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第二部 消えない火 第一章 良い夫の条件


西岡亮介は、良い夫だと思われている。


本人もそれは分かっている。


妻の早苗は週に一度、友人と食事に出かける。その間、亮介は小学三年の息子・蒼太と夕飯を作り、風呂に入れ、本を読み聞かせて寝かしつける。翌朝は弁当を二つ——蒼太の分と自分の分——仕上げてから出勤する。家事の分担率は推定六割。早苗の職場復帰を全面的に支援した。育休も取った。PTAの会議にも出た。


良い夫の条件を、西岡亮介は几帳面に、丁寧に、一つずつ、埋めてきた。


埋めながら、何かが欠けていると、ずっと思っていた。


四十二歳。京都大学法学部卒。現在は大手損害保険会社のリスク管理部門に勤める、課長職。年収は一千二百万円を超える。結婚十一年。子供一人。

どこをどう切り取っても、及第点の人生だった。


及第点。

その言葉が、時々、喉の奥に骨のように引っかかった。



西岡亮介が「ムコウガワ」を知ったのは、職場の同僚・田端からだった。


田端は三十八歳の独身男で、趣味と実益を兼ねてFIVの最新サービスを渡り歩いている。ある金曜の夜、残業後に立ち寄った居酒屋で、彼は酔った声で言った。


「西岡さん、ムコウガワ試したことあります? 中学のとき好きだった子とか、設定できるんですよ。マジで泣けますから」


西岡は笑った。笑いながら、心臓の奥の何かが、ぴくりと動いた。


「中学、ね」

「そうっすよ。俺なんか初恋の子のプロファイル作って、毎週会いに行ってますもん。現実逃避ですけど、まあ害はないかなと思って」


害はない。


西岡は、ハイボールを一口飲んだ。

その夜、帰宅してから、彼はスマートフォンで「ムコウガワ」を検索した。



最初の接続は、十月の第一週だった。


シナリオは「中学校三年生・九月」。

学校名は実際のものに近い設定にした。教室の雰囲気も、窓から見える山の稜線も、記憶を丁寧に掘り起こして入力した。


彼女のプロファイルを作るのに、三時間かかった。


名前は入力しなかった。「本名の入力は任意です」という説明書きを見て、亮介は少し安堵した。名前を入れると、何かが確定してしまうような気がした。代わりに「愛称:みきちゃん」とだけ記した。


身長、体型の傾向、髪の長さ、声の質感——覚えている限りを入力した。二十八年前の記憶は思ったより鮮明で、それが少し怖かった。


笑い方。怒り方。照れると耳が赤くなる癖。

問題集の余白にいつも小さな絵を描いていたこと。

名前を呼ばれると少し首を傾けてから答えること。


接続した瞬間、教室の匂いが来た。

チョークの粉と、古い木の床と、誰かの給食のカレーの残り香。

西岡亮介は、十四歳になった。



「みきちゃん」は、窓際の席にいた。


問題集の余白に、小さな猫の絵を描いていた。


西岡は、その瞬間、泣きそうになった。泣かなかったが、そうなった。四十二歳の男が、仮想の中学校の教室で、二十八年前に失った少女の横顔を見て、喉の奥が熱くなった。


「みき」と、亮介は呼んだ。


少女が顔を上げた。首を少し傾けてから、答えた。

「なに?」


声だった。

完全には一致しない。人間の記憶は不完全だから、AIが生成した声は「近似値」に過ぎない。それでも——あの頃の彼女の声の、質感の輪郭が、そこにあった。


「……なんでもない」


亮介はそう言った。

みきちゃんは少し不思議そうな顔をして、また猫の絵に戻った。


西岡亮介は、その横顔を、ただ見ていた。

それだけで、十分だった。

最初の夜は、それだけで。



問題は、二週間後から始まった。


週に三回、接続するようになっていた。

それ自体は、まだ許容範囲だと思っていた。


しかし十月の終わりのある夜、早苗が先に寝た後、亮介が書斎でヘルメットを被っていると、ドアが開いた。


「お父さん、何してるの」


蒼太だった。八歳の息子が、パジャマのままドアを開けて立っていた。


亮介はヘルメットを素早く外した。

「ゲームだよ。大人のゲーム。どうした、眠れないのか?」

蒼太は少し考えてから、「うん、なんか」と言った。


亮介は立ち上がり、息子を寝室まで連れて行った。布団に入れて、背中を軽く叩いてやった。

蒼太はすぐに眠った。


亮介は息子の寝顔を、しばらく見ていた。

八歳。

自分が「みきちゃん」と付き合っていたのは、十四歳のときだった。

この子がそんな年齢になる頃、自分は五十歳を過ぎている。


ふと、思った。

もしあのとき、子供が生まれていたら——


思考を、止めた。

止めようとして、止まらなかった。



中学三年の秋、西岡亮介と村上みきは付き合っていた。


「付き合っていた」という言葉が、今でも奇妙に響く。中学生の恋愛に、そんな大人びた動詞は似合わない気もする。しかし当時の亮介にとって、みきとの時間は人生で最も真剣な何かだった。


問題が発覚したのは、十一月だった。

みきが「生理が来ない」と、震える声で電話してきた。

中学三年の十一月。十四歳と十四歳。


亮介は、何もできなかった。

何をすべきかも分からなかった。

数日後、みきの母親から亮介の親に連絡が行った。両家の間で話し合いが持たれた——亮介は同席を許されなかった。結果として、みきは処置を受けた。そしてその翌月、みきは亮介に「もう会わない」と言った。泣いていたか、泣いていなかったか、亮介はよく覚えていない。ただ、みきの声が、電話越しに、ひどく遠かったことだけを覚えている。


その後、亮介は猛勉強した。

逃げるように、あるいは贖うように、ただ机に向かった。

京大に受かったとき、誰も本当の理由を知らなかった。



十一月に入ったある夜、亮介は仮想の教室の中で、みきちゃんに聞いた。


「みき、将来、子供は欲しい?」


質問の意味を、AIは処理できなかっただろう。

しかしみきちゃんは、少し間を置いてから言った。

「欲しいよ。二人くらい」


亮介は、それを聞いて、目を閉じた。


二十八年前のみきが、本当にそう思っていたかどうか、分からない。AIが確率論で生成した言葉だ。でも——あの頃の彼女は、そういうことを笑顔で言いそうな子だった。


「そうか」と亮介は言った。「よかった」

「なんで?」

「……いや、なんでもない」


みきちゃんが、不思議そうに首を傾けた。


亮介は、ヘルメットの中で、一人で泣いた。

音を立てずに。早苗に気づかれないように。

四十二歳の男が、中学校の仮想の教室で、二十八年分の後悔を、誰にも見せずに、泣いた。



十二月の最初の週、亮介は検索した。


「村上みき 同い年 大阪」——彼女の実家は大阪だった。


十件ほどのSNSアカウントが引っかかった。同姓同名は多い。顔写真が出ているものを一つずつ確認したが、判断できなかった。二十八年の時間は、人の顔をここまで変える。


検索を閉じた。


また開いた。


今度は別のキーワードを入れた。「村上みき 産婦人科」「村上みき 1999年」「村上みき 中学」——馬鹿げている、と思いながら、止まらなかった。


もちろん、何も出てこなかった。


亮介は、スマートフォンを伏せた。

リビングから、早苗がドラマを見ている音がしていた。笑い声が、壁一枚を通して聞こえてくる。


自分は今、何を探していたのか。


答えは分かっていた。

分かっていたから、怖かった。


あの子は、どうなったのか。

処置の後、みきは何を思ったのか。

亮介を、恨んでいるか。

忘れたか。

それとも——


あの秋から、二十八年が経っていた。


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