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第五章 三月三十一日 終わりと、その先

三月三十一日の朝は、よく晴れていた。


桐嶋誠司は、いつもより一時間早く目が覚めた。

午前五時四十分。東の空が白みはじめ、高層マンションの窓に東京の夜明けが広がっていた。コーヒーを淹れる気にもなれず、桐嶋はソファに座って、ただ光が増していくのを見ていた。


今日の夜十二時で、「ムコウガワ」の実在人物照合エージェントは凍結される。

「なつき」が、消える。


消える、というのは正確ではない。プロファイルデータはサーバーに残る。ただ接続できなくなる。あの夕暮れの教室も、黒板消しを持った横顔も、「変わっても、いいよ」という声も——全て、凍りつく。


桐嶋は、岩本から届いた最終報告書のフォルダを開いた。

千葉県船橋市、という文字を見た。


今日だ、と思った。

今日でなければ、もう永遠にしない。



朝の船橋は静かだった。


由紀子は六時に目が覚め、洗濯物を干し、トーストを一枚食べた。

今日は特に予定がない。彩花は午後から友人と出かけると言っていた。


スマートフォンに、「ムコウガワ」からの最終通知が来ていた。

《本日二十四時をもって、実在人物照合エージェントの提供を終了します。ご利用ありがとうございました》


由紀子は通知を閉じ、アプリを開いた。

プロファイル管理画面の「キリ」のファイルを、見た。


削除ボタンに、指を置いた。


押さなかった。


今夜、最後にもう一度だけ接続して——それから、削除しよう。

そう決めた。


今日は外に出よう、と思った。

桜が咲きはじめているはずだった。



桐嶋が船橋に着いたのは、午前十一時過ぎだった。


電車で来た。タクシーでも車でもなく、普通の路線電車で。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、今日は誰かに運転させたくない気分だった。


駅を出ると、商店街があった。平日の午前、年配の夫婦が買い物袋を下げて歩いている。子供連れの母親。自転車で急ぐ配達員。東京とも、丸の内とも、全く違う時間が流れていた。


岩本の報告書には、マンションの棟番号まで記されていた。

そこへ向かう気は——なかった。


アポなしで押しかけることは、桐嶋にはできない。いや、すべきではない。五十七歳の分別というものが、それを止めていた。

ではなぜここまで来たのか。


答えは出なかった。ただ、同じ空気の中にいたかった。それだけだ。

子供じみている、と思った。しかし否定できなかった。


商店街を抜けると、小さな公園があった。桜の木が三本、満開に近かった。ベンチが二つ、どちらも空いていた。


桐嶋は、ベンチに座った。



由紀子が公園に来たのは、偶然だった。


いつも散歩で通る道の、いつもの公園だった。桜が咲いているのを朝から知っていて、今日は見に来ようと思っていた。それだけだ。


公園の入口で、ベンチに人が座っているのが見えた。

見知らぬ男性。スーツを着た、五十代か六十代の、背筋の真っ直ぐな男。桜を見上げているわけでもなく、スマートフォンを見ているわけでもなく、ただ静かに、前を向いて座っている。


由紀子は気にも留めなかった。

公園に入り、桜の木の下を歩いた。薄紅色の花びらが、風に乗って数枚、舞っていた。見上げると空が白く霞んで、その向こうに花の重なりがある。


もう一つのベンチに、由紀子は座った。


男性とは、五メートルほどの距離だった。


しばらく、それぞれが黙って、桜を見ていた。



桐嶋が気づいたのは、五分ほど経ってからだ。


隣のベンチに女性が座ったことには気づいていた。しかし視線を向ける気にはならなかった。ただ、風が変わったとき——花びらが舞う方向が変わったとき——ふと横を向いた。


五十代と思しき女性が、桜を見上げていた。

細い首筋。少し白いものが混じった、短くまとめた髪。穏やかな横顔。


桐嶋の視線が、そこで止まった。


なぜ止まったのか、説明できない。似ている、と思ったわけではない。三十七年の時間が積み重なった顔を、記憶の中の十七歳と重ねる術は、彼にはなかった。

ただ、何かが——空気の中に、あった。


女性が、ふと視線を落とした。膝の上に置いたスマートフォンを見た。そこに届いた何かを、読んでいた。


由紀子が受け取ったのは、「ムコウガワ」からのメッセージだった。


《同一空間内の他ユーザーから、コンタクトリクエストが届いています。承認しますか?》


由紀子の指が、止まった。


送ってきた。


「キリ」が——あの教室の誰かが——今日、送ってきた。



桐嶋は、スマートフォンを取り出したことに、自分でも驚いていた。


ここまで来て、何もできないまま帰るのか。それとも——


「ムコウガワ」のアプリを開いた。

コンタクトリクエストの画面を、また呼び出した。

第三章の夜から、ずっと下書きに残っていたそれを。


送信した。


指が動いてから、心臓が追いついた。


隣のベンチの女性が、スマートフォンを見ていた。

桐嶋は、前を向いた。

桜を、見た。


花びらが、また一枚、舞った。



由紀子は、承認ボタンの前で、長い時間止まっていた。


承認すれば、繋がる。

仮想の教室の外で、生身の言葉が届く。

三十七年前に言葉を交わせなかった誰かと、五十四歳の今、向き合うことになる。


怖い、と思った。

同時に——怖くない、とも思った。


不思議なことに、今この瞬間、由紀子はあまり迷っていなかった。

迷い続けた八日間の末に、何かが静かに決まっていた。


「変わっても、いいよ」と、自分は言った。仮想の教室の中で。

それは、「キリ」だけに向けた言葉ではなかったのかもしれない。


由紀子は、承認した。


数秒後、メッセージが届いた。


《はじめまして。いや、はじめてではないかもしれません。ムコウガワで、ご一緒していたと思います。突然で申し訳ありません。ただ、今日が最後だと思うと、どうしても送らずにはいられませんでした》


由紀子は、その文章を読んだ。

読み返した。


隣のベンチの男性が、スマートフォンを持ったまま、じっと前を向いていた。


由紀子は、その横顔を、見た。


スーツの背筋。白髪の混じった短い髪。落ち着いた目元——


心臓が、一拍、大きく打った。



桐嶋のスマートフォンに、返信が届いた。


《こちらこそ。ずっと気づいていました。気づいていて、怖くて、でも——今日、来てよかったです》


桐嶋は、その言葉を読んだ。

今日、来てよかった。


今日。


彼は顔を上げた。

隣のベンチの女性が——スマートフォンを膝に置いて——こちらを、見ていた。


目が合った。


三十七年という時間が、その二秒の中にあった。


どちらも、何も言わなかった。

言葉は、まだなかった。


ただ、桜の花びらが、ふたりの間を、ゆっくりと通り過ぎた。


九   エピローグ


内閣府の「デジタル社会適応審議会」の議事録には、後日こう記録された。


《委員・桐嶋誠司氏は、三月三十一日をもって同委員会を辞任。後任の人選を進める》


その理由を知る者は、委員会の中にいなかった。

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