6話・彗の暴走
研究が佳境に入ったのか。
雫の集中力は途切れる事を知らない。
この時に声をかけるような存在は、研究所には存在していない。皆が皆集中に入った時には話しかけられる事を嫌うからだ。
そんな研究心の塊が集った場所。多少所かかなりのマニアックな分野まで極めようとしている面々がいる事も否定は出来ないが、それでもここは国の中枢である研究施設。優秀な面々がいるからこそ、ここから生み出されるものは国の利益になる。
そんな癖のあり過ぎる研究員たちを纏める所長。
常日頃から所長と呼ばれ、長年勤める研究員すら本当の名は知らない。
身分も何もかも取っ払える、ある意味コネとは無縁の完全実力世界。所長が何処の誰であろうとも、ここを纏める器があれば関係ないのだ。
そんな彼の最近のお気に入りは、異世界からの迷い子と呼ばれる雫の存在だった。彗も天才と呼んでも差し支えないが、それでも雫がいればその天才すら霞む。至高の存在である雫を前にすれば、この世界の誰もが霞んでしまうんじゃないかと思えてしまう。
ここに来たばかりの頃は研究だけ。
自身の知的好奇心さえ満たせればいい、と言い切っていた彼女の変化。
極僅かな変化はきっと、従姉弟である彗ですら気付けていないだろうと所長は思っていた。
態々伝える気はないし、伝えるような間柄でもない。それに、彗の近くにはルアルがいる。ルアルならば雫と接点はなくとも、この些細な変化ですら見逃さないだろう。ただ、彼は観察者。彼も自身の興味を優先させる傾向にあり、その為には多少場を整えたりもするが、今回の件については見ている事を優先させるだろう。
まぁ…ほんの少しだけ、彗をチクチクとさす事は忘れていないようだが。
研究所の様子を端から端まで眺め、所長は静かに部屋を出て行く。
数十年前になるだろうか。
所長は、このパターンを見た事があるのだ。雫や彗程の天才児ではなかったが、男の方が原因でここに落ちてきた男女2人。
男が素直になった瞬間、元の世界の道が繋がった。
空間を歪むほどの素直ではない男の感情。興味深かったが、それ以上に面倒だった。故に、関わり合いにはならずに傍観者でいたのだったが、その時知識がこうして役にたったらしい。
詳しい話しを雫から聞かなくとも、そろそろ道が繋がりそうだという事がわかる。
面白いと思っただけの観察対象。
そんな雫が、もうじき元の世界に帰る。
一つのレポートの完成が見えているのに、何故か嬉しくなかった。
不可思議であり厄介な感情に、思わず重たいため息が漏れる。今日は研究を進められるような気分じゃないと、外を眺めながら脳裏から全ての思考を追い出していく。頭をまっさらにし、思考を正常な状態に戻す。
きっと、今日はそれで潰れるだろう。だが、そんな初めての思考も良い経験だと、所長は開き直る事に決めた。
「……久しぶり、です」
だが、そんな彼の耳に届く声。
まだ幼さが残るものの、低めの声は女性を虜にするのだろう。
「あぁ。久しぶり、だね。君が声をかけるなんて珍しい。明日は槍でも降るのかな。それもいいな。いい研究になりそうだ」
「アンタに声をかけるといつもそうだな。話しが逸れる」
所長のいつも通りの態度に、苛っときたのか声をかけた男──ナーダが嫌そうに顔を歪める。
「態とだよ?」
「知っているから苛々とした」
「そうだろうね。雫さんの事かな? 君が気付く程、彼の変化はわかりやすかったのかな。その段階までくるとなると、雫さんが法則に気付くのは遅くて一週間。でも雫さんだからね。明日には気付きそうだね」
つらつらと言葉を連ねる所長に、ナーダのいらつきが増す。
しかも、全てを分かっているかのような口調も苛々する。かつて世話になった事は否定しない。しないが、それを差し引いても苛々としてしまうのだ。
態とやっているであろう所長の態度。
わかっているからこそ、苛々としてもソレを表にだすような真似はせず、ナーダは落ち着かせるように息をゆっくりと吐き出した。
「あぁ。雫の事だ…が、今の言葉で十分だ。そこまでわかっていれば、俺はこの世界で彼女の興味をひきそうなモノを紹介するだけだ」
「そうですね。彼女を引き止めるには。もしくは帰ってきてもらうには、それが一番いいかもしれませんね」
「……俺も、雫を引き止める為のコマ、か。アンタは、相変わらず表立っては行動しないんだな」
そう。相変わらず。ナーダにとって所長と呼ばれる男は、知り合った頃からそういう男だった。世話になった事もある。だからこそこれ以上は何も言わないし、聞きたかった事は聞けたからいい。
「別にいい。アンタはアンタで動くんだな。雫を引き止める為には……おそらく、アンタの知識も有効だ」
吐き捨てるように言うと、もう用はないとばかりにナーダは所長に背を向けその場から立ち去る。ものすごい速さで遠ざかっていくナーダの背を眺めながら、所長は何とも言えないような、複雑そうな表情を浮かべ空を仰ぐ。
自分の知識こそ雫にとって興味のひかれるもの。そんな事は言われるまでもなく知っている事だ。だが、知っていると同時に不安もある。研究所の所長として身に付けてきた技術と、元々持っていた個人の素質。
それらを、雫は全てくらう事が出来るのだ。
引き止める為に全てのカードをきるわけにはいかない。小出しにする必要があるのだが、まどろっこしい事をやれば雫はソレを切り捨てる。
難しいんだよ。と、心細ささえ感じるような音が、誰にも拾われずに通路に響き渡った。
目の前には大量の紙の束。
雫は記憶に残されている情報。つまり、この場にきた経緯を全て紙に書き出していた。普段だったら紙に残す事はしないのだが、一から整理したいという事で珍しく書き出してみた。
書き出した事は雫だけの知識じゃない。今まで得た証言。彗にふられた女性たちの変化も書き留めていた。
ひょっとしたら落とし穴と呼ばれる場所にいたあの男にだったら会えるかもしれない。
魔法を覚えた事も大きいのだが、それよりもやはり彗の変化の方が重要なのだろう。彗の変化が、雫を覆っていた不可解な膜のようなものを溶かしていく。
この膜が地球との繋がりを絶っていたというならば、これさえ消えてしまえば戻れるのだ。地球に。
ガリガリと休憩する事無くペンを走らせていたが、実はほぼ確信は得ている。感覚的なものだが、間違いないだろうと雫は思っていた。だが、まだ彗にこれを言うつもりはない。彗の無意識の変化が、意識的に止められてしまえばどうなるかがわからないのだ。
そう思っていたのに、ガラリ、と無遠慮に開けられた研究所の扉。
防音の効果を施された室内に、外の音が響いてくる。
「彗」
逆光になっているが、このシルエットは間違いなく彗。
「雫っ」
珍しく切羽詰った声。
「研究中」
それに、いつも通りに返してみたが、彗は構う所か研究室に足を踏み入れ、座っている雫を上から見下ろす。
口は堅く結ばれ、瞳は自信なく揺れている。
珍しい。本当に珍しい。ここまで余裕のない彗を見るのは、雫ですら初めてじゃないだろうか。
「雫っ。帰ろう! 今すぐ帰ろう! 地球に帰る!!」
雫が黙っていると、余裕のない彗は周りも気にせずに叫ぶように言葉を吐き出す。
「どうやって?」
その鍵は彗だけどね。とは言わない。
「俺だろ? 俺が迷い人だろ? なら、もう帰れるじゃないか」
自信なさげに揺れていた瞳は何処にいったのか。今は明確な意思を瞳に宿し、彗は雫の肩を掴むように手を置く。
「鍵は俺だ。俺の異世界人の特殊能力は転移だ。俺が望めば、地球に帰れる。だから、直ぐに帰る!」
「彗。落ち着きなさい」
直ぐ、なんて無理を言うなと、視線は冷ややかになる。
お世話になった人たちへの挨拶や片付け。そういったものがあるだろうと呆れたように溜息を落とせば、雫の肩を掴んでいる彗の指先に力が入った。
「悪い。俺は、雫をここに置いときたくない。俺が嫌だから、もう帰る」
だが、珍しく我を忘れているなぁ、何て呑気に思っていたのだが、どうやら暴走していたらしい。
認識が甘かったと、雫は彗の手を払いのけようとしたのだがそれより先に、自分の身体に衝撃が走る。
通路を走る音が耳に届いた。
視界が歪む寸前に音の方を見てみれば、扉に手をかけた所であろう所長とナーダ。
あぁ。彼らには世話になったのに。
無意識に手を伸ばせば、その手は彗の手によって絡め取られ、こつん、と額が彗の胸に当たる。どうやら抱きしめられたらしい。
その感触が最後だった。
雫と彗はその瞬間この世界からきり取られ、歪む視界が戻る頃には慣れた風景が目前に広がる。
下を見れば、雫の格好は制服。
前にはあの時と同じく彗の姿。こちらも制服だ。
「………唐突過ぎる」
肩を上下させている彗を視界の隅に捕らえながら、雫は思わず、ポツリとそんな言葉を漏らしていた。




