイスキーやバーボンが壁いっぱいに並び、カウンターの後ろにはコートが掛けられるようにフックがついている。その下に愛が持っていた布製の旅行バックを置いたら?と翔子さんが言った。
「いえ。これは膝に持っていたいんです。史也が事故の時、持ってた服が入ってるんです。」
それはダンボール箱に入っていた、大阪の彼女の物だと思われる例の服だった。愛はホテルに置いておく気になれなかった。理彩はその言葉を聞くと、話題を変えようとした。
「何か、つくりますか?。」
と、どちらともなく理彩は聞いた。
「アイ ハイを作ったらどう?。せっかく高宮 愛さんが来てくれたんだから。」
翔子は、何故か愛の名字を知っていた。史也はフルネームで自分の話しをしていたのかと愛は不思議に思った。
理彩はそんな愛の様子を見ないように言った。
「アイ ハイを。じゃあ作りましょう。」
理彩は棚から3本選んで、カウンターに並べた。
「右からね。アイリッシュ パートナー。イングランド ウィンダム。最後がハイランド トーカーズ。変な名前ばっかりだけど…結構おいしいのよ。最後は高宮の高を英語のハイにして、3本並べたんだけど。」
「史也の考えたカクテルなんですね。」
理彩はシェイカーを頭の上でなく、お腹の前で前後に揺するヨーロッパでよくあるやり方でシェイクした。カクテルグラスに、マリンブルーの液体が注がれた。翔子さんは、布製のバックの中から写真を取り出すと、愛の前に置いた。
店の前のドアの所で、女性が微笑んでいた。ショートヘアで、黒いキャミ。デニムの下が花柄のフリルになったスカート。黒いフェルト地のブーツ。茶色い革の、可愛い小さめのカバンを腰の前で両手で持っていた。
誰かに似ている。
愛は誰だろうと記憶を探った。
見た事のある顔。
だけれども、それが誰なのか?。
理彩は、カウンターの向こうで下を向いて沈黙していた。
翔子は愛の様子を、うつむき加減で見つめていた。
愛は少しため息をもらした。そうだったのか…でも、彼女に会わなければ…。
「これが。史也の大阪の彼女。変ですね、誰かに似てると思ったら…私に似てる。変ね、ちょっと嬉しかったりして…。」
翔子は、横から写真を覗き込むように言った。
「それはね…史也君が事故の直前に撮った写真よ…。」
「史也が撮ったんですか…きれいな人。きっと、この人も苦しんでるんだ。私と同じ…。」
「そうじゃなくて…それが史也君なの…。」
愛はキョトンとして、右にいる翔子さんを見た。
「お話しが、よく分かりません。」
「…よく見て。私も理彩さんも、男なの。」
愛は目を見開いて翔子さんを見た。
「つまり。おかまさん…ですか?。」
「正確に言うと、女装者なの。理彩さんはニューハーフだけど。」
理彩は下を向いて固まっていた。カウンターの写真が誰に似ているのか?。史也と愛は兄妹じゃないかと言われる程、顔が似ていた。
つまり、愛と史也に似ていた。
「これは史也なんですか?。」
カウンターから逃げ出そうとする理彩のTシャツを翔子さんが立ち上がって掴んで引き戻した。
「つまり、この服は史也の服…なんですか…。」
愛は膝の上の旅行バックの上から、その服を握りしめた。
「史也君のウィッグとブーツは、隣りのビルにある事務所に置いてあるの。持っていってくれる?」
「史也は、ここで何を?。」
愛は史也を疑った事を後悔する気持ちと、新しい事実に対するショックに襲われていた。翔子はゆっくりと愛が聞きとれるように、そして思い出すように、愛の質問に答えた。
「高宮 愛さんと言う女性だった。愛ちゃん。愛さん。と呼ばれる3年目のベテランさん。みんなに頼りにされて、新人さんの世話もちゃんとやってた。私達の大切な人だった。愛ちゃんが居なくなって、みんなどうして良いか分からなくなる程。何人かは、お葬式にも出たのよ。メイクしてなかったから分からなかったかもしれないけど、私もね。」
「私…。お葬式の記憶があんまり無くて…ごめんなさい。」
翔子さんは遠くを見る目になった。
「…耳に残ってる。今でも。焼かないで、史也を焼かないで。……。って。思わず、生き抜け、生き抜けって、あなたに向かって叫んじゃって。ひんしゅくかっちゃった。多分あなたのお父さんに、どちら様ですかって聞かれちゃって。でも、励まして下さって有り難うございますって、お礼言われちゃってね。」
「…なんか覚えてます。その言葉。死のうって思うと聞こえてくるんです。負けるな。生き抜け。生き抜けって。」
「それで踏みとどまってきたの?。この一年?。」
理彩は涙を目いっぱいに溜めて聞いた。
「…だって、死にたかった。もう史也に触れられない。史也と約束した事も果たせない。史也のいない未来なんて何の意味もない。…でも、史也は私が死ぬ事を望んでいないって思った。だから聞こえるんだって。負けるな。生き抜け。生き抜けって。」
「……。」
3人とも、この一年を想い起こしていた。そして、あの事故はまだ終わっていない事にも気づいていた。
「あれは。史也君が私に言わせたんだと思う。負けるな。生き抜け。きっと私達にも言ってくれたのかもしれない。愛さんがここにたどり着いたのも全部ね。」
「翔子さん。それは本当です。史也が導いてくれたんです。」
翔子はそれを肯定も否定もしなかった。それが、たいした問題とは思えない程、翔子はこの一年、不思議に見舞われてきた。とどめが、この日に現れた高宮 愛さんだった。
「…実は。今日、仲間で史也君の…愛ちゃんの追悼の会があるの。無理にとは言わないけど、みんなに会っていってくれる?。多分、大阪の史也君の事をみんな話してくれると思う。」
理彩がティッシュで鼻を押さえながら異議を申し立てた。
「…まずいよ。何も知らない愛さんに、連中を見せたら。」
翔子はそれに答えずに、別の事を言った。
「ちょっと考えがあるんだけど…理彩さん。」
「何?。何か悪だくみ?。」
「サプライズをかけるのよ。事務所の鍵をもらえる?。」
翔子は右手の手のひらを出した。
理彩はポカンとして、ポケットから鍵の束を取り出した。
ーつづく