第四章 八日間の距離── 二〇四一年三月二十三日〜三十日 ── 一
沢田麻里子が調査会社の名刺を持ってきたのは、三月二十三日の朝だった。
「弊社が顧問契約を結んでいる興信所です。信頼できる筋です」
彼女はそれだけ言って、名刺をデスクに置いた。「桐岡総合調査事務所」。港区赤坂に事務所を構える、創業三十年の老舗だ。
桐嶋は名刺を裏返した。
「費用は?」
「着手金三十万、成果報酬は状況によりますが、今回の案件ならおそらく五十万以内かと」
「手配してくれ」
沢田は頷き、それ以上何も言わなかった。
しかし部屋を出る際、一瞬だけ——ほんの一瞬、振り返った。それが何を意味するのか、桐嶋には分かった。長年働いてきた秘書は、今の指示が仕事上の案件でないことを、もちろん知っている。
扉が閉まった。
桐嶋は窓の外を見た。三月の丸の内は、光の中にいた。
朝倉なつき。
今はどんな名前で、どんな街で、どんな朝を迎えているのか。
二
由紀子は、その朝も「ムコウガワ」を開かなかった。
三日連続で接続していなかった。理由は自分でも整理できていないが、あの夜以来、仮想の教室に戻ることへの躊躇いが、薄皮一枚分だけ、厚くなっていた。
あの質問をしたのは、自分だった。
「好きな人、いる?」
三十七年前には言えなかったことを、仮想の教室では口にした。そして相手は——「いる」と答えた。
それが誰に向けられた言葉なのか、由紀子には分からなかった。AIに向けられたものか。それとも——同じ空間にいた、生きた誰かに向けられたものか。
彩花は今日もパートに出ていた。
静かな部屋で、由紀子はテーブルの前に座り、湯飲みを両手で持って、冷めていく茶を飲んだ。割れた梅の湯飲みの代わりに出してきた、無地の白い器。母の形見は、もうない。
スマートフォンの通知に、「ムコウガワ」からのリマインダーが届いていた。
《三月三十一日をもって、実在人物照合エージェントの自動停止が行われます。現在のプロファイルを保存するには、本人同意書のアップロードが必要です》
由紀子は通知を閉じた。
保存しない、と決めていた。
あの夜の後では、なおさら。
しかし削除もしていなかった。
三
桐岡総合調査事務所の担当者・岩本から最初の中間報告が届いたのは、三月二十五日だった。
《朝倉なつき(現・朝倉由紀子)、昭和六十一年生まれ、五十四歳。高校時代に東京から名古屋へ転居の記録を確認。その後、大学進学、就職、婚姻(旧姓・福田)、離婚、再婚(松村)、再離婚を経て、現在は朝倉姓に戻り千葉県在住。詳細な住所については、次回報告にて》
桐嶋は、報告書を三度、読んだ。
名古屋。
三年の夏に転校した理由は、父の転勤。仮想のなつきが言っていた通りだった。
現在は朝倉姓。千葉県在住。
生きている。
当然といえば当然のことが、胸に響いた。三十七年間、どこかで「もしかすると」という不安を持ち続けていたことに、今更ながら気づいた。
「現・朝倉由紀子」という文字を、桐嶋は指でなぞった。
なつき、という名前は、変わっていなかった。旧名に戻った形で、今もそこにある。
桐嶋は、報告書をフォルダに閉じた。
次の報告を、待つことにした。
四
その夜、桐嶋はダイブした。
教室に入ると、なつきはいなかった。
席に、誰もいない。消しゴムと鉛筆だけが、机の上に置いてある。窓の外では夕陽が傾き、仮想の埃が光の筋の中を漂っている。
十分待った。
なつきは来なかった。
桐嶋は、その空席を長い間、見ていた。
由紀子が三日間接続していないことを、彼は知らない。ただ、いつもそこにいたはずの気配が、今夜はない。それだけが分かった。
彼はゆっくりと立ち上がり、教室の前に出た。黒板に、誰かが書いた数式が残っている。白墨の粉が落ちて、消えかけた文字が空気に混じっている。
「どこへ行ったんだ」
声に出すと、仮想の教室の空気がその言葉を静かに飲み込んだ。
誰も答えない。
三十七年前と、同じように。
五
三月二十六日。由紀子は、久しぶりに外に出た。
特に目的はなかった。ただ部屋にいると、スマートフォンが視界に入るたびに通知のことを考えてしまう。体を動かせば、少しは気が紛れると思った。
最寄り駅まで歩き、商店街を抜けて、公園のベンチに座った。三月の昼下がり、梅はもう散っていたが、桜の蕾がほころびかけていた。
こういう景色は、「ムコウガワ」の中にもある。
春の公園のシナリオ。桜の木の下を歩くだけのコンテンツ。しかし由紀子はそういうものには興味がなかった。彼女が選ぶのは、いつも二年B組の教室だけだった。
なぜかと問われれば——答えは単純だった。
あそこには「キリ」がいる。
AIが生成した、記憶の残像から作り上げた少年。それでも、あの斜め後ろの席の気配は——現実のどんな人間関係よりも、由紀子にとって「安全」だった。傷つけない。失望させない。去らない。
ただ、あの夜から、それが少し変わった。
「キリ」が生身の人間である可能性が、頭の中に引っかかっている。
そうだとすれば——安全ではなくなる。
由紀子は、ベンチから立ち上がった。
桜の蕾を一つ、眺めてから、歩き出した。
六
三月二十八日。岩本から最終報告が届いた。
《現住所:千葉県船橋市——》
桐嶋は、その行を読んで、フォルダを閉じた。
住所を知った。
それだけで、もう十分だった。いや、十分すぎた。
彼は立ち上がり、書棚の前に立って、背表紙を見るともなく見た。経済書、法律書、業界白書——三十年分の仕事の堆積。その中に、一九八四年の教室の気配は、どこにもない。
連絡する、という選択肢が、目の前にある。
住所も分かった。電話番号を調べることも、難しくない。
しかし——何を言う。
「高校の同級生です、今どうしていますか」。五十七歳の男が、三十七年ぶりに、探偵を使って調べた女性の自宅に連絡を取る。文章にすれば、それは明らかに、何かがおかしい。
桐嶋誠司は、二兆円の資産を動かす決断を毎日下している。しかし今夜、書棚の前で、彼は何も決断できなかった。
結局その夜も、ヘルメットを被った。
教室に入ると——今夜は、なつきがいた。
七
由紀子が「ムコウガワ」に接続したのは、四日ぶりだった。
削除しなかった。
三月三十一日まで、あと三日。
それまでに同意書を取得することは、現実的に不可能だ。だから三十一日になれば、「キリ」のプロファイルは自動的に凍結される。由紀子が何もしなくても、期限が全てを終わらせてくれる。
それでいい、と思っていた。
しかし四日間、接続しなかった間、由紀子は繰り返しあの夜のことを考えていた。「好きな人、いる?」という自分の問いと、「いる」という返答を。
最後に、もう一度だけ。
そう思って、接続した。
教室に入ると、キリがいた。
いつもの席で、窓の外を見ていた。
なつきが席につくと、キリが気づいて、振り返った。
「久しぶり」とキリが言った。
「うん」となつきが答えた。
それだけの言葉に、何かが——満ちていた。
八
その夜、ふたりは長い時間、同じ教室にいた。
なつきが問題集を解く。キリが窓の外を見る。夕陽が沈み、教室が薄暗くなる。
誰かが蛍光灯のスイッチを入れる——AIが生成した別の生徒の誰かが——白い光が教室を満たす。
「あのさ」
キリが言った。
「うん?」
「言えなかったことが、あって」
なつきの鉛筆が、止まった。
キリは、まだ窓の外を向いていた。その横顔が、蛍光灯の光の中で、白く浮き上がっていた。
「ずっと前から、言えなかった。言おうとするたびに、何かが邪魔をした。怖かったのかもしれない。言ってしまったら、何かが変わってしまう気がして」
由紀子は、動かなかった。
これは、AIの台詞ではない。
プロファイルにない言葉だ。
生きた誰かが、今、仮想の教室の中で——話している。
「変わっても、いいよ」
なつきが言った。
それもまた、プロファイルの外の言葉だった。
由紀子自身が、今、口にした。
「……そうか」
キリが、ゆっくりと振り返った。
その顔を、なつきは正面から見た。
三十七年前の教室に、今もいる少年の顔を。
どこかの街に生きている、五十代の誰かの、記憶の中にある十七歳の顔を。
「なつき」
「うん」
「俺は——」
そのとき、システムの通知が、両者の意識を静かに揺らした。
《接続時間が六時間を超えました。健康上の理由から、一時切断を推奨します》
仮想の教室が、ほんの一瞬、ちらついた。
キリの台詞は、宙に残ったまま、消えた。
ふたりは接続を切った——ほぼ同時に、それぞれの部屋で。
東京の夜と、船橋の夜が、別々の天井に広がっていた。
三月三十一日まで、あと三日。
言いかけた言葉が、また、届かなかった。




