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第一章 春の残像

接続時刻、二〇四一年三月十四日、午後十一時四十七分。


桐嶋誠司は、いつものように書斎の革張りのリクライニングチェアに身を沈め、ニューロリンク端末のヘルメットを被った。五十七歳の身体は、この一連の動作にすっかり馴染んでいた。まるで就寝前の歯磨きと同じくらい、当たり前の習慣として。


部屋の照明が自動的に落ちる。

わずか〇・三秒後、意識は滑らかに別の場所へと——移行する。


彼が最初に感じるのは、いつも匂いだった。

夏草と土の混じった、あの懐かしい匂い。東京の郊外、かつて存在した私立高校の、プールの裏手の空き地の匂い。そこに立った瞬間、桐嶋誠司は五十七歳の自分を脱皮する。制服の詰め衿が首に触れ、十七歳の体は細く、軽く、どこまでも可能性に満ちている。



現実の桐嶋誠司は、東京・丸の内に本社を置く資産運用会社「キリシマ・キャピタル・マネジメント」の代表取締役である。運用資産残高は二兆円を超え、業界では知らぬ者のない名前だ。五十代半ばで業界の頂点に立ち、経済誌の表紙を飾り、政府の金融審議会の委員も務める。

傍から見れば、完璧な人生だった。


しかし妻の由香里とは七年前に離婚し、息子の蓮は今やシンガポールに在住で、正月も帰ってこない。都内の高層マンションの最上階、百三十平米の空間に、桐嶋はひとりで住んでいた。

週に三日から四日、彼はダイブする。

業界用語では「フルイマーション」と呼ばれる、脳神経直結型の仮想現実体験——通称「FIVフィブ」だ。二〇三八年に商用化されたこの技術は、三年の間に驚くべき速度で普及した。医療用リハビリから観光体験、果ては臨死体験の模擬まで、その用途は無限に広がっている。


だが桐嶋が繰り返し選ぶのは、ただひとつのシナリオだった。


「リメモリア:青春再構築プログラム」——

愛称、『ムコウガワ(Mukogawa)』。



仮想空間の中で、桐嶋誠司は「キリ」と呼ばれている。

クラスは二年B組。担任は恰幅のいい数学教師の三浦先生。廊下を歩けば、見知った顔が手を振る。彼らは皆、AIが生成した人格体——桐嶋が三十年以上前の高校時代の記憶と、卒業アルバムの写真から再構築した、かつての同級生たちだ。


倫理上、推奨されない手法だということは、桐嶋も知っている。

サービス利用規約の第十七条には、「実在する第三者の人格を模倣したAIエージェントの生成は、当該人物の明示的な同意を要する」と明記されている。だが規約の穴は、誰もが知っていた。「記憶に基づく主観的再構築」という名目であれば、法的グレーゾーンに滑り込める。本人の顔写真さえ使わなければ——あくまで「印象」として入力すれば——審査は通過する。

桐嶋はそのグレーゾーンを、精密に、几帳面に、利用していた。


彼が目的としているのは、ひとりの人物だ。


朝倉なつき。


二年B組の席順で、桐嶋の斜め前に座っていた少女。細い首筋と、いつも少し髪のはねていた後頭部。笑うと左の頬だけにできた、浅いえくぼ。好きだと告げることができないまま、高校三年の夏を最後に、彼女は転校してしまった。

住所も電話番号も、最後まで聞けなかった。

SNSが存在しなかった時代の話だ。



「キリくん、聞いてる?」


仮想の朝倉なつきが、黒板消しを片手に振り返る。

夕方の教室。掃除当番の時間。傾いた陽射しが黄色く染める、埃っぽい空気。


桐嶋——いや、キリは、我に返ったように頷いた。

「ごめん、ちょっと考え事してた」

「また? キリくんって、いっつもどこか遠いとこ見てるよね」


なつきが苦笑する。その仕草が——あまりにも、リアルだった。


AIが生成したこの「朝倉なつき」は、桐嶋が記憶と断片的な情報から丁寧に設計した人格プロファイルを基に動いている。声の質感は当時の彼女に近い音域に設定し、口癖のパターンも記憶の中から抽出した。笑い方も、少し首を傾ける癖も。

しかし本物ではない。

桐嶋はそれを知っている。

知っていても——構わないと思ってしまっている自分が、ここにいる。



午前三時に接続を切ると、桐嶋の身体は重かった。

三時間以上、ダイブしていたことになる。明日は午前八時から取締役会議があった。


シャワーを浴びながら、彼は窓の外の夜景を見ていた。東京の光の海。この街のどこかに、本物の朝倉なつきは——いや、今は違う姓になっているかもしれない——存在しているのだろうか。あるいは、もうこの世にいないのか。


わからない。

調べようと思えば、調べられる。今の技術と彼の財力があれば、顔認証データベースと戸籍情報へのアクセスは、さほど難しくない。しかし桐嶋は、それをしなかった。

する必要が、なくなってしまったからかもしれない。


仮想の彼女は、いつも教室にいる。

夕暮れの中で黒板消しを持ち、少し首を傾けて微笑む、十七歳のままの朝倉なつきが。



翌朝、キリシマ・キャピタル・マネジメントの会議室で、桐嶋は完璧に機能した。

欧州市場の変動リスクに関する報告を聞きながら、的確な指示を出した。新興国への投資比率の見直しを提案し、リスクヘッジの戦略を修正した。誰の目にも、彼は冴えわたっていた。


「代表、少しよろしいですか」

会議の後、最年長の執行役員・田原が声をかけてきた。六十二歳、キリシマ・キャピタルの創業期からの功臣だ。

「なんだ」

「……最近、顔色がよくないように見えます。失礼を承知で申し上げますが、眠れていますか?」


桐嶋は一瞬、止まった。

「問題ない」と、彼は言った。「よく眠れている」


それは、嘘ではなかった。

ただし、眠っていたのは現実の布団の中ではなく、一九八四年設定の仮想の教室の、木製の椅子の上だったのだが。



同じ年、内閣府の「デジタル社会適応審議会」では、フルイマーション依存症に関する初の実態調査報告書が提出されていた。


報告書には、こう記されていた。


《過去三年間で、FIV関連のサービスを週四日以上利用するユーザーは全体の十八・七パーセントに達した。そのうち「過去体験再構築型」シナリオの利用者は五十代以上の男性に集中しており、全体の六十三・二パーセントを占める。長期利用者の二十一パーセントに、現実生活における対人関係の著しい低下が確認されている》


審議会の委員の一人として出席した桐嶋誠司は、その数字を見ながら——自分がその「二十一パーセント」に属しているかどうか——静かに、客観的に、考えた。


結論は出なかった。

あるいは、出したくなかったのかもしれない。



その夜も、彼はダイブした。


教室の窓から見える、仮想の夕空は橙色に燃えていた。

なつきが、隣の席で問題集を広げている。消しゴムで字を消す、かさかさした音。鉛筆の芯が折れて、小さく「あ」と声を上げる。


「なつき」

キリは、彼女の名前を呼んだ。

なつきが顔を上げる。夕陽の中で、左の頬にえくぼが浮かんだ。


「……なに?」


言えなかった言葉が、のどの奥にある。三十七年前に言えなかった、たった一言が。

それを言うために、彼はここに来る。

けれどいざその瞬間になると、いつも何かが止める。

言ってしまえば——この世界は、終わってしまうような気がして。


「……なんでもない」

また、今夜も言えなかった。


なつきは少し不思議そうな顔をして、また問題集に視線を戻した。

桐嶋誠司は、五十七歳の心と十七歳の体で、ただその横顔を見ていた。


窓の外では、仮想の太陽がゆっくりと沈んでいく。

現実では、二〇四一年の東京の夜が、深まっていた。

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