第二章 検索の夜── 二〇四一年十二月〜翌年一月 ──
十二月に入ると、西岡家は慌ただしくなった。
蒼太の冬休みの準備、早苗の職場の忘年会、亮介自身の部内の締め会——予定が重なり、週末も慌ただしく過ぎた。「ムコウガワ」への接続が三週間ほど途切れた。
途切れている間、亮介は自分が少し楽になったことに気づいた。
同時に、何かが欠けていることにも気づいた。
その「何か」の正体を、彼はもう知っていた。
十二月の第三週、蒼太が早苗の実家に泊まりに行った週末、亮介は一人で書斎に入り、ヘルメットを被った。
久しぶりに接続した仮想の教室は、十一月のままだった。黒板に「期末テスト範囲」と書かれている。窓の外には冬の空。みきちゃんが窓際の席で、マフラーを首に巻いたまま、問題集を眺めていた。
「久しぶり」と亮介は言った。
「どこ行ってたの」とみきちゃんが言った。
AIの返答だ。プロファイルから生成された言葉だ。それは分かっている。それでも「どこ行ってたの」という四文字が、二十八年分の重さを持って、亮介の胸に落ちた。
二
接続を切った後、亮介はスマートフォンを持って、キッチンでコーヒーを淹れた。深夜一時。マンションは静かだった。
村上みき、という名前。大阪府吹田市出身——それだけは覚えている。中学が同じで、高校は別々になった。それ以降、消息を知らない。
SNSで探すのは限界がある。同姓同名が多すぎる上に、結婚していれば姓が変わっている。
亮介はスマートフォンで「ムコウガワ」の設定画面を開いた。「高度な人物照合オプション」という項目があった。以前から気になっていたが、踏み込まずにいた機能だ。
説明文にはこうあった。
《入力した人物プロファイルと公開データベースの照合を行い、現存する可能性のある人物の特定を補助します。照合に際しては対象人物のプライバシーへの配慮をお願いします》
「プライバシーへの配慮」。
分かっている。分かっていて、「みき」のファイルを開き、照合ボタンを押した。
三
照合結果が返ってきたのは、翌朝だった。
《入力プロファイルと照合可能な人物候補:三件》
一件目——大阪府在住、四十〜四十四歳。一致確率六十一パーセント。
亮介の視線が、そこで止まった。
大阪。みきの実家は吹田市だった。そこから離れていないとすれば——
六十一パーセント。確率として高いとは言えない。しかし低くもない。
亮介は、その画面を、スクリーンショットした。してから、なぜスクリーンショットしたのか、自分でも分からなかった。
四
同じ頃、大阪府吹田市のマンションで、村上美紀は洗い物をしていた。
結婚して「原田」になり、離婚して「村上」に戻った。四十二歳。一人暮らし。子供はいない。
洗い物をしながら、スマートフォンの通知を横目で見た。「ムコウガワ」のアプリからだった。
《あなたのプロファイルが、他ユーザーの照合リクエストと近似しました。相手方からの接触を許可しますか?》
美紀は手を止めた。
「ムコウガワ」を始めたのは、半年前だ。離婚後の空白を埋めるためというより、ただ眠れない夜に、どこかへ行きたかった。彼女が選んだシナリオは「中学三年・秋」。そのシナリオに登場する男子のエージェント——「リョウくん」と呼んでいる——は、美紀が記憶から丁寧に作り上げた人物だった。
少し猫背で、よく本を読んでいた。成績が良くて、でも偉ぶらなかった。怒ったところを一度も見なかった。
電話越しに、最後に声を聞いた日のことを、今でも時々思い出す。
美紀は通知を閉じた。それから、もう一度開いた。
「許可しない」を選んだ。
洗い物を再開した。泡が、排水口に、静かに消えていった。
五
亮介のスマートフォンに、結果が届いた。
《照合対象より、接触の許可が得られませんでした》
それだけだった。
亮介は、その通知を見て、息を吐いた。安堵なのか、落胆なのか、自分でも分からなかった。
当然だ、と思った。当然だ。
見知らぬ他人からの照合リクエストを、承認する理由はない。ましてそれが、二十八年前に自分が傷つけた相手であるなら、なおさら。
亮介は、スマートフォンを伏せた。そしてまた、「ムコウガワ」を開いた。
仮想の教室へ、接続した。
みきちゃんが、窓際で猫の絵を描いていた。現実の村上美紀が「許可しない」を押した、その同じ夜に、仮想のみきちゃんは、問題集の余白に、のんびりと線を引いていた。
亮介は、隣の席に座った。何も言わずに、ただ、その手元を眺めた。
六
十二月二十四日。
西岡家のリビングには、蒼太が飾り付けたクリスマスツリーが光っていた。夕飯は早苗の手作りのローストチキンと、亮介が担当したクリームシチュー。蒼太はケーキを半分以上一人で食べ、機嫌よく眠った。
早苗がソファでワインを飲みながら言った。「今年も一年、ありがとね」
亮介は、向かいのソファから妻を見た。三十九歳の早苗は、疲れているときでも目元に笑みを持っている。蒼太の寝かしつけをして戻ってきたばかりで、少し髪が乱れていた。
「こちらこそ」と亮介は言った。
嘘ではなかった。早苗のことが嫌いではない。むしろ好きだ。蒼太が生まれた夜に、分娩室の前で泣いたのは本当のことだ。この家が壊れてほしいとは、これっぽっちも思っていない。
それでも。
ワインを一口飲んで、亮介は窓の外を見た。大阪の空の下に、四十二歳の村上美紀がいる。「許可しない」を押した、その手で、今夜は何をしているのか。
早苗が「ねえ、聞いてる?」と言った。
「ごめん、聞いてた。来年の話?」
「そう。春に、お母さんのとこ行きたいって蒼太が言ってて」
亮介は頷いた。笑った。会話を続けた。その間も、窓の外の夜は続いていた。
七
年が明けた。
一月の第二週、亮介は再び照合オプションを開いた。今度は、別のアプローチを試みた。
「ムコウガワ」のサポートセンターに、テキストで問い合わせた。
《同一の時代設定・同一の学校設定で接続している他ユーザーと、仮想空間内で接触することは可能ですか》
翌日、返信が来た。
《はい、可能です。共有空間設定を「オン」にすることで、同じシナリオに接続中の他ユーザーと同じ空間を共有できます。ただし、相手方も共有設定をオンにしている場合に限ります。また、他ユーザーが人間であるか、AIエージェントであるかを判別する機能は提供しておりません》
亮介は、その返信を読んで、しばらく動かなかった。
共有設定をオンにする。
そうすれば、もし同じ教室に——同じ「中学三年・秋」の、同じ学校設定に——接続している人間がいれば、出会える。
それが美紀かどうかは、分からない。
しかし——
亮介は、設定を変えた。
八
大阪のマンションで、美紀もまた、同じメールを読んでいた。
「ムコウガワ」から届いたお知らせ。
《共有空間機能のご案内。同じシナリオの他ユーザーと、リアルタイムで同じ仮想空間を体験できます》
美紀は、その案内をゴミ箱に入れた。
それから夕飯を作り、一人で食べ、テレビを消して、風呂に入った。
風呂の中で、天井を見ながら、リョウくんのことを考えた。
リョウくんは今も、仮想の教室の中で、本を読んでいるだろうか。
あの子は——現実の西岡亮介は——今頃どんな人間になっているのだろう。
幸せにしていればいい、と思う。
そう思いながら、どこか遠い場所で、別の感情がある。名前をつけたくない、小さな、しかし消えない何かが。
美紀は湯船から上がり、スマートフォンを手に取った。
ゴミ箱を開いて、削除したお知らせを、取り出した。
もう一度、読んだ。
共有空間。
同じ教室に、もし——
美紀は、設定画面を開いた。
共有設定の項目に、指を置いた。
一月の夜が、大阪と東京で、静かに更けていた。




