ブルーマシーン
寒くて静か、機械のうなる音だけが聞こえる。僕がコンピューター研究室に勤務した初日に感じたのは、ここは食材の入っていない冷蔵庫みたいだ、と思ったことだ。
職場に慣れた頃、僕はある異変に気づいた。
同僚で大学からの友人、三島葵が深夜まで地下室にいることだ。スマホを忘れて取りに帰ったとき、地下室から葵が出てきた。
葵はいつも着ていない作業着姿で、疲れた顔をしていた。
そして地下室が発光していた。それは一つの光ではない、無数のモニターが発光し重なっている。
地下室を見ると、九十年代の箱型のパソコンが積み上げられ、タワーになっていた。ブラウン管モニターは青白い光を発して、鈍い動きで数字を表示している。
「地下で何してたんだ?」
僕が驚いて言うと、葵はため息をついた。
「…………誰か、一人には話しておこうと思ってた。まぁ、あんたでいいか。秘密にしてくれる?」
葵はショートボブの髪を耳にかけて言った。
「あぁ、話してくれよ。僕でいいなら」
僕が答えると、葵は地下室に降りて行った。僕も後に続く。
古いPCが分解されマザーボードがいくつも積み重なっていた。タワーになった箱型のパソコンに繋がれたケーブルはビニールチューブで覆われている。赤、黒、緑と色分けされていて、なんとなく爆弾のコードを想起させた。
中央のテーブルに置かれたアルミのトランクに接続された太いケーブルが光って、情報を送っているようだ。
アルミケースの中には、古いマザーボードが敷き詰められていた。
「なんだよ、これ」
僕が訊くと、葵はマザーボードに繋がっているキーボードを叩き始めた。
「タイムマシーン、ブルーマシーンよ」
「は? なにそれ」
「このマザーボードは90年代のもの。電磁波耐性が高く、時空のゆらぎに強いの。新しいものより古いものがピッタリだった。だって私は過去に行きたいから」
葵が微笑んで話した。タイムマシーン、彼女はそんなものを作ろうなんて考える夢想家ではない。常に必要とされ、実行可能な仕事しかして来なかった。
しかし、彼女の憂いのある微笑みには心あたりがある。
最近、彼女は恋人を亡くした。自殺だった。
「このマザーボードはランダムな電子のゆらぎがある。そのゆらぎを行きたい年月日に設定した。タイムマシーンなんて作れないと思ったけど、ここにある廃棄物で作れてしまうなんてね。時間波へのパルス送信装置。なかなか我ながら名案よ」
「…………その、止めに行きたいのか。彼を助けに」
僕が言うと、葵は僕を無表情で見た。
「うん、そうだね。あの日、私は…………間違っていたから。間違いを正しに行く」
「その、彼の死を止められなかった、それは君のせいではないと思う。こんなたくさん機械を作って、君がそこまで追い詰められていたなんて。僕がよかったら、何があったか、話してくれ」
僕が言うと、葵はうつむいた。
「そうね。話しておきたい。この椅子、古いけど座って」
葵が青いデスクチェアを引きずってきた。葵は丸椅子に腰掛け、向かい合う体制になる。
「私の恋人、小野春樹は、心を病んでた。それは私のせいなの。私が彼の痛みを理解しなかった。彼はね、職場で男の上司から言葉のセクハラを受けていたのよ。まぁいわゆる男社会の下ネタでしょう、それぐらいのことでって私は言ってしまったの。男同士でセクハラなんて、と私は軽く見てた」
葵が目を伏せて話しながら、キーボードを打つ。
「ただ、わからなかった。わかろうとしなかった。私はセクハラや痴漢に遭ったことがない。それに男性はそういう下世話で性的な話を好むものと思ってた。でも、彼はとても繊細で…………たとえば、彼女といつ寝ただとか、そういう話題が嫌だった。嫌がる相手にはさらに言うものでしょう、そういう最低な男って。彼は職場の人にも相談したけれど、聞き流すようにしか言われなかった」
葵のキーボードを打つ音は激しくなった。
「ねぇ、聞き流すって、難しいよね、できないよね。そういう人がいることも、私は理解できなかった。彼が遺書でその苦しみを書いていた。言葉だけではなく、上司に体を触られていたことも。私は彼の両親に土下座した。私が、私がわかってあげられたら、と。彼の両親は私を責めなかった。あの時、彼が死ぬ前に電話に出なかったのに…………また職場の愚痴だからって、私が拒否したから」
「それは」僕の口は乾いて苦くなった。
「君のせいではないだろう。その上司のせいだ」
「そうかな。私は自殺のほとんどは他殺だと思う。私の無言が彼を殺した。遺書にはこう書かれていたわ。誰も苦しみをわかってくれず、辛かった、と」
葵が立ち上がり、部屋を見渡した。
「ようやく、完成した。さぁ、これが成功するかどうか、見届けて」
葵が笑った。
僕が初めて見た、葵の満面の笑みだった。
「そんな、ちょっと待ってくれ」
積まれたパソコンの画面が急速に動き、ケーブルが眩しい光を発して、僕は目がくらんだ。
※
タイムトラベルは成功した。
私は嘘をついた。
私は私が生まれた日に来ることができた。彼が死んだ日ではない。私は彼の自殺を止めるためにタイムマシーンを発明したんじゃない。
病院からは海が見える。秋の真っ青な空の日に私は産まれた。
黒の反対はブルーだと思う。
ブルーこそ何もかも飲み込む。だから私はタイムマシーンにブルーマシンと名前をつけた。私は作業着から看護婦の服に着替えて、赤子の自分をさらった。
思ったよりあっけなく自分をさらうことができた。
柔らかくて、ぎゅっと抱いたらもろもろに壊れてしまいそうだった。
私は私を抱いて、真っ青な海に行く。
九月の海は少し冷たい。
私は泣き始めた赤ん坊の私を抱きしめて、海に沈む。
すべてを無にしよう。
「葵、僕は秋の海が好きなんだ。ここの海辺のカフェ、すごくいいね。このシフォンケーキも美味しい。また、来ようね」
春樹はあの時、本当に嬉しそうだった。
「愛してるよ。お互い、仕事が落ち着いたらさ…………結婚しようね」
あの時合わせた春樹の額は、とても暖かかった。
「葵の凛としているところが好き。僕はすぐ感情的になってしまうから、君の意見で救われるんだ」
春樹はあの時、私を尊敬の目で見てくれた。
「ごめん、仕事の愚痴ばっかり。僕ってやっぱり、男らしくないよね。情けなくてごめん。男らしくならないと社会で生きていけないよね」
春樹はあの時、本当に苦しそうだった。
「いつもごめんね、愚痴ばっか…………こんな遅い時間に電話してごめん。ちょっと声が聞きたかったんだ。結婚しようって言ってたのに、僕が不甲斐なくてごめんなさい。君のことを、愛していたよ」
留守番電話に残っていた声は、とても落ち着いていた。謝罪と絶望の混じった声だった。
春樹はその電話のあとに死んだ。
電話に出て、私の声を聞いたら、死なずにいてくれた?
私が、私が存在しない世界になれば、春樹と付き合っているのが私みたいな無情な女でなければ、彼はきっと救われる。
春樹、私はね、凛としてなんかいない。
共感力の足りない女だった。
海底に沈む。
私は青に飲み込まれ、消える。
嘘をついて、ごめんね、さようなら。
※
「どうした? こんなところで」
僕は上司に声をかけられた。
気づくと眠っていたようだ。古いPCが保管された薄暗い倉庫で、僕はなぜここに来たのか思い出せない。
箱型の古いPC、ケーブル。すべて埃を被って機能していないのに、なぜかそれらが光輝いていたような気がした。
僕の頬に、涙がつたう。
「何か、とてもひどい嘘をつかれた気がする」




