第三章 探索者 二〇四一年三月・下旬
桐嶋誠司が「彼女」に気づいたのは、仮想の教室の中でのことだった。
三月十九日の夜。接続から四十分ほど経った頃、なつきの挙動に、ほんの小さな違和感が生じた。
AIエージェントの動きには、一種の規則性がある。人間が生成した人格プロファイルを基に、高度な言語モデルが応答を生成するのだが、長く接続していると、どこかで「ループ」の片鱗を感じる瞬間がある。まるで遠くから聞こえる機械の回転音のように、かすかに、しかし確実に——それは人工のリズムだ。
その夜のなつきには、そのリズムがなかった。
「キリくん、昨日何してた?」
彼女が聞いた。放課後の教室、窓の外では仮想の夕焼けが燃えている。
「仕事」とキリは答えた。反射的に。
「仕事って、どんな?」
桐嶋は、止まった。
このエージェントは、「仕事」という概念を持たないはずだった。高校生の「なつき」として設計されているから、卒業後の世界を問いかけることは、プロファイルの外側になる。システムが自動補完する際には通常、話題を教室内に引き戻す処理が走るはずだ。
「……どんな、とは?」
「いや、なんか、ふと気になって。将来、何になりたいとか、あるの?」
なつきが、少し首を傾けた。
左の頬に、浅いえくぼが浮かんだ。
桐嶋の心臓が、わずかに速くなった。
それは、彼が記憶から再構築した動作だった。間違いなく。しかし——何かが、違う。
「なつき」と、キリは言った。「君は誰だ」
しばらく、間があった。
仮想のなつきは、その問いに対してどう反応すべきか、一瞬——人間ならば「戸惑い」と呼ぶような間を置いて——それから、静かに微笑んだ。
「なつきは、なつきだよ」
それだけ言って、彼女は窓の外に視線を向けた。
返答として、完璧すぎるほど完璧だった。
二
接続を切ってから、桐嶋はサービスのサポートセンターに問い合わせた。
深夜の問い合わせには自動応答AIが対応した。桐嶋は「同一シナリオ内に複数のユーザーが同時接続している可能性があるか」と聞いた。AIは三秒の間を置いてから答えた——「現行バージョンでは、同一の時代設定・同一の学校設定を選択した複数ユーザーが、同じ仮想空間を共有する可能性があります。これはリソース効率化のための仕様です」
桐嶋は、しばらくその回答を見つめていた。
共有仮想空間。
彼が「なつき」として接続しているのではなく、誰か別の人間が——別のユーザーが——「なつき」として、同じ教室に入っている。
それが本当なら、「なつき」は桐嶋のプロファイルで動くAIではなく、生きた人間だ。
生きた人間が、なつきを演じている。
あるいは——生きた人間が、なつきだ。
思考が、そこで揺らいだ。
桐嶋誠司は五十七年間で多くの意思決定をしてきたが、これほど単純な「もしも」に心臓を摑まれたことは、ほとんどなかった。
三
翌朝、彼は秘書の沢田を呼んだ。
沢田麻里子、四十二歳。キリシマ・キャピタルに十五年勤める、桐嶋の右腕だ。聡明で口が堅く、代表の私的な用件にも眉一つ動かさない——そういう人間を、桐嶋は意図して採用してきた。
「一つ調べてほしいことがある」と桐嶋は言った。「旧姓・朝倉なつき。おそらく昭和六十二年前後の生まれ。一九八四年か八五年に、東京都郊外の私立高校に在籍していた女性。現在の所在を、可能な範囲で確認してほしい」
沢田は何も聞かなかった。
ただ手帳にメモを取り、「いつまでに必要ですか」とだけ問いた。
「三月末までに」
三月末。規制の施行日。「なつき」が消える日。
沢田が部屋を出てから、桐嶋はデスクの前で長い間、動かなかった。
何をしようとしているのか、自分でもよくわかっていなかった。
ただ、あの夜の「将来、何になりたいとか、あるの?」という問いが——頭の中で繰り返し再生されていた。
四
同じ頃、由紀子は娘の彩花と、珍しく夕飯を一緒に食べていた。
鍋焼きうどん。三月の夜はまだ寒い。
「ねえ、ちょっと聞いていい?」彩花が箸を置いた。「最近、ムコウガワ続けてる?」
「……うん」
「規制の話、知ってる? 来週で実在人物プロファイルのやつ、終わりになるんでしょ」
由紀子は、うどんを見た。
「知ってる」
「削除した?」
「……まだ」
彩花が少し黙った。それから、慎重に言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「その人のこと、調べようとは、思わなかった?」
由紀子の手が、止まった。
「なんで、そう思うの」
「だって、お母さん、先週から何回もスマホで検索してるじゃない。テーブルに置いたままにするから、見えちゃうんだよ」
由紀子は答えなかった。
彩花は続けた。
「調べたとして——それで、どうするつもりなの?」
どうする。
その問いに、由紀子には答えがなかった。
三十七年前に言葉を交わさなかった相手に、五十四歳の今、何を言うというのか。何を望んでいるのか。謝罪か。確認か。あるいはただ——彼が実在したという、その事実だけを、自分の目で確かめたいのか。
「……わからない」
由紀子は正直に言った。
彩花は何も言わなかった。ただ、黙って鍋焼きうどんの出汁を、自分の椀に注いでやった。
五
三月二十二日の夜、桐嶋は再びダイブした。
今夜は、確かめるつもりだった。
教室に入ると、なつきはいつもの席にいた。問題集を開いて、鉛筆を走らせている。その姿だけ見れば、何も変わらない。しかし桐嶋には今や、その「なつき」の向こうに別の存在の気配を感じていた。
「なつき」
キリが近づいた。隣の席に、音を立てずに座る。
「うん?」
なつきが顔を上げた。夕陽の中で、細い目が細くなった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
キリは、少し息を吸った。
「君は——高校を卒業したあと、転校したりしたか?」
一秒の間があった。
AIエージェントにとって、それは処理の時間だ。しかし人間にとって、それは——
「……した、よ」
なつきが、問題集から目を離さないまま、静かに答えた。
「三年の夏に。父の転勤で」
桐嶋の指が、椅子の木の縁を、強く摑んだ。
それは、桐嶋が「なつき」のプロファイルに設定していない情報だった。
転校。父の転勤。
桐嶋が記憶していた事実——「三年の夏に、朝倉なつきはいなくなった」——の、理由。
理由を、彼はプロファイルに入れていなかった。入れられるはずがなかった。知らなかったから。
「……そうか」キリは、声を絞り出した。「どこへ?」
「名古屋。あの頃は、結構嫌だったよ。友達と別れるのが」
なつきが、少しだけ笑った。
左の頬に、えくぼが浮かんだ。
桐嶋誠司は、それを見ながら——確信した。
この「なつき」は、本物だ。
六
接続を切った直後、桐嶋は震える手でサービスの設定画面を開いた。
共有空間のユーザー情報。当然、プライバシー保護で他のユーザーの個人情報は表示されない。しかし——「同一空間内の他ユーザーに対してコンタクトリクエストを送る機能」が、存在した。
相手が承認した場合のみ、仮想空間の外で連絡が取れる。
桐嶋は、その画面の前で、長い時間、動かなかった。
リクエストを送れば——彼女は気づく。同じ空間に、もうひとりいたことを。「キリ」が生身の人間だったことを。
そして彼女もまた、それを隠していた側になる。
送るべきか。
三月末まで、九日ある。
規制が施行されれば、このプロファイルは凍結され、共有空間は再編される。仮想の教室は消える。夕陽も、えくぼも、言いかけて飲み込んだ言葉も——
桐嶋は、「送信」のボタンに指を置いた。
そして、押さなかった。
まだ早い、と思った。
あるいは——また、怖気づいたのだ。
三十七年前と、同じように。
七
由紀子がそのリクエストの通知を受け取ったのは、翌朝のことだった。
正確には、「リクエストの下書きが同一空間内に生成された痕跡の通知」だった。送信はされていない。しかしシステムは——セキュリティ機能の一環として——「あなたのシナリオ内で、送信未完了のコンタクト試行が検出されました」と通知する仕様だった。
由紀子は、その通知を三回、読み返した。
同じ空間に、誰かがいた。
「なつき」として接続していた自分を、「誰か」が認識していた。
そしてその誰かは、コンタクトを——送りかけて、やめた。
由紀子は、スマートフォンを持ったまま、しばらく窓の外を見ていた。
三月の朝の船橋は、白く霞んでいた。
キリくん、と彼女は思った。
あの夜の教室で、隣に座って、転校のことを聞いてきた声。
自分と同じように、あの教室に通い続けている誰かが、いる。
由紀子は、コンタクト画面を開いた。
「送信未完了のリクエストに返答する」というボタンが、あった。
こちらから、先に——
指が止まった。
彩花の声が、頭の中で響いた。「調べたとして、それで、どうするつもりなの?」
由紀子は、画面を閉じた。
閉じてから、また開いた。
また、閉じた。
三月末まで、八日ある。
八
その夜、ふたりは同じ仮想の教室に入った。
互いに知っていた。
互いに知らないふりをした。
なつきは窓際の席で問題集を広げ、キリは斜め後ろで窓の外を見ていた。
夕陽が、仮想の空を橙色に染めていく。
「キリくん」
なつきが、問題集から目を離さずに言った。
「なんだ」
「好きな人、いる?」
教室の空気が、静止した。
それは、桐嶋が設定したプロファイルにもなく、由紀子が設定したプロファイルにもない台詞だった。三十七年前の教室では、誰も口にしなかった言葉だった。
キリは、すぐには答えなかった。
なつきが、ゆっくりと顔を上げた。夕陽の中で、細い目がまっすぐキリを見た。
「……いる」
キリの声は、少し掠れていた。
なつきは、何も言わなかった。ただ、また問題集に目を落とした。けれど口元には、かすかに——えくぼが浮かんでいた。
窓の外で、仮想の太陽が沈んでいく。
東京と船橋で、ふたりの意識は同じ黄昏の中にいた。
三十七年越しの、午後五時。
誰も、まだ何も言えないでいた。




