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第四章 虚構の文法 ── 二〇四二年一月〜二月 ──

美紀は、翌日の夜も接続した。


「分からない」と言ったのは本当だった。しかし布団の中で天井を見ながら一時間過ごしているうちに、自分が何を待っているのかが分かってしまった。それが分かった瞬間に、諦めに似た感情とともに、ヘルメットを手に取った。


教室に入ると、亮介はいた。

いつもの席で、窓の外を見ていた。みきちゃんはまだ来ていなかった。


美紀が席につくと、亮介がすぐに気づいた。振り返り、少し目を細めた。安堵のような、照れのような、うまく分類できない表情だった。


「来た」と亮介は言った。

「来た」と美紀は言った。


それだけで、何かが決まった気がした。



一月の残りの週、ふたりは四回、同じ教室で時間を過ごした。


会話は相変わらず、仮想の教室の内側だけで動いた。

互いの名前を名乗らなかった。現実の職業も居住地も聞かなかった。仮想の中での呼び方も、ふたりはいつしか自然に決めていた——亮介は「リョウ」、美紀は「みきちゃん」と呼ばれていた。


その呼び名の奇妙さに、美紀は最初、戸惑った。

相手が「みきちゃん」と呼ぶのは、自分のことではなく、あのエージェントに向けた名前だ。しかし共有空間の中では、エージェントと生身の人間が同じ席を持つことはない。みきちゃんのエージェントはいつも斜め前の席にいて、美紀は別の席にいた。

だから亮介が「みきちゃん」と呼ぶとき、それはどちらを指しているのか、美紀には分からなかった。


分からないまま、「うん」と答えていた。



二月に入った最初の夜、亮介は初めて、教室の外の話をした。


唐突ではなかった。会話の流れの中で、ごく自然に——仮想の廊下の話から、本物の廊下の話に、するりと滑り込んだ。


「昔、廊下の突き当たりに理科室があってさ」と亮介は言った。「カエルの解剖、嫌いだった」

「私も」と美紀は言った。「先生がすごく淡々としてるの、余計につらくて」


その瞬間、ふたりとも気づいた。

「昔」という言葉が、仮想の文法を破った。


仮想の教室の中では、ふたりは今まさに中学三年生だ。「昔」は存在しない。「昔」が出てくるということは——現実の記憶が、滲み出てきたということだ。


少しの間、沈黙があった。


破ったのは、美紀だった。

「……中学、どこだったの。リョウくんは」


亮介は、一拍置いた。

「大阪」と言った。


美紀の指が、机の上で、かすかに動いた。



「私も」と美紀は言った。「大阪」


静かな二文字だった。しかしその二文字が、教室の空気を変えた。


亮介は、前を向いたまま、窓の外の仮想の夜景を見た。冬の、街灯の黄色い光。実際には存在しない光景が、今この瞬間、妙にくっきりと見えた。


「吹田の方?」


亮介が聞いた。声が、少し低くなっていた。自分でも気づいていた。


美紀は、すぐには答えなかった。

机の上の鉛筆を見ていた。問題集の余白を見ていた。それから、ゆっくりと、亮介の方を向いた。


「……なんで、吹田って出てきたの」


静かな問いだった。

詰問ではない。ただ、確かめている。


亮介は、その問いを正面から受けた。逃げ方を、いくつか考えた。「なんとなく」とか「響きがそれっぽかったから」とか。どれも使えなかった。


「……知ってる人が、吹田出身だったから」


「知ってる人」。


その言葉の輪郭を、美紀はしばらく見ていた。



その夜の接続は、そこで終わった。

どちらからともなく、「今日はここまでにしよう」という空気になった。


接続を切った後、美紀はしばらく布団の上に座っていた。


「知ってる人が、吹田出身だったから」。


偶然という言葉で片付けるには、重なりが多すぎた。大阪、吹田、中学三年の秋のシナリオ、「みきちゃん」というエージェントの名前——それらが一本の線で結ばれる可能性を、美紀は静かに、しかし確実に、考え始めていた。


リョウ、という呼び名。

西岡亮介——あの子の名前は、亮介だった。


美紀は、両手で顔を覆った。

笑いたいのか、泣きたいのか、自分でも分からなかった。


こんなことがあるのか、と思った。

二十八年後に、仮想の中学校の教室で、再び隣になるなどということが。


あるいは——再びではないのかもしれない。

これはただの偶然で、「リョウ」は全く別の誰かかもしれない。


確かめたい、と思った。

確かめたくない、とも思った。


その夜、美紀は眠れなかった。



東京では、亮介も眠れなかった。


「吹田」という言葉が口をついた瞬間、取り返せないと思った。

あれは、虚構の文法の外の言葉だ。ゲームの中のルールを、自分から破った。


早苗は隣で、規則正しく呼吸していた。

穏やかな寝顔。信頼しきった、無防備な横顔。


自分は今、何をしているのか。


仮想の教室で、見知らぬ女性と、中学生の振りをして話している。その相手が、もしかすると二十八年前に傷つけた女性かもしれない。その可能性に向かって、じりじりと近づいている。


止まるべきだ、と思った。

次の接続で、「吹田」の話を撤回する。「なんでもない」で流す。虚構の文法に戻る。そうすれば、何も変わらない。


分かっていた。

分かっていても、翌日の夜が来ると、また接続している自分がいた。



二月の第二週、ふたりは初めて、名前の話をした。


きっかけは些細なことだった。みきちゃんのエージェントが、亮介に「リョウくん、呼んでるよ」と言った瞬間があった。廊下から誰かに呼ばれているという設定のシーンだった。


そのとき美紀は、思わず亮介の顔を見た。

亮介も、美紀を見た。


「リョウ、って」と美紀は言った。「本名?」


長い沈黙があった。

今度は亮介が、机の上の鉛筆を見ていた。


「……そう」


一文字の答えだった。しかしその一文字が、教室の中に落ちた石のように、静かな波紋を広げた。


美紀は、前を向いた。窓の外の、仮想の冬の空を見た。


「私も」と彼女は言った。「みき、が、本名」


教室が、しずまった。

AIの生徒たちが動いている。誰かが笑う。鉛筆が紙を走る音がする。

しかしふたりの間だけ、空気が止まっていた。



「……吹田の」


亮介が言いかけた。


美紀は、その先を、待った。


亮介は続けなかった。言いかけた言葉を、飲み込んだ。


代わりに、別のことを言った。


「……ごめん」


脈絡のない謝罪だった。仮想の教室の中で、どんな文脈にもつながらない、ただの二文字。


美紀は、それを聞いた。


聞いて——何かが、胸の奥で動いた。

怒りではなかった。悲しみとも違った。長い年月をかけて水底に沈んでいた何かが、ゆっくりと、音もなく、浮き上がってくるような感覚だった。


「……なんで謝ってるの」


美紀は聞いた。声が、少し、かすれていた。


「分からない」と亮介は言った。「でも、ずっと、言いたかった」


また、沈黙があった。


今度は、重くなかった。


二十八年前の電話の沈黙とは、違った。

あの沈黙は、十四歳の子供が混乱のあまり言葉を失った沈黙だった。

今夜の沈黙は——もっと広い、どこか開いたところにある静けさだった。


仮想の冬が、窓の外で続いていた。


ふたりは、しばらく、黙って同じ空を見ていた。

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