第三章 同じ教室 ── 二〇四二年一月 ──
一月十七日、木曜の夜。
西岡亮介が接続したのは、午後十一時過ぎだった。
早苗はリビングで読書をしていた。蒼太はとうに眠っている。「ちょっと仕事の資料を見る」と声をかけて、書斎のドアを閉めた。
ヘルメットを被る直前、亮介は共有設定の画面をもう一度確認した。
「共有空間:オン」。
設定を変えてから五日が経っていた。毎晩接続したが、教室に変化はなかった。みきちゃんだけがいつもの席にいて、いつものように猫の絵を描いていた。誰も来なかった。
今夜も同じだろう、と思いながら、接続した。
教室の匂いが来た。チョークと木の床と、冬の暖房の乾いた空気。
亮介は自分の席に座った。
いつもの席に——みきちゃんがいた。
そしてもう一つ、いつもとは違う気配が、教室の中にあった。
二
大阪のマンションで、美紀がヘルメットを被ったのは午後十一時十五分だった。
共有設定を「オン」にしたのは、一週間前の深夜のことだ。
後悔した。翌朝目が覚めて、すぐに「オフ」に戻そうと思った。しかし画面を開くたびに、指が止まった。そのまま一週間が過ぎた。
今夜は接続するつもりではなかった。ただ眠れなかった。一月の大阪は底冷えがして、暖房をつけていても足先が冷たかった。
接続した瞬間、教室の暖かさが来た。
仮想の暖房が、足先まで温める。
美紀は自分の席に座った。窓際の、いつもの席。問題集を開いて、鉛筆を持った。
斜め後ろの席に、「リョウくん」がいた。
いつものように、本を読んでいた。
そして——「リョウくん」の隣の席に、見知らぬ男子生徒が座っていた。
美紀の手が、止まった。
三
亮介も、同じ瞬間に気づいた。
教室の前方、窓際の席に、女子生徒がいた。
みきちゃんではない。
みきちゃんは亮介の斜め前の席にいる。今も、問題集の余白に猫の絵を描いている。
その前の席の——窓際の——女子生徒が、こちらを見ていた。
亮介は、その視線を正面から受けた。
生身だ、と思った。
即座に分かった。第一部の桐嶋誠司が語っていたことを、亮介は読んでいなかったが、人間の直感というのは鋭い。AIが生成した群衆の、顔のない動きとは違う。その女子生徒の視線には、重さがあった。
人間が、ここにいる。
女子生徒は、すぐに視線を前に戻した。問題集に目を落とした。しかしその肩が、かすかに、緊張していた。
四
美紀は、鉛筆を動かしながら、考えた。
人間だ。
あの男子生徒は、AIではない。誰かが——誰かが、同じ教室に入ってきた。
共有設定をオンにしたのは自分だ。だから、起こり得ることだと分かっていた。分かっていて、覚悟が追いついていなかった。
相手は「リョウくん」の隣に座っている。
つまり——「リョウくん」を目的にして、ここに来た?
いや。
「リョウくん」は、美紀が作ったエージェントだ。外部のユーザーがそれを「目的」にすることはできない。相手はおそらく、自分のエージェントを持ってここに来ている。
ならば、なぜその席に——
美紀は、ちらりと斜め前を見た。
「みきちゃん」と呼ばれているらしいその女子生徒が、猫の絵を描いていた。
美紀の胸の奥で、何かが、静かに揺れた。
五
三十分ほど、ふたりは同じ教室の中で、何も言わなかった。
仮想の生徒たちが、それぞれの席で動いている。誰かが笑う。誰かが消しゴムを落とす。教室の背景音が、ゆっくりと流れる。
亮介は、女子生徒の背中を横目で見ながら、みきちゃんと話した。
「みき、今日のテスト範囲どこまで?」
「三章まで。あ、でも先生、四章も出すって言ってたよ」
「そっか。ありがとう」
他愛のない会話。二十八年前には実際にあったかもしれない、なかったかもしれない、どこかの午後の断片。
女子生徒は、ずっと問題集を見ていた。
しかし——亮介には分かった。その耳が、こちらを聞いていた。
美紀は、その会話を聞いていた。
「みき」という名前が、亮介の口から出た瞬間、美紀の鉛筆が紙の上で止まった。
みき。
自分の名前の読み方と同じ、その二文字が、仮想の教室の空気を通って、美紀の耳に届いた。
六
亮介が声をかけたのは、接続から四十分後だった。
「……あの」
女子生徒が、顔を上げた。
亮介は、少し間を置いた。何を言うべきか、接続する前から考えていたはずなのに、いざその顔を——十四歳の少女として描画された、しかし確実に生身の人間の意識が宿っている、その顔を——正面から見ると、言葉が消えた。
「……同じ学校?」
馬鹿げた問いだ、と自分でも思った。仮想の設定が同じなら、当然同じ学校になる。
しかし女子生徒は、少し考えてから、答えた。
「……うん。二年のときから」
その声を聞いた瞬間、亮介の心臓が、ひとつ、大きく動いた。
AIではない声だった。言語モデルが生成するなめらかさではなく、少し間があって、少し迷ってから出てくる、人間の声だった。
「そうか」と亮介は言った。「俺は……三年から転入してきた」
それも設定の話だ。仮想の設定の中の、自分のキャラクターの話。
しかしふたりは、その虚構の文法に乗ることにした。
現実の話をするには、まだ、お互いが近すぎた。
七
その夜の会話は、三十分ほど続いた。
話題はすべて、仮想の教室の中のことだった。テストの範囲、先生の口癖、体育館の床が滑ること、購買のパンがいつも昼前に売り切れること。
どれも実在しない記憶だ。しかし不思議と、会話は自然に続いた。互いに中学時代の空気の感触を覚えているから、話が合う。三十年の時間を経た四十代の男女が、十四歳の教室の話だけで三十分を過ごした。
「そろそろ接続時間が……」と女子生徒が言った。
「うん」と亮介は答えた。
「また、来る?」
亮介が聞いた。
少し間があった。
「……分からない」
正直な答えだった。
亮介は、それ以上何も言わなかった。
接続が切れた。
東京の書斎と、大阪のマンションに、それぞれの夜が戻ってきた。
八
亮介は、ヘルメットを外した後、しばらく動けなかった。
「みき」と呼ばれた声。「二年のときから」という答え。「また来る?」に対する「……分からない」という間。
確率的な話をすれば、その女子生徒が村上美紀である可能性は、高くない。同じシナリオに接続するユーザーは、全国に何千人もいる。
しかし。
「二年のときから」——美紀は中学二年のとき、吹田の学校に転入してきた。
亮介は、それを知っていた。
偶然かもしれない。
しかし偶然でないとしたら——
亮介は、リビングに戻った。早苗がソファで眠っていた。文庫本を胸の上に置いたまま、穏やかな寝顔で。
亮介はブランケットを妻の肩にかけた。
それから、その寝顔を、しばらく見ていた。
この人を傷つけることは、したくない。
それは本当のことだ。
同時に——明日の夜、また接続しようとしている自分が、もうそこにいた。
九
大阪のマンションで、美紀は風呂の中にいた。
湯船に浸かりながら、天井を見ていた。
「みき」という名前を、あの男子生徒は、そのエージェントに向かって呼んだ。
その声の質が——
美紀は、目を閉じた。
二十八年前の電話の声を、今でも時々思い出す。最後に聞いた、あの声を。
「ごめん」とは言わなかった。「どうしたらいい」とも言わなかった。ただ、受話器の向こうで、長い沈黙があった。
その沈黙の中に、十四歳の男の子の、どうしようもない混乱があった。
怒ってはいなかった。ずっと、怒れなかった。
あの子も怖かったのだと、大人になってから分かった。
分かった上で、それでも——あの沈黙の重さは、消えなかった。
「また来る?」と、あの男子生徒は聞いた。
美紀は湯船から出た。
体を拭きながら、スマートフォンを見た。「ムコウガワ」のアプリが、画面の隅にある。
明日の夜のことを、美紀はまだ決めていなかった。
ただ、「分からない」と答えた自分の声が、今もまだ、耳の中で響いていた




