昭和の酔拳 日本フライ級チャンピオン 花田陽一郎
利き腕の中指を欠損している花田はパンチが軽いというボクサーとしては致命的なハンデを背負っている。九十三勝のうちKOは一度しかないにもかかわらず、十五年にもわたって日本チャンピオンに君臨し、不動の人気を得ることができたのは、ファンが喜ぶ派手な打ちあいはなくとも、変幻自在のテクニックで観客を酔わせることができたからに他ならない。ハードパンチャーのみに人気が集中しがちな今日の日本のボクシング界は、相手を幻惑するような芸術的なフットワークと防御技術を持ったボクサーを育てることができないことの裏返しとも言えそうだ。
花田陽一郎は右手中指が欠損している。これはボクサーとしては致命的なハンディである。カウンターでダウンは奪えても、防戦一方の相手にとどめを刺せるほどのナックアウトパンチがないのだ。それでいて特別打たれ強いわけでもないとなれば、拳の世界で生きてゆくにはどうにも心もとない。
その代わり、彼には天性のスピードがあった。後の世界チャンピオン白井義男さえ凌ぐフットワークは、とても戦前のボクサーの及ぶところではなく、スピードが主体のフライ級において十五年以上の長きに渡って一線級に君臨できたのは、打ち合いを捨てて足を使うボクシングに徹したからだ。
昭和七年に帝拳に入門した花田は筋が良くセンスも抜群だったが、非力であるがゆえに帝拳幹部の意向で中々プロデビューさせてもらえなかった。ようやくゴーサインが出たのは昭和八年十月の明治神宮大会で大学選手権者の小倉潤(明治大学)に勝ち、アマチュア日本一に輝いてからだ。
花田の名が関係者の間で広く知れ渡るきっかけとなったのが、昭和九年一月二十九日の長谷川義弘戦だった。この試合は二ラウンドまでにノーカウントのダウンを二度も奪った花田が一方的にリードしていたが、張り切りすぎたか終盤にガス欠し、逆に六度ものダウンを喫してしまう(結果は六ラウンド引き分け)。
疲労困憊の花田は、エイトカウントまでゆっくり休もうと腕枕をして横たわっていたところ、この人を食った態度が大評判になり、「ずうずうしい男」「図太い男」「面白い男」など様々な形容詞をつけられた。もっともボクシングの方はさすがにアマチュアチャンピオンだけあって一級品のテクニシャンで、デビューから一年一ヶ月後の昭和九年十二月二十五日、全日本フライ級王者決定戦で伊藤勇に判定勝ちし、十九歳三ヶ月の若さでチャンピオンの座に就いた。
紅顔の美少年だった花田人気は急騰し、昭和十一年四月には玄海男とマニラに遠征した。白バイが先導するオープンカーで市内をパレードするなど、現地でも大歓迎を受けたが、リトル・ダドとの東洋選手権は僅差の判定負けでタイトル奪取はならなかった。
当代きっての人気者だけに試合のオファーは山ほどあったが、対戦相手の調達が間に合わず、一階級や二階級上のボクサーと戦うのも日常茶飯事だった。これほどのハンディキャップマッチでも滅多に負けなかったのは、飛燕のスピードがあったからで、KOシーンが見られなくとも、フライ級の花田が中量級のボクサーを翻弄する姿にファンは熱狂したのだ。『今牛若丸』の綽名は、大男の弁慶を手玉に取る牛若丸に花田の姿をオーバーラップさせたものだ。
非力さをカバーするために、相手を誘ってカウンターを狙うのが花田のスタイルだった。ロープ際まで追い詰められたところで逆襲に転じる展開が多かったため、中には警戒しすぎて花田がロープを背にしたところで動きが止まってしまい、双方のにらみ合いが続くというシーンも見られた。
KOパンチがないぶん、ムハマド・アリやシュガー・レイ・レナードが時折見せた相手をおちょくったようなパフォーマンスでファンの注目を浴びていた花田だったが、江戸っ子気質できっぷのいい男前ということもあって老若男女まで幅広い支持を得ていた。今日とは違いボクシングが野蛮なスポーツと見られていた時代に森永乳業の広告塔を務めていたのは、一般大衆にまで彼の人気が浸透していた証といえるだろう。
飲む、打つ、買うの三拍子揃った遊び人だった花田は、過密スケジュールの影響もあってか、昭和十六年頃からは負けが込み始めた。翌十七年七月九日、日比谷公会堂で亀田豊相手に引退興行を行い(十ラウンド判定勝ち)一度はリングを去ったが、戦後レフェリーをやっている時に選手の死亡事故に遭遇し、レフェリーにも嫌気が差してきた。「まだ選手の方がマシだ」と考え直すと、戦後のボクシングブームに煽られるようにリングに復帰した。
偶然ではあるが、再起戦の相手も引退試合の時と同じ亀田豊だった。昭和二十一年四月二十一日のことである。
戦後間もない頃、進駐軍兵士に日本人女性が襲われているところに通りかかった花田は、五人の大男相手にたった一人で向かってゆき、全員をナックアウトした武勇伝を持つ。直接的なリング復帰の要因ではないにせよ、この
出来事がまだリングでも十分に戦えるという自信の元になったことは想像に難くない。
すでに三十歳になっていたが、戦中、戦後の厳しい時代の中、クリーンライフを余儀なくされたおかげで再び身体のキレを取り戻し、連戦連勝。昭和二十二年九月一日、長沢秀夫との間で争われた全日本フライ級王座決定戦に勝利するまで復帰後負けなしの二十三連勝を記録した。この中には後の世界チャンピオン白井義男を一方的に下した星も含まれる。
昭和十三年以降、日本選手権が行われなかったため花田が実質的な選手権者であるままタイトルは宙に浮いていたが、戦後初の選手権でも花田が勝利したため、日本フライ級チャンピオンという肩書きは昭和九年以来、ずっと花田が独占してきたことになる。
戦後も花田の快進撃は続く。タイトルを奪取した九日後に武藤鏡一に判定負けして連勝をストップされた直後の九月十九日にはピストン堀口の最大のライバルである日本ライト級チャンピオン笹崎僙と引き分けてファンを仰天させている。笹崎とは翌年も現役王者同士で対戦してまたしても引き分けを演じているが、戦後は一勝二引き分けと堀口を圧倒している三階級上の強打者でさえ、花田のディフェンスを突き破ることが出来なかったのだ。
圧巻だったのはこの頃、京都の草試合で対戦した小林太郎との一戦で、この日は花田と小林のダブルメインエベントが用意されていたにもかかわらず、両者の対戦相手が会場に姿を現さなかったため、超満員の観客の手前もあって、急遽この二人による対戦が組まれることになった。小林は選手生活の晩年には十二連敗もしながらリングを降りなかった無類のボクシング好きで、不器用ながら十六勝中十五KOという典型的な一発屋だった。
当日の花田はバンタムウエイトでの契約だったが、いくら不器用といっても一撃で相手を倒す強打を秘めたミドル級ボクサーと一戦交えるなど無謀にも程がある。それも対策を立てる時間的余裕もなくいきなりである。仮に相手が前座ボクサーだったとしても、全盛期の山中慎介や井上尚弥でさえ絶対に対戦を拒んだだろう。
ところがショーマンシップが旺盛な花田はあっさりこの対戦を承諾したばかりか、得意のフットワークで小林の強打を完全に封じ、見事判定勝ちして見せたのである。
その他にも酒臭い息を吐きながらリングに上がりながら勝ってしまうなど、花田のリングでの奇談は枚挙に暇がない。実際、瓶ビールをラッパ飲みしながら花道を入場してきたこともある。
「宵越しの金は持たない」をモットーにしていた花田には、蓄財の才などこれっぽっちもなかったようで、若い頃から豪放磊落、ともすれば破滅的な生き方をしていたが、ボクサーとしては非常にクレバーで抜け目がなかった。三十歳を過ぎても軽量級きっての強豪でいられたのは、百戦錬磨のリングキャリアの中で、負けない狡猾なボクシングを身につけていたからだろう。
戦前以上の人気を博した花田は、連勝を止めた武藤に再戦で借りを返した後、昭和二十三年一月十六日、ついに軽量級最強の呼び声も高い堀口宏とのバンタム級タイトルマッチに挑むことになった。
ピストン堀口の実弟である宏は、兄譲りのラッシュ戦法を武器にめざましい活躍を続け、目下日本歴代二位の三十六連勝と波に乗る十九歳の日本バンタム級チャンピオンである。人気、実力ともにすでに兄を凌いでいると言われる堀口宏と未だ衰え知らずの今牛若丸の対戦は、戦前のピストン対笹崎戦に匹敵する好カードとして物凄い評判を呼んだ。
驚くべきことに花田は、堀口の果断なきラッシュをかいくぐっての十ラウンド判定勝ちで、堀口の破竹の連勝記録にピリオドを打ったのだ。フライ、バンタムの同時二階級制覇は日本ボクシング史上唯一の記録である。
三ヶ月後の再戦では堀口にタイトルを奪い返されたとはいえ、ラバーマッチでは再び十四連勝を続ける堀口と引き分けるなど、花田は三十三歳にしてなお軽量級のトップ選手であり続けた。
昭和二十四年一月二十八日、ついに老いたる牛若丸が五条大橋の欄干から転落する日がやってきた。
一年半ほど前に対戦した時は楽勝した相手である白井義男は、今やアルビン・カーン博士の科学的トレーニングのおかげで日進月歩の成長ぶりを見せていた。対する花田はと言えばヤミ酒場でカストリ酒を煽る習慣から抜け切れず、天性の素質だけで戦っていた。しかも今回は減量に失敗し、サウナで一気に絞り落としたためコンディションは最悪だった。
カーン博士が底冷えのする仮設国技館の控え室に電気ストーブと毛布まで持ち込んでくれたおかげで白井の動きは良く、さしもの花田も防戦一方だった。かくしてスタミナが切れた五ラウンドに白井のボディブローを浴びた花田はそのままカウントアウト。足掛け十五年にも及んだ日本フライ級王座に別れを告げた。
この両者は翌年五月、今度はバンタム級タイトルをかけて対戦している。前回の対戦から六勝〇敗(三KO)と勢いに乗る白井は、世界を狙える器として日本ボクシング界の頂点に君臨していたが、花田だけには一目置いていた。
三十四歳の花田は、白井に敗れてから心を入れ替えてトレーニングに励んだのか、十勝二敗四引分けとまだまだメインエベンターを張れるだけの実績を残していた。二つの黒星にしても、相手はフェザー級きっての強豪、ベビー・ゴステロとその最大のライバル後藤秀夫である。戦前から日本で暮らしているフィリピン人のゴステロは、日本ウエルター級現役王者の辰巳八郎にも勝っているように、階級は軽量級でありながら実質的な日本最強ボクサーだった。そのゴステロの全盛時代に対戦したのは花田には気の毒だった。
軽量級では抜群のスピードと強打を誇る白井も、ベストコンディションの牛若丸をとらえるのは至難の業だった。リベンジに燃える花田に勝つには勝ったが、前回のようなクリーンヒットは奪えず、接戦だった。
この一年半後には世界フライ級チャンピオン、ダド・マリノをノンタイトル戦でストップさせている昇り調子の白井を、数ヶ月後には三十五歳になる老雄が手こずらせるというのは常識では考えられない。おそらく観客のほとんどが白井のKOシーンを楽しみにしていたはずである。
そこでファンの期待を裏切る試合をしてみせるところが、負けん気の強い花田の花田たるところなのだろう。引退の前年には来日したダド・マリノのエキジビションの相手を務めているが、フライ級では白井以上の強打者として知られる現役の世界チャンピオンにも臆することがなかったのは、白井よりスピードが劣るマリノなら直撃弾を喰らわない自信があったに違いない。まさに怖いものなしである。
メインエベンターを退いた後も帝拳師範の傍らリングに上がっていた花田がようやく引退を決意したのは、昭和二十七年のことだ。その前年には後に東洋無敵と謳われる金子繁治と戦い、六勝一敗(五KO)のホープをあしらってみせた(六ラウンド判定勝ち)。
引退後はレフェリーの声もかかったが、「引退してリングを降りた以上は、リングにはもう戻らない」と固辞し、一時期は後楽園スタジアムの受付やタイムキーパーをしていた。
アメリカ仕込みの中村金雄を除けば、和製のテクニシャンとしては第一人者である花田は、昭和三十四年に『拳闘入門』という本を著しているが、自ら後継者の育成に関わることがなかったのは惜しまれる。
昭和四十一年四月二十四日、脳内出血で急逝した。まだ五十歳の若さだった。
通算戦績九十三勝三十七敗(一KO)二十七分は日本人ボクサー中第二位の試合数である。障害を抱えながら十代の頃から第一線でこれだけの試合数をこなしたにもかかわらず、引退後も饒舌で全く肉体的なダメージを受けてなさそうだったのは、現役中ほとんどクリーンヒットを浴びていないことの証である。
花田はパンチを当てさせないボクシングで観客を魅了した稀に見るディフェンスアーティストだった。
花田は呑ん兵衛であっても、泥酔して我を忘れるようなタイプではなく、いつも平然としていたという。酒好きでしかも先天的にアルコールに強かったので、一杯引っかけてリングに上がっても十分闘える自信があったのだろう。しかしフライ級の体格で節操なく飲み続ければ、いずれは健康を害することまでは予想だにしていなかった に違いない。牛若丸は酒で五条大橋から転落したのだ。