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幼馴染みの婚約者が、「学生時代は心から愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。

作者: 灯乃

前作『養豚農家のおっさんだった令嬢が、「あなたを愛せない」と泣く婚約者を育ててみた。』が思いのほか好評だったので、違うおっさんで流行ネタを書いてみました。

 エドウィージュ・ラスペード子爵令嬢には、七歳のときに定められた同い年の婚約者がいる。

 シュザン伯爵家の三男、ブリューノ・シュザンだ。

 幼い頃から互いの家を行き来する関係であった彼に対し、エドウィージュはごく自然に親愛の情を抱いていた。

 同い年とはいえ、心の成長というのは女子のほうが早いものだ。

 友人たちとやんちゃをするブリューノを、エドウィージュは半ば呆れながらもほほえましく眺めていたし、揃って貴族の子女が通う聖マリオン学園に通いはじめたときには、当然のように学業のフォローもしてきた。

 どうにも学業が苦手らしい彼に、過度の期待を掛けるつもりはないけれど、未来の夫があまりにもおばかさんでは困ってしまう。


 ブリューノは、名門伯爵家の末っ子三男だ。

 天真爛漫で大らかな気質は、生まれ持った彼の美徳と言えるだろう。

 そんな気質に加え、母親の伯爵夫人によく似た明るい栗毛と、水色の瞳の華やかな容姿をしていることもあってか、ブリューノは家族からかなり甘やかされているようだ。

 彼がエドウィージュに、面倒なレポートの代筆を頼んできたときには、さすがに少々驚いた。そのときはにっこり笑って「退学になりたいんですの?」と諫めてやったが、あちらの家風に倣ってのこととはいえ、少々彼を甘やかしすぎてしまったか――と、反省していた頃のこと。


 聖マリオン学園の中庭には、学生たちがランチタイムを楽しめるよう、四人がけの丸テーブルがゆったりとした配置で設えられている。

 そのうちのひとつで、親しい友人たちと語らっていたエドウィージュに、いつもと変わらない明るい笑顔でブリューノが声を掛けてきた。


「やあ、エドウィージュ。今、少し時間をもらっても構わないかな?」


 その呼びかけに振り返った彼女は、婚約者の様子を見て少なからず困惑してしまう。


「もちろん、構いませんが……。あの、ブリューノさま。そちらの方は……?」


 なぜならブリューノはひとりではなく、その左腕には見知らぬ女生徒の腕がしっかりと絡みついていたのである。

 その女生徒は胸元のリボンの色からして、第二学年の生徒のようだ。

 今年揃って十七歳になるエドウィージュとブリューノは、第三学年。

 つまり一年後輩であるわけだが、その胸部装甲が実に豊かだ。

 エドウィージュの胸元もそれほど貧相なほうではないのだが、彼女の制服のブラウスを押し上げるそれの迫力は、下品にならないようなドレスを作るのが大変そうだな、と同情してしまうほどである。


 そんな立派な胸部装甲を、婚約者のいる男子生徒の腕に形が変わるほど押しつけているのだ。

 眉をひそめた友人たちは嫌悪感を隠していないし、もちろんエドウィージュも「何を考えていらっしゃるのかしら、この方」と呆れてしまう。

 だが、ブリューノは女性陣の剣呑な空気を気にも留めず、いつも通りの朗らかな口調でけろりと言った。


「紹介するよ。彼女は、コレット・マルベール。俺の可愛い恋人だ」

「………………は?」


 そのときぽかんとしてしまったのは、特段エドウィージュの言語理解力が劣っているからではないだろう。

 人間というのは、あまりにも想定外な事態に遭遇すると、なかなか頭が動いてくれないものらしい。

 何度か呼吸を整え、現れたときからずっと地面に視線を落としたままのコレットを、改めてじっくりと見つめてみる。

 ふわふわとした明るい栗毛は、ブリューノのそれよりも柔らかそうだ。丸みを帯びた頬のラインに、淡い桃色に染めたぷっくりとした唇が、彼女を十六歳という年齢よりも幼く見せている。

 長い睫毛に縁取られた茶色の目は大きく垂れ目がちで、なんとも庇護欲をそそる風情の少女だ。

 エドウィージュは、感心した。


(なんというか……これでもか! とばかりに、男性が好む年下女性像の要素を詰め合わせたような方ですわね。こういう女性がブリューノさまのお好みなのでしたら、わたしは完全に守備範囲外だったということですか。なるほど、なるほど)


 癖のない黒髪に藍色の瞳を持つ彼女は、十七歳ながら凜とした雰囲気の大人びた少女だ。美しいと褒められることは多々あれど、彼女を可愛らしいと評するのは家族くらいのものである。

 エドウィージュはラスペード子爵家の総領娘として、幼い頃からそれに相応しい教育を徹底的に施されてきた。

 洗練された立ち居振る舞いはもちろん、領地経営に必要な知識や領民たちとの関わり方、近隣の領主たちとの付き合い方。学ばなければならないことは、本当に寝る暇もないほど多岐にわたるものだった。


 何しろエドウィージュの生家であるラスペード子爵家は、数年前に隣国からの新たな街道が領内を通るようになった結果、その経済効果で今や年間納税額国内トップ二十に入っているのだ。

 幸いなことに、父である現ラスペード子爵は非常に好奇心旺盛、かつ豪放磊落な質で、領内を行き交う商人たちと妙に馬が合うらしい。貴族らしからぬ貪欲さで彼らから多くのことを学びながら、隣国で最も栄えている商人都市に視察に行っては、領内の開発事業にそこで得た知識を役立てている。

 ひとり娘であるエドウィージュも、幼い頃からそういった場によく連れていかれた。

 学園を卒業したらすぐに複数の開発計画に加わることになっているし、今はそのために必要な外国語と経済学、経営学、法学を学んでいる最中だ。


 女性の身ではあっても、後継者であるエドウィージュがしっかりと立っている以上、ラスペード子爵家の今後に不安はない。

 十年前、まだ七歳だったエドウィージュの婚約者に、自らの末っ子三男をねじ込むことに成功したシュザン伯爵は、実に先見の明がある御仁だと思う。

 ――なのに、その婚約者当人が『コレ』とは、なんともお気の毒なことだ。


「いずれ俺は、きみと結婚する。そのことに文句があるわけじゃないんだ。ただその前に、学生時代くらいは、心から愛する相手と自由に過ごしたいんだよ。いいだろう? エドウィージュ」


 自分の要請を、当然のようにエドウィージュが受け入れるだろうと思っているブリューノの態度に、なんだか頭が痛くなってきた。

 たしかに彼の生家は伯爵家であり、子爵家から見れば格上である。

 しかし今や、その財力差は天と地だ。

 そのうえ、生家に健康な嫡男とスペアの次男までいる末っ子三男と、いずれ子爵家の当主となる総領娘であれば、どちらに選ぶ権利があるかは明白だろう。

 どうにかため息を噛み殺したエドウィージュは、にこりと笑って口を開いた。


「そういうことでしたら、わたしたちの婚約は解消いたしましょう。わたしもブリューノさまに倣って、心からお慕いできる殿方を探そうと思います」

「……え?」


 きょとんと目を丸くしたブリューノに、彼女は続ける。


「今まで考えたこともなかったのですけれど、心からお慕いする殿方と過ごす時間というのは、とても素晴らしいものだと聞きますもの。なんだか、楽しみになって参りましたわ」


 コロコロと笑って言うと、ブリューノがひどく焦った顔になった。


「ぇ……え? なんで? きみは、俺の婚約者だろう?」

「残念ながら、今はまだその通りですわね」


 どこまでもにこやかに答えれば、彼はますます狼狽したようだ。


「残念って……。きみは俺のことが好きじゃないのか!?」

「あなたの恋人を紹介されるまでは、それなりに親愛の情は抱いておりましたわよ? ですが、こんなにも堂々と浮気を宣言されてしまいますとねえ……」


 ふぅ、とわざとらしくため息を吐く。


「わたし、浮気性の殿方は好みではありませんの。あなたをお慕いする気持ちなど、一瞬で冷え切ってしまいましたわ。すぐに父に願って婚約解消の手続きをしてもらいますから、あなたはどうぞそちらの女性と、末永くお付き合いくださいな」


 エドウィージュの宣言に、そんな、と震える声を零したのは、コレットだった。

 大きな瞳を潤ませた彼女が、ブリューノの腕にしがみついたまま、ひたとエドウィージュを見つめてくる。


「あの、エドウィージュさま……! 私はただ、ブリューノさまを心からお慕いしてしまっただけなんです! おふたりの婚約を解消していただきたいだとか、そんなことはまったく考えていなくて……!」

「あら。でしたら、なぜこれほど多くの人々の注目が集まる場で、堂々とブリューノさまとの交際宣言をなさったのかしら。こんなことをされて、わたしがどれほど不愉快な思いをするか、想像することもできませんの?」


 実際のところ、非常に不愉快だったのはたしかだが、エドウィージュは怒っているわけではない。

 ただ単純に、不思議だった。

 首を傾げたエドウィージュの問いかけに、コレットが縋るようにブリューノを見上げる。それを受け、少しの間視線を彷徨わせた彼が、掠れた声で口を開いた。


「……大勢の前できみにお願いすれば、これからコレットと堂々と仲よくしても、周囲から責められることはないと、思って……」

「あら。つまり、おふたりはわたし公認の恋人同士である、ということを、周囲のみなさまに喧伝したかった、と。それなのに、わたしが婚約解消などと言い出すものだから、とても驚いていらっしゃる――という認識でよろしいかしら?」


 両手の指先を触れ合わせながら重ねて問うと、ふたりは揃ってぎこちなく頷く。

 それからくっと眉根を寄せたブリューノが、不満げな視線を向けてきた。


「だってきみは、ずっと俺のことを好きだったじゃないか。なのに、こんなことでいきなり婚約を解消するだなんて、いくらなんでもひどくないか?」

「……あの、失礼ですけどブリューノさま。あなた、ご自分が先にわたしを裏切ったことを、理解していらっしゃいます? ひどいのは、婚約者のいる身でほかの女性に目移りをしたあなたであって、一方的にその事実を突きつけられたわたしではありません」


 呆れかえったエドウィージュは、でも、と顔を歪めて言いかけたブリューノを制して告げる。


「わたしは今まで、婚約者であるあなたと良好な関係を築いていけるよう、努力してきたつもりです。だからこそ、あなたもわたしがあなたに好意を抱いていると信じていらしたのでしょう? そんなわたしの努力と気持ちと尊厳を踏みにじっておきながら、なぜ婚約を継続できるとお思いになるのかしら」


 カッと頬を染めたブリューノが、声を荒らげる。


「……っだから! コレットとは、学生の間だけの関係だって言っているだろう!? なぜきみは、それくらいのことを許容できないんだ!?」

「許容する必要がないからですわ」


 え、とブリューノが目を見開いた。


「ねえ、ブリューノさま。人間には、二種類あるのですって。浮気をできるタイプと、決してできないタイプ。そして、浮気をできるタイプの方は、何度でも浮気を繰り返すのだとか」


 残念です、とエドウィージュはため息を吐く。


「わたしは、夫となる方には誠実であっていただきたいの。浮気や裏切りをする方に、そばにいていただきたいとは思いません。――どうぞ、お引き取りを。これ以上、あなたとお話しすることはございません」

「なんで、そんなことを言うんだよ! 俺は絶対に、婚約解消なんてしないからな!」


 癇癪を起こしたブリューノに、エドウィージュは思わず笑ってしまった。


「ブリューノさま。さすがにそれは、恋人と腕を組みながら言うことではございませんわね」

「うるさい、うるさい! コレットは、俺の理想の恋人なんだ! きみとの婚約はどうせ政略的なものなんだから、黙って俺の言うことを聞いていろよ!」


 だったら、その理想の恋人と理想の夫婦になればいいではないか。

 周囲の視線が気になるところではあるけれど、先に喧嘩を売ってきたのはブリューノのほうだ。こちらが多少反撃をしても、文句を言われる筋合いはないだろう。

 すっと笑みを消したエドウィージュは、冷ややかな視線で婚約者を見た。


「少々、認識の相違がございますわね。ブリューノさま。あなたはこの一件を、単なる色恋沙汰による痴情のもつれだとでも考えていらっしゃるのかしら。だとしたら、非常に考えが甘すぎると断じざるを得ませんわ」

「は……?」


 今まで婚約者に対して、これほど突き放すような言い方をしたことはない。

 ひどく驚いた顔をしている彼に、エドウィージュは淡々と続ける。


「あなたは自ら、ご自分が簡単にわたしの信頼を裏切ることができる、信じるに値しない殿方であることを証明されたのですよ。そんなあなたを、我がラスペード子爵家の婿に迎えることに、いったいなんのメリットがあるというのです?」

「メ……メリット?」


 ええ、とエドウィージュは頷く。


「わたしはいずれ子爵家を継ぐ総領娘。あなたは名門シュザン伯爵家の方ではいらっしゃいますけれど、受け継ぐ爵位もない三男です。そんなあなたを婿としてお迎えしたところで、我が家にどんなメリットがあるとお思いですの?」

「そ……それは、我が家の後ろ盾が……」

「それは、さほどメリットとは言えませんわね。現在、我が家が展開している事業の規模は、シュザン伯爵家のそれを遙かに凌駕していますもの」


 絶句するブリューノは、本当に自分たちの家の財力差をまるで理解していなかったらしい。

 世間知らずにもほどがある、と呆れながらエドウィージュは彼に問いかける。


「先ほどあなたは、学生時代くらい自由にお過ごしになりたい、とおっしゃいましたわね。あなたにとって学生時代とは、なんの努力もせず責任も負わず、ただ可愛らしい恋人と甘い日々を過ごせる日々、という意味なのかしら。そんな自堕落で無能な殿方を婿に迎えるなど、赤字の確定した投資話に全財産をつぎ込むようなものではありませんか」


 面と向かって侮辱されたブリューノの顔が、赤く染まる。

 今まで、これほど失礼な物言いをされたことなどないのだろう。本当に、どこまでも甘やかされたお坊ちゃま。


(まあ、かく言うわたしも彼を甘やかした人間のひとりではあるのですけれど)


 ひとつ息を吐き、エドウィージュは続けた。


「わたしが今まであなたに何も求めてこなかったのは、あなたの助力がなくとも家を継ぐ覚悟があったからです。あなたの明るく大らかな人柄は、嫌いではありませんでしたしね。いずれ夫となったあなたが、わたしに誠実に寄り添ってくださるのであれば、それでよかった」


 けれど、とブリューノとコレットを順に見てから、小さく笑う。


「あなたはわたしを浮気という形で裏切ったうえ、笑ってそれを受け入れろと言い放った。これほどわたし自身を軽視され、愚弄されたのははじめてです。……改めて、申し上げますわね。どうぞ、お引き取りを。あなたの顔など、もう二度と見たくありません」


 ――その後、早退して自宅に戻ったエドウィージュは、まっすぐに父の執務室へ向かい、事の次第をぶちまけた。

 一通り娘の話を聞いた父は、パァン! と景気よく膝を叩いて頷く。


「よし、わかった! おまえと浮気男の婚約なんぞ、すぐに解消だ!」

「ありがとうございます、お父さま。ブリューノさまの浮気については、いくらでも証言してくださる方がいらっしゃいますから、問題なく先方の監督責任を追及できると思いますわ」


 実に話が早いが、それも当然といえよう。

 今や、この国有数の資産家であるラスペード子爵家。その総領娘である彼女は、おそらく現在この国で唯一、自らの意思で結婚相手を選べる未婚の貴族女性なのである。

 財力と強運はときに、身分の格差をも超越するのだ。


 とはいえ、エドウィージュは将来の結婚相手について、『自分の仕事の邪魔をせず、安心して留守を任せられる』という以外のことを求めてはいなかった。

 だからこそ、顔と家柄以外取り柄のないブリューノが婚約者でも、特に気にすることはなかったのだ。

 いそいそと婚約解消に必要な書類を整え出す父の頼もしさに安堵しつつ、エドウィージュはなんとなくこの十年間のことを思い出す。

 これほど長い間、婚約者同士であったのである。

 少しは彼とのいい思い出もあったかもしれない、と思ったのだが――。


(……びっくりするほど、何もありませんわね)


 ブリューノのやんちゃでわがままな少年時代に、彼を上手に宥める伯爵家の人々のやり方を見覚え、それを踏襲してしまったからなのだろうか。

 エドウィージュの記憶の中で、彼はいつでも子どもっぽくて、ひたすら甘やかして機嫌を取る相手でしかなかった。

 この十年、自分は赤の他人の子守に無駄な時間を費やしていたのかと思うと、遠いところを眺めたくなる。


 それと同時に、少しだけわかった気がした。

 ブリューノにとって、家族と同じやり方で甘やかしてくれるエドウィージュは、恐らく『何をしても必ず許し、愛してくれる相手』だったのだ。

 だからこそ、あんな馬鹿馬鹿しいやり方で浮気相手の存在を見せつけてきたのだろう。

 エドウィージュならば、どんなわがままを言っても笑って許してくれると信じていたから。

 ――本当に、なんて愚かなのか。

 ほんの幼い頃ならまだしも、成人間近の十七歳にもなって、そんな甘ったれた幻想に浸ったままでいただなんて。

 そっと、ため息を吐く。


(シュザン伯爵家側は、まず間違いなく婚約の継続を望むでしょうし……。これからしばらく、騒がしくなるかもしれませんわね)


 そんな彼女の予想通り、その日の夕刻にはシュザン伯爵夫妻が揃って息子の非礼を詫びに飛んできて、婚約の継続を懇願してきた。

 彼らにとっては、溺愛して育てた三男が最上級の婿入り先を失うか否かの瀬戸際なのだ。必死になる気持ちもわからなくはないけれど、彼らが失敗した子育てのツケを、こちらが支払わなければならない理由はない。

 丁重に、辛抱強く、そして断固として断り続けた結果、一ヶ月もの交渉期間を経てエドウィージュとブリューノの婚約は無事に解消された。

 本来ならば、先方から慰謝料を受け取ってもいいケースだろうが、ラスペード子爵家は敢えてそれを請求しなかった。ただでさえ意気消沈しているシュザン伯爵をこれ以上追い詰めては、無駄な敵意を煽りかねない。


 なんにせよ、無事にブリューノとの縁切りに成功したエドウィージュは、その晩ぐっすりと心地よい眠りに就いた。

 そして、翌朝目を覚ました彼女の頭には――なぜか、前世の自分が都市開発計画にも携わる大手ゼネコンに勤める、社畜のおっさんであった記憶が「ヘイ!」と甦っていたのである。

 ぐちゃぐちゃになった脳内情報が整理され、改めて正しく現状認識をしたエドウィージュは、思いきり自画自賛した。


(ああぁああっっ!! 婚約者が将来役立たずのヒモまっしぐらな浮気野郎だとわかった瞬間、即損切りをしたわたし! めちゃくちゃぐっじょぶですわー! そして、わたしをとんでもない形で侮辱してくださったブリューノさま! 直接伝えて差し上げられないのが、とてもとても残念ですが……!)


 肩から胸元に流れる艶やかな黒髪をぐっと握りしめ、エドウィージュは脳内で目一杯叫んだ。


(今まで多くの同胞の頭皮の変遷を見てきたおっさんが、断言いたします! あなたは、間違いなく! 将来、生え際からハゲるタイプですわー!)


 ……まあ、そういうことである。

 幸いなことに、うら若き乙女であるエドウィージュにとって、今のところハゲの恐怖は無縁のものだ。

 父親の頭髪にも今のところ不安の影は見えないし、むしろアレは総髪のまま白髪になって素敵なロマンスグレーになっていくタイプである。脳内のおっさんが「妬ましいッ!」と叫んでいるが、娘としては父はハゲよりロマンスグレーであるほうがありがたいので、おっさんには黙っていてもらおう。


 とはいえ、女性であっても過度のストレスでハゲることはあるというし、あまり油断するわけにはいかない。

 改めて、今の自分にとって最大のストレス源になりそうだった元婚約者との縁が、すでに切れていることにほっとする。

 あんな浮気性の顔だけ男との婚約を継続していたなら、近い将来本当にハゲていたかもしれないのだ。なんと恐ろしい。


 内心ガクブルしながらのろのろと着替えたものの、時計を見ればまだ早朝というにも早い時間だ。朝日を浴びた庭の様子がいつも以上に美しく見えて、エドウィージュは久し振りに散策してみることにする。

 外に出れば、まだ少しひんやりとした空気が心地よい。

 目を閉じて深呼吸した彼女の耳に、なじみ深い控えめな声が届いた。


「――おはようございます、お嬢さま。あまり、お眠りになれなかったのですか?」


 気遣わしげな口調に振り向けば、そこにいたのはエドウィージュが幼い頃から、この屋敷の従僕として働いていた青年だ。

 名前は、リュカ・ミストラル。

 その優秀さを父に見込まれ、二十一歳の若さで従僕から執事補へ異例の出世をした彼は、今や父の片腕としてこの家になくてはならない存在となっている。

 褐色の髪と瞳を持つ彼はブリューノのような華やかさこそないものの、その端正に整った容貌は充分に女性の目を惹くものだ。


 一瞬、自分の中のおっさんが「チッ、このふっさふさのイケメンが。爆ぜろ!」とやさぐれたのを感じたが、リュカは非常に頼りになる父の側近である。主従で似るものなのか、彼の頭髪も将来は素敵なロマンスグレーになっていくタイプだ。素晴らしい。

 エドウィージュはにこりと笑って、口を開いた。


「いいえ。とてもよく眠れたものだから、いつもより早く目が覚めてしまったみたい。――不思議ね、リュカ。今日はとても、世界がきれいに見えるの」


 そうですか、とリュカがほっとした様子で息を吐く。


「それは、よかったです。……お気持ちが、楽になられたのですね」


 その声にどこか憐れむ響きを感じて、エドウィージュは首を傾げた。


「ねえ、リュカ。ひょっとしてあなた、わたしが今回の婚約解消騒ぎで傷ついたとでも思っているの? だとしたら、とんでもない思い違いよ。わたしは今、とてもスッキリしているの。あんな浮気性の殿方とのご縁が切れた幸運に、感謝すらしているのよ」


 心底楽しげに言う彼女が、決して強がっているわけではないとわかったのだろう。

 リュカが、少し戸惑った顔をした。


「お嬢さまは……ブリューノさまを、お慕いしていたのではないのですか?」

「んー……。お慕いする努力は、していたわね。円満な夫婦関係を築くためには、それが最善の方法だと思っていたから」


 努力、と呟く彼に、エドウィージュは苦笑する。


「でも、ダメね。殿方をお慕いする気持ちというのは、努力でどうにかなるものではないみたい。わたしは結局最後まで、あの方のことを手の掛かる子どものようにしか見ることができなかったわ」

「……そう、なのですか」


 リュカがひどく複雑な表情を浮かべたところを見ると、どうやら気を遣わせてしまったらしい。

 申し訳なく思ったエドウィージュは、悪戯っぽく笑ってみせた。


「でも、いいの。わたしは、まだ十七歳なのですもの。これから理想の旦那さまを探しはじめたって、遅すぎるということはないわよね?」


 その問いかけに、リュカが思いのほか真剣な眼差しで問い返してくる。


「お嬢さまの理想の旦那さまとは、どのような方なのですか?」

「……そうねえ」


 何も考えていなかったエドウィージュは、答えに悩んでしまう。

 少しの間頭を捻り、ひとつ頷く。


「初恋もまだの身で、理想の殿方を語るほうが間違っていたわね。よくわからないわ」

「そ、そうですか……」


 思いきり拍子抜けした様子のリュカに、笑って問う。


「リュカは? 今、お付き合いしている女性はいるの?」

「は!? あ、いえ、そんなお相手と出会う暇もありませんし……」


 珍しく声をひっくり返したリュカが、ぼそぼそと言いながら目を逸らす。

 エドウィージュは、なんだか不安になった。

 脳内で虚ろな目をした社畜のおっさんが、「休暇……休暇って、なんだっけ……?」と笑いながら、くるくるとピルエットを踊り出す。


「ひょっとして、お父さまがあなたにお仕事を押しつけ過ぎているのかしら? まさか、休息日をきちんともらえていないの?」

「いえ。旦那さまは、きちんと休息日を確保してくださっていますよ。ご安心ください」


 リュカがそう言うのならば、大丈夫なのだろう。

 そう言えば、と彼が口を開く。


「ずっとご自宅で謹慎されていたブリューノさまですが、昨日付で学園を退学されたそうですよ」

「あら、そうなの?」


 あの浮気宣言のあと、学園ではかなり噂が広がっていた。

 被害者であるエドウィージュには同情的な視線を向けられるばかりだったが、ブリューノとコレットにとってかなり厳しい状況であったことは想像に難くない。

 実際、ふたりはすぐに登校してこなくなり、噂も次第に鎮静化していった。


「あのようなことを、平気でなさるような方ですもの。ほとぼりが冷めた頃に、何事もなかった顔をして登校されるかと思っていたわ」

「そうですね。ただ、謹慎中にご友人方からも批判されたり、縁を切られたりすることが重なったそうで……。それで、すっかり意気消沈されてしまったようです」


 まあ、とエドウィージュは苦笑する。

 ブリューノは幼い頃から、友人関係をとても大切にしていた。

 だが、どれほど一緒にバカ騒ぎをしていた友人であろうと、必ず大人になっていく。そんな中で、いつまでも夢見がちな子どもままだったのが、ブリューノだったのだろう。


 そしてコレットは、遠方の商家の後添いに入ることが決まったと聞く。

 あれほどの醜聞を起こした令嬢だ。

 まっとうな嫁ぎ先を望むことは難しいだろうと思っていたが、たとえ父親のような年齢の相手だろうと、正妻に納まれるのであれば上出来だろう。


(報告書によれば、あの方はブリューノさまの愛人の座を狙って、あのようなことをしたらしいですけれど……。入り婿の愛人って、立場がものすごく不安定よね。本当に、何を考えていたのかしら)


 ――心底不思議に思うエドウィージュは、彼女の常日頃からブリューノを甘やかしている姿が、『婚約者にベタぼれで、何をしても笑って許す健気な令嬢』という噂を生んでいたことを、まるで知らなかった。


「お嬢さま」

「なあに? リュカ」


 ふと改まった声で呼ばれ、首を傾げる。

 そんな彼女に、リュカは言う。


「私は今まで、あなたがこのラスペード子爵家を継ぐために、どれほど努力してきたかを知っています。本当に……心から尊敬しております」


 そのとき、脳内のおっさんが「はぅ……っ」と胸を押さえてうずくまった。

 社畜にとって、『努力を正しく認めてもらえる』というのは、とてつもないご褒美なのである。


「あ……ありがとう」


 震えそうになる声でどうにか礼を述べると、彼は少し緊張した面持ちで口を開いた。


「お嬢さま。……私では、いけませんか?」


 リュカの瞳が、まっすぐに自分を見つめている。


「将来、この家を支えて立つあなたを隣で支えるのが、私ではいけませんか?」

「リュカ……?」


 今まで当たり前のようにそばにいた彼が、まるで違う人に見えた。


「ずっと、諦めようと思っていたんです。あなたには、立派な家柄の婚約者がいらしたから。けれど――」


 リュカの瞳が、切なげに揺らぐ。


「あなたを、お慕いしています」


 なんということだろう。

 先ほどの衝撃で完全に乙女化していたおっさんが、「推しイケメンのマジ告白キター!! ステキ抱いて!!」と不思議な光る棒を振り回して、激しく踊っている。

 しっちゃかめっちゃかな脳内に一瞬気が遠くなりそうになったが、今は断じて気絶していい場面ではない。

 エドウィージュは、素早く脳内で情報を整理した。


(リュカは元々、財政的に困窮した男爵家から奉公に出されて我が家に来たのよね? わざわざ適当な貴族の養子になってから婿入りしてもらわなくても、周囲からよけいな横やりを入れられる心配はない、と。お仕事のサポート能力については、文句なしのパーフェクト。性格も穏やかで、ブリューノさまとは正反対。怒ったお父さまの恐ろしさを誰よりも知っている以上、浮気の心配もなし。……あら。もしかしなくてもリュカってば、とっても素敵な旦那さまになれるのではないかしら)


 五秒で脳内情報を整理した彼女は、胸の前できゅっと右手を握り、顔を上げる。


「……わたしで、いいの?」

「あなたが、いいんです」


 迷わず答えてくれた彼におそるおそる右手を差し出すと、少し冷たくて長い指がそれをすくい取った。

 目を伏せた彼が、軽く指先に口づける。

 途端に、ぶわぁっと頬が熱くなり、心臓がばくばくと脈打ちはじめた。

 こんな感覚は、知らない。

 リュカの睫毛が、朝日を弾いてきれいだと思う。

 世界とは、こんなにも眩しく美しかっただろうか。


「リュ……リュカ。わたし……」


 一瞬、「こういうとき、どんな顔をしたらいいのかわからないの」というセリフが脳内に浮かんだが、これは間違いなくアウトだ。

 脳内で悶え転がるおっさんをねじ伏せ、エドウィージュは掠れた声でリュカに言う。


「はじめての恋をするなら、あなたがいいわ」

「……光栄です。お嬢さま」


 リュカの笑顔に撃ち抜かれた心臓が、一瞬止まりそうになる。

 脳内のおっさんは、すでに灰になっていた。


おっさんが最後に踊っているのは、サイリウムをぶん回すオタ芸です。

運動神経はよかったようです。

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― 新着の感想 ―
ハンサムウーマンで理性的かつ論理的なヒロインに(*^^*)ヲタでハゲで乙女な社畜オッサンが良いアクセントになってw大変美味しぅございました(*´∀`*)尸" 生まれてスグに灰に成ったオッサンが不死鳥…
オタ芸披露するほど満喫した後で大手ゼネコン入りすかー。 このおっさん、ただ者ではない(なかった)。元から乙女回路搭載してたんだったりしてw 以下は気になる点。 トップ20入りってなんかビミョー…
主人公の毅然とした態度は好きでしたので面白かったです。 面白かったけどおじさん要素の意味がほぼなかったのが残念でした。 別におじさん蘇らなくてもそのままで十分対処できたことしか起きていない。 おじさん…
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