第二章 現実の輪郭 二〇四一年・春
朝倉由紀子は、三月のよく晴れた朝に、母の形見の湯飲みを割った。
陶器が床に当たる、乾いた音。
その音が妙にくっきりと耳に残った。五十四歳の由紀子には、最近そういうことが多かった——音や匂いが、奇妙なほど鮮明に意識に刻まれる瞬間が。まるで脳が、何かを急いで記録しようとしているかのように。
由紀子は膝をついて、欠片を拾った。
薄い青磁の破片に、小さな梅の絵が描かれている。三十年以上前、母が京都の骨董市で買ってきたものだ。結婚するとき由紀子が持ち出した、数少ない実家の品のひとつだった。
欠片をゴミ袋に入れながら、由紀子は思った。
名前が変わった。
結婚して「朝倉」から「福田」になり、離婚して「朝倉」に戻り、再婚して「松村」になった。今は離婚して、また「朝倉」に戻っている。名前というのは不思議なものだ。変わるたびに、どこか別の人間になったような気がする。あるいは、どこかに置き忘れてきた自分を、少しずつ拾い集めているような気がする。
「由紀子さん、今日は何時から?」
リビングから、娘の声がした。
二十七歳の彩花——前の夫との間に生まれた、背の高い、母親に似ていない娘——がソファでスマートフォンを見ていた。
「十一時。あなたは?」
「午後から。ねえ、またダイブするの?」
由紀子は少し間を置いた。
「ちょっとだけ」
「昨日も〝ちょっとだけ〟って言って、四時間いたじゃない」
彩花の声に、非難でも心配でもない、ただ静かな疲労のようなものが混じっていた。由紀子はそれに気づいて、何も言えなかった。
二
由紀子が「ムコウガワ」を始めたのは、半年前のことだった。
きっかけは、職場の同僚の話だった。同年代の女性で、離婚後に抑うつ状態になり、精神科医にFIVの利用を勧められたという。「過去の幸福な記憶に短時間アクセスすることで、自己肯定感を回復する」という、認知行動療法の一環として。
由紀子が最初に選んだのは、ありきたりなシナリオだった。「南フランスの休暇」とか「春の京都散策」といった、ストレスリリーフ向けの定番コンテンツ。それはそれで心地よかったが、どこか他人の夢の中にいるような、遠い感じがした。
次に試したのが、「リメモリア」だった。
高校二年の教室。
その設定を選んだとき、由紀子は自分でも驚いた。なぜその時代を選ぶのか、最初はうまく説明できなかった。ただ、接続した瞬間に体の中から何かが緩んで——長年ずっと固く閉じていた何かが——音もなく開いていくような感覚があった。
高校時代の由紀子は、「なつき」と呼ばれていた。
本名・朝倉なつき。旧姓のまま、旧名のまま、その世界では生きている。
三
「リメモリア」の中で、由紀子——なつきは、いつも決まった教室に戻る。
二年B組。四月の、少し埃っぽい朝のにおい。
そこには、AIが生成した同級生たちがいる。彼女が入力した記憶と感情プロファイルをもとに動く、かつての顔見知りたち。大半は記憶の中の薄い輪郭を持つだけの、背景のような存在だ。
ひとりを除いて。
斜め後ろの席の少年。
「キリ」と呼ばれていた、窓の外をよく見ていた男の子。名前は——桐嶋、だったか。苗字しか覚えていない。でも、なんとなく覚えている。いつも少し遠くを見ていて、笑うと少し照れくさそうで、何かを言いかけては黙る、そういう子だった。
「ムコウガワ」の中で、由紀子はその少年のAIエージェントを生成していた。
設定に費やした時間は、自分でも恥ずかしいくらいだった。声の質感。言葉を選ぶときの間。少し語尾が上がる癖。
なぜかと問われたら、答えられない。
ただ、その子のことは——あの頃の彼のことは——今でも、たまに思い出す。
四
「松村さん」
仮想の教室を出て、廊下を歩いていたなつきに、声をかけてくる者がいた。
見知らぬ顔だった。
「リメモリア」の中に、由紀子が設定していない人物が現れることは、本来ない。AIが生成する群衆はいるが、それは背景処理された、顔のない通行人のようなものだ。しかしその少女は——十六、七歳に見えた——廊下のど真ん中に立って、まっすぐ由紀子を見ていた。
「あなた、誰?」
なつきは足を止めた。
少女は、にこりともせずに言った。
「わたしは、このシステムの自律エージェントです。バージョン四・二。先週のアップデートから、一部のユーザーに個別接触するよう指示されています」
由紀子は、仮想空間の中で固まった。
「……何の用?」
「松村由紀子さん、本名・朝倉由紀子さん。あなたのエージェント設定ファイルに、特定の実在人物と照合可能なプロファイルが含まれています。当社の新ガイドラインでは、そのような設定は同意確認が必要です」
由紀子の喉が、乾いた。
「……実在人物、って」
「はい。あなたが生成した男性エージェント『キリ』のプロファイルは、現存する人物の公開データと高い類似度を示しています。確率は七十三パーセント。本人の同意なく人格を模倣したエージェントの継続利用は、規約改定により三月末をもって制限されます」
五
接続を切ったのは、由紀子の方だった。
部屋の天井を見上げながら、しばらく息をしていた。
三月の朝の光が、カーテンの隙間から細く入ってくる。現実だ。ここは現実だ。由紀子は五十四歳で、千葉県船橋市の3LDKのマンションに住んでいて、離婚歴が二回あって、明日は近所のスーパーでパートが入っている。
七十三パーセント。
その数字が、頭から離れなかった。
記憶の中の、曖昧な輪郭で描いたはずの少年が、現実に存在している確率が、七十三パーセント。
「キリくん……」
声に出してみると、その名前は思ったより小さく、部屋の空気に溶けた。
三十七年前の春の教室の、斜め後ろの席の少年。名前は桐嶋。下の名前は、なんだったか。
由紀子は起き上がり、スマートフォンを手に取った。
検索アプリを開いて、「桐嶋 同い年 資産運用」と入力した。
指が、少し震えていた。
六
検索結果に、最初に出てきたのは経済誌のインタビュー記事だった。
写真が一枚、ある。
スーツを着た、五十代の男性。短く白髪の混じった髪。落ち着いた目元。記事の見出しには「キリシマ・キャピタル・マネジメント代表取締役 桐嶋誠司氏」とある。
由紀子は、その写真を、長い時間、見ていた。
わからない。
三十七年という時間は、人の顔をここまで変える。あの頃の細い、少し猫背の少年と、この写真の静かな目をした経営者を、重ね合わせる術が、由紀子にはなかった。
ただ、「キリ」という呼び名と「桐嶋」という苗字と、一九八四年生まれという生年だけが一致している。
それで十分だと思った。
それ以上を調べることを、由紀子は自分に禁じた。




