表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ノストイ叙事詩環 − Sophía −  作者: NEXT
結:内にて
3/7

第三節『エトス』


 霊術とはエトス《信頼》である。信頼とはパトスの情熱に始まり、ロゴスの論理を前提とし、三項の帰結点として結ばれる倫理である。倫理とはロゴスによる定義と観測によって築かれる人の理、ロゴスを形を定める型、ないしは刃とすると、エトスはその刃で得られた実存の収穫物と等しい。それは、通説にはイデアと呼ばれたものであるが、実存の真偽───火の影などは、人の定義には依らぬものであろう。重要なのは『実存』と『本質』は等価であることである。発動、裁断、達成、動的構造として三者があり、どれもがそれぞれに当てはまる。これが定義や境界の限界だ。


 それ故、"なお在らねばならぬ"と果報に手を伸ばす、それこそがエトスである。倫理とは、全て境のあらぬ非情と冷酷の中に、なお火を生み人として暖をとる行為そのものだ。ならばこれが幻想であろうが、理想であろうが、人───存在としてある限りの最低限の規範である。無秩序の中の秩序とは、それすらが無秩序だろう。存在とは、矛盾の場に如何にして納得出来るだけの無矛盾を生むかであって、矛盾を見ぬことではない。故にエトスにはロゴスが不可欠であり、その大前提にパトスが宿る。然りて、三者三様ではなく三位一体であるからして、それを分けるなどとは本末転倒と、あるいはそれも永劫回帰の象徴であった。


 あまねく生命とは、やがて空へと還る。

 あるいは空とは、無限の有か、有限の無か。それは、各々にて問う者こそが内に答えを見出す。



 ◤ 1 ◢


 私はお前を待っていた。

 ソピアーの外縁、その門にて。


 かつて無かった椅子がそこにある。腰をかけて、遠目に一歩一歩を踏みしめてくるお前を見ていた。冷たい風が街路を流れて、風と共に無明の光景を背にお前が私の前に立った。お前は腰をかける私の姿を見ると、いつもより落ち着かないといった様子で、私の隣を通り過ぎ、門の扉に触れようとした。だがそこで、私は声をかけた。



「座るといい。冷たさはこの風で十分だ」



 座っていた椅子をお前に明け渡すと、気配の違いに困惑しながらもお前は腰をかけた。すると、緩やかだった風が段々と強くなり始めるが、私の衣は依然としてそのままであった。寧ろ、お前と私のいる場が同じなのに、何処か違う場に立っているような錯覚を覚える。腰をかけたまま門を上まで見渡して臨むと、何かが軋むような音が続いていることに気付いた。椅子か、門か、それとも世界が。何れにしても異様なほどの冷たさがこの場を満たしている。



「何故座った?」


「座れと言っただろう」


「その過程にすら多くがある」



 他者の発言に応答するにはまず聞き理解し、自己の現状を照合、可不可を判断し、相手の関係値に応じて応答の実行基準が変わる。だがそこに恣意的な意図、あるいは条件反射的無判断の従事すらが含まれる。だが今回、お前には明らかな意図が無かっただろう、ほとんど条件反射で深掘りすることなく行動に至った。ならその条件とは果たして何れからなるものか。利害の経験則、そこを根本として道徳的な価値観によるもの。ただし、利得と不得が釣り合っておらずとも行動する者はいる。そこまで行けば、人は道徳ではなく倫理を主軸とする証左になっている。



「お前にとって私は、

 無理従属するに足りる他者か?」


「そこまで貴方を知らない」



「ならば、"座る"という動作が

 お前の利になり得たか?」


「寒いここでは、それは無い」



「であれば、お前は道徳か、倫理の者か?」


「…座れと言われ、断る理由が無かった。

 無視するのは相手に失礼だと思った」



「それが実存の真意の深掘りだ」



 真意、ここでいう本質とは理念イデアによって形成される個々内在の価値にして、その理念に期待される筋道である。倫理とは理念であり、それが大まかに共用出来るものになったのが道徳という社会的普遍の秩序である。道徳に従うをそのまま理念とする者もいれば、道徳に牙を剥き己の倫理に従う者もいる。それは決して無秩序ではなく、個の秩序に従って群の秩序に立ち塞がっただけの話だ。道徳とは功利、倫理とは道理である。



「では、お前のその理念は何に"応じよ"と叫ぶ?」



 お前はこれまでになく顰めた顔をしていた。自らの動機の先、即ち自らに対して"応じるべき存在"という断定を起こさねばならぬ事実を突きつけられたからだ。エトスの観点において、裁断せし刃のロゴスを、暴力として肯定しなければならなかったのだ。これが存在として不可避の経路を物語る。パトス(動)によって駆動するロゴス(定義)によって刈り取り、エトス(結果)として写る。


 実存は全てこれを通るだろう。故に、お前がこれまでにも行ってきた通り、その価値は既に等価である。ただ、それを改めて認知してしまったが故に、お前の内在に起きる本質の変化が起こってしまっただけのことなのだ。



「…強いられなければならないなら、それは他者、他物、他の全てになるのかもしれない」



 私はその言葉に頷いた。それこそが実存に本質を見い出せる、ただ"在る者"の特権であったから。


 今この場に、雪が降り注ぎ始め、そして風も轟と強くなり始めた。空が白んでいた。お前の身には無地が降りかかり、今一度の再構築を迫り続ける。明晰な色を与えるならば、そうでなくてはならない。これまでの色を省き、なおこれまでの色に立ち戻ってこそ、それまでの色に意味があった。我々の関係性と共に、ここで洗い流そう。


 私の纏う黒の衣は依然として揺れず、白にも戻らない。お前の眼だけは雪に阻まれ、透いていた。




 ◤ 2 ◢



 私は淡々と、座るお前の前に近付いた。お前は違和感を覚える。自身の身に白みが急進するのに対して、私の衣が一切と雪の積み重ならぬ事に。また、揺さぶられぬ事に。



「お前は今、違和を感じた。


 それは己が理念の写した雪が、

 私を一塵も洗い流さなかったからだ」



 お前は雪の本質を見ていた。"これは白く染める"のだと。だが実存がそれに必ずしも答えるとは定まっていない。端的に、"染め上げられなかったのなら理由がある"と見たのなら、それが理念の揺らぎにして変容なのだ。"実存と本質は等価ではないのか"という疑問を浮かべたのなら、それもまた理念の揺らぎである。寧ろ、その揺らぎこそがロゴスの表れであり、事実と予感の不一致による苛立ちは、ロゴスがあった証明だった。


 だが言えば、確かに"本質"もまた"実存"の形態である。ただし、それはお前が理念を投影した当初の実存ではない。"お前が浮かべた本質こそが実存の一片"なのだ。故に本質とは、全体像そのものではない。全体像から汲み取っただけのものだ。



「イデアを天啓と呼ぶならば、その天啓は何処に現れたのか。それはお前の思考、主観に現れた。


 天啓が天啓と呼ばれるにあたって、信仰者はこれを神や超常からの流入と捉える。"与えられたものだ"と。


 では、どうやって現れた。どうやって与えられた?イデアを実存の前段階にある必然と捉える者はこの論を常に否定するだろう。────己が見たもの、聞いたもの、それら全てが蒸留する思索において、必然のように浮かび上がったものだ。


 ならばその信仰の根とは何か?まさに、理念に従うことだ。即ち、それが自律を重んじる信であれ、従属を重んじる信であれ、形態は常に後者にある。エトスとは、ある種の自己従属である」



「…それは、信者への冒涜になり得ないのか?」


「その"冒涜だ"と言い切ることこそ反証だと言えば、その者は他者忌避として構造を遠ざける。まさにそれが、理念というものの在り方だ。


 その者は恐らく、像を一度に全部を見ることしか出来まい。前後か左右か上下か。何れにしても、この言葉は"それら全て砕き直す"為にある」



 逆説的に、見たものと聞いたもの、あるいは触れたものが全てだったなら、倫理とは道徳にはなり得ないのかという疑問が浮かぶ。結論として、"至らない"とも"至っている"とも言えるが、これこそ"意味"が常に"外殻"でもある証。人は言語の意味を知って共有出来るが、地続きになっているだけであれば、言語の差異はまず起こらない。人は常に言語という外殻を通して、それを先人の言葉という外殻から学び、意味を模倣している。つまり道徳は言語であり、倫理はその模倣された意味とも、模倣された外殻とも呼べる。


 この時点で既に共有は出来ても共通はしていないということ。本質的には共有すら"共有されている"と信じているだけであり、それは方向性を示す舵であって、同一の帰着点でもない。



「なら、共感は幻想なのか?」


「幻想だと認知し、決定してしまえばそのままで終わる。だが共感は人の営みを越えて、生ける者の営みであることは、ここで私に問うているお前ならばもう分かっているはずだ。


 知った上で"幻想ではない"と言い切らねばならぬ。それが善き道徳を弁える上で要される項目の一つであることは確かであろう」



「知らされた。それでも信じなければならない。信仰とは、生きるとはそういうものなのか…」


「"在る"とは質の左右に無く、在るという事実だけだ。お前達はそれでも選ぶ他にない」



 読み取ろうとし、選ぶことさえが争いを生む。争いはどれだけ世が幸福に飽和されても、必ず"起こる可能性"だけは孕み続けている。選ぶとは、剣を持って他を斬り払うことに他ならない。だからこそ"普遍的平和"を目指すことはそれだけで価値になる。それが循環であれば、平和と闘争は必ず共存している。この秩序のソピアーの国にて、お前という逸脱者が現れたように。




 ◤ 3 ◢



「理念とは本質なのか?」


「本質に傾く実存とも言えようか。突き詰めたものは常に矛盾を孕むが、それ故に実存こそが本質であると捉える者も現れる。


 世々の全てが矛盾と整合の発火点であればこそ、文字通りの全てが矛盾であるとも、整合とも言える。実存と本質も然りである」



 往々にして定義する者は混沌を裁断せねばならぬ対象として見る。だが"どちらでもあり得る"構造と"どちらでもあり得ぬ"構造は常にそこに在る。この言及こそ矛盾であり、綴った者の整合として現れている。まず、"全体像を一度に目撃した上で整合されることはない(ある)"。故に、空白を抱いたまま主観が定義したものがそのまま理念にも転ずる。が、それもまた実存を汲み取っただけのことだというのは先にも述べた。


 少なくとも主観には"決定権しかない"が故、決定権を手放す決定権が無い。さて、これだけ言えばどれだけ認識が定義そのものとして振り回されているのかが分かるだろう。世はあやふやである。



「故に、"そうだ"と言えばそれまで。しかしそこから再び議論は発火し得るのだ。議論は決定項同士の激突であり、何方かが捨てられれば、その者は"負けた"と見る。残った方は"勝った"とな。


 とは言え、その時点で議論の場が設けられていること自体が再び議論の主題となる。つまり、"理解しきった"と断言するしか"理解した"とは言えぬ」



 お前は苛立ちを覚えただろう。"どっちなのか、はっきりしろ"と。だが、それで"問う"という命題が果たされるか?いや寧ろ、"問う先"に無理矢理着地したとしか言えぬのではないか?ここで"こうだ"と言ってしまえば、それでこの場が終わるのではないか?


 言ってしまえば、"その意志はその程度だった"としかならない。その指摘すらに敗北を感じたなら、お前は"答えを求めていた"に過ぎない。だが目的無き問いは問いに非ず、何れは問いの死によって敗北せねばならぬ宿命だ。特に、それを敗北ではないと断言する者にとっては。



「使える言葉だけで表せばこうなる。故に、理念と本質を確定させるにはお前自身で問いを殺さねばならぬ。


 敗北、死、終着を悪だとは言っていない。霊魂とはその先に残った理念だろう。であればこそ、そこに魂を見出すのであれば、お前自身の決定が要る」


「しかしそれでは、理念とは幻想という呼びで構わないのか?」


「ああ───いや、それもお前が決めろ。"どっちなんだ"と言いたいだろうな。だが私から言わせれば、"どっちなのだ?"


 決めたいのか、決めたくないのか。私に委ねるか?それともお前が決めるのか?」



「………」


 お前はしばし黙した。その間、在って続いたのは吹雪の音とお前の視野も覆い尽くす白の嵐で、お前だけは漂白されるように雪に埋もれていった。機も満ちたという頃、私は吹雪すらも掻き消す静寂の声にて、選択肢の前に立ったお前を呼び戻す。



「お前に見せたいものがある」



 その視野が私すらを写さなくなったその瞬間、私の声と共に雪は緩やかになった。斜めがけに猛風に駆られていた白は、縦にゆっくりと舞い落ちていた。すると、そこにはもう門と高壁が遥か遠くになっていた。お前と私とが雪原の中に在り、空は夜闇とは言え、星辰が煌めく美麗にて、大地をオーロラと共に照らしていた。


 ───そしてそこに、一人の男が立っていた



「先に決めた者がいた。…あれはその一人、全て理解した上で、なおたった一つを選んだ者だ」


「……誰だ?」



「私が真に英雄と呼ぶ者。然して、世にはあの者を怪物と呼ぶ者がおり、また神性と呼んだ者がおり。


 …ああ。あれは多くを殺して、それでも、"全てを"と肯定する者。故に、あの者は揺るぎなき決定者。お前が行く先に必ず待ち受ける〝 異端 〟だ」



 その姿は、白銀の大地にて煤けた鎧を纏い、炭のような剣を携えていた。顔も窺えぬ兜の切れ目には確かに光が宿っており、慈しむように殺す眼をしていた。そこには火があった。火の戦士。進み続けるが故に不動と呼ばれる神の如き、飛び続けて陽に向かい、降る星にも挑んだろう。


 私は、あの者にこそ迷いは断たれるべきであると表明する。"無き"を知った上で、"在る"と剣を掲げる者。"虚無"を知った上で、それでも"故に在り"と咆哮する者。逸脱者と言うも生温い、生者そのもの。



「───異端…」



 お前の呟きと同時に、そこには無数の霊魂のような人影が現れた。影、青白く輝く影。幼き影から老いた影まで、どの性も含めて、多くの影が煤けた戦士の周りに彷徨い、そしてあの戦士が火を灯したかのように導いていた。彼は我々には目もくれず、多くの魂を一望し、それぞれに頷き、オーロラに還る彼らを見送った。


 そして、光景が変わった。炎に包まれる集落があった。そこの住民らは獣の姿をとっていた。戦士は一切の帳を焼き払い、ごく僅かな幼子とそれを育てられるだけの大人を残し、獣どもを皆殺しにしていった。斬って、灰燼に還し、命乞いをする者までを全て断つ。斬るその瞬間に一切の躊躇無く、"斬るべき者"と定められた全てが炎に消えていった。


 …呻きは、"鋼の怪物"とだけ遺していた。




 ◤ 4 ◢



 私達は焼け焦げた集落を見て回った。そこに遺った骸には、全く無駄の無い斬撃の痕だけがある。寸分違わず"殺すに必要な殺傷力"だけを記し、容赦の無さと悦楽の無さが両立してしまっていた。審判としてただ下した、それだけだった。



「何故…こんなことを?」


「あの者の倫理が冒された。それだけで、あの者が剣をとるには十分な理由だったのだ。


 あの者には的確なロゴスがあった。それを動かすだけの強大なパトスがあった。そしてこの時、揺るがぬエトスとして、あれは劫火を示した」



 彼は我々を全く見ず、無言のままに突き進んでいた。最もお前に不可解に写ったのは、それでも火に囲われた幼子や、無力な者どもを崩落する帳の中から躊躇無く助けだし、戦える全ての者が居なくなった時に、その剣の血を拭い、生き残った者どもの怯える眼前にて完全に剣を鞘に収めたこと。背を向けて集落を後にしようとした時、石を投げつけてきた者に一度だけ静止して振り返り、その視線だけで黙らせてしまったこと。


 もう最早、お前の眼に彼は人間のようには写っていなかった。"人間のような姿をした何か"だと、お前の倫理が写してしまった。



「これは、エトスが"絶対"となった者が起こした出来事だ。それはつまり、信仰同士の争いが起こるのと同様、"決定した真理が絶対"という事実が導きだした、必然の帰結。


 その衝突の最中で目に見えて揺れるものは、多くが未決のエトス───だが、あの者は違った。」


「…応酬が…最初から決していた?」



「ああ。エトスを過ぎた火で焼けば、それは動に、パトスに揺さぶられた未決だろう。


 見たはずだ。"全て了解の上で殺している"と」



「…あんな者を英雄と呼ぶのか?

 ───あれではまるで……」



 言い淀んでも、言わんとした事は分かった。英雄とは須らくそうだ。英雄とは選ぶ者、選ばれた英雄であっても"選ばれたことを選んだ"者だ。因果を運命にて殺し、自我で押し切って初めて、普遍的な英雄と呼ばれる存在に近付く。道徳に基づいて判定される怪物に近かろうが、共通認識に基づいた神性に近かろうが、実存は"英雄と呼ばれるに足る"ことそのものに、明瞭に接近してゆく。



「英雄の実存は善でも悪でもない。ただ決定した者、それだけだ。それを善と呼ぶのは己のエトスに近しい者、または道徳という功利の観点。


 あるいは超人と呼ぶのが相応しいか。何方にしても、善悪の判断は自らが行っても、外在の律によって容易に断定されるものだ。


 聞くが────あの者がこの出来事を起こすに至ったのは、自らの集落の人間が一人残らず殺されたからだと知れば、納得するのか?」



 お前の眼がかっと見開いた。今ここで、揺らいだ証拠だ。"殺戮"の実存に"復讐"の本質が投影された瞬間である。ならば、今一度お前のエトスと照らし合わせる事になる。それは正当だったか?不純だったか?


 少なくとも、剣を振るった当事者にとって揺るぎなき正当性はあった。でなければ、ああまで絶対的な裁断は下さない。それでもお前は彼を否定するか?肯定するなら、その倫理は何処に向けるものだ?他者道徳か、自己倫理か?



「答えろとは言っていない。だが問いを深めるなら、今一度お前はあのイデアを追憶すべきか」



 そう言うと、緩やかに降る雪が宙で止まる。お前の胸を私が指で叩くと、その姿はあの者───甲冑を纏ったあの焔の戦士そのものになった。比類無き生気と、あまりにも重い何かが胸に宿る。…人の淀みではない。寧ろ、淀みにもならず昇華されてしまった焔の奔流が渦巻き、円環に身を焼き続けている。あれだけ人を殺める者が、その内には怨嗟すらも純粋な駆動力に変換される事実。


 突如、地が揺れた。場は雪被る青い木々で成る森の中に移る。一定の間隔で地ならしの起きる手前、彼は空を見上げると、一目散に木々の間を突き抜けてゆく。発信源に近付いていくかと思われた矢先、森の一部が業火によって焼き払われる。彼は火の中に向かう。障害無き場に立ったところで、その正体は明らかとなった。


 咆哮の轟く雪の大地に、火に包まれた巨大な獣のような巨人が闊歩していた。



「あれはお前の影だ。

 お前の姿が獣どもに写された影だ」


「────"俺"の影…?」



 一人の師が言った。あの火の巨人は、彼の姿の影法師であると。以後の説明を受ける間もなく、彼は巨人の咆哮だけで吹き飛ばされ、瓦礫や倒木の中に横たわる。神話の怪物がそのまま現れたかのような権威に、血反吐をまき散らしながら、彼は巨人を睨みつけている。



「あれが、俺の影であるならば……

 ───俺が引き受けるが、道理か」



 刃を地に突き立てて立ち上がり、英雄は剣に焔を滾らせる。不完全な火をなお掲げて、全てを解き放たんと。辺りの雪が溶けるほど熱が収束し、木々が自然に発火を始める。同時に、彼の身をも焼き焦がし、己が身で以て絶叫をしながら、剣はまだ手放せない。痛みが骨の髄まで刺し貫くように渡る、甲冑が溶解を始める。


 途中、片膝をついて気を失わぬように、雪が溶けて露わになった焼き土を握り潰しながら辛うじて切っ先を巨人に向ける。それほどまでに彼の業は重かった。何よりも、全て殺す為だけに集った炎であった。自らが練り上げたそれが、一寸の迷いで己すら焼き尽くすほどの業を彼は持っていた。



「ああああ……!!」


 剣を中心に熱が臨界に至る。火が初めて柱として伸びようとしたその直後、全て呑み込む極光によって、あまねく光景が白夜に包まれた。




 ◤ 5 ◢



 お前の意識が白色に焼かれた光景から戻って来る。その身はとうに、あの者の姿では無くなっていた。現実感の薄れから引き戻された感覚、行動原理が理解出来ぬまま────あの者の理念エトスの指向性に倣って再構築された、歴史には非ぬ演習。


 意味と意志の乖離が理解不能を引き起こす。彼のエトスが直々に身体に指令を与えていたようであった。だが、お前を介して行われた"あれ"は酷く不完全で、それでも立ってはいられない程の重さを感じさせられたはずだ。



「突飛で、理解不能なもの。それでも一部だけを読み取らされた。あのエトスは、人の及ぶものではない」


「酷い重責を感じた。しかも、その重責が何だったのかさえ分からなかった。生きているだけで自分を見失いそうになる、そんな感覚だった」



 それは生まれついて"理解してしまった者"に課せられた宿命だった。それを"理解しなかった者"がエトスに倣えば、その重責は必然として訪れる。ただ生きるだけでも自らの輪郭を厳格にしていなければ自己崩壊に至るということは、"実在をあまりにも見過ぎた者"が生きる為に必要だったということである。



「ああしてなる他無かった。事実、お前が追憶したあの者のイデアは不完全なものとしてしか倣うことが出来なかった。


 見るが良い。あれが、お前との差だ」



 私が指差したそこは吹雪の中、広大に広がる氷盤の大地だった。彼は一人の師を傍らに、そこにいた。


 空を見上げる。此度は、先の天にも届きそうな巨人よりも尚遥かに巨大な〝降る星〟が迫る。あれらはまさに厄災、この地を塵に還すのも造作もないような、宿命を与えられた天災であった。



「何ゆえ、まだ立つ」



 黒い外套に身を包む師は問うた。復讐を終えて故郷無き故郷となったこの地にて、英雄はまだ剣を握っていた。外から見た英雄にはもう戦う理由は無かった。───人は星には勝てぬ。抗えども、かつて南の地が滅んだように、星が墜ちるとなれば誰もが滅びの定めにある。来たるバルバロイはその都度、世界を滅ぼすことで一新してきた。


 それを拒むのであれば、"今の物語の続行"に他ならない。まだ"在る"と吼え、外より向けられたロゴスに牙を剥く。



「人である為に」



 英雄の静かな一言が天命のように告げられる。抜かれた刃が降り注ぐ星に切っ先を向ける。先に、お前が火の巨人に向けたそれよりもずっと揺れ動かぬ、信念の刃そのものであった。


 剣より火柱が現る。お前が爆ぜさせたそれと違い、あれは完成されたものであり、人の範疇を超えた異端の権現である。氷盤の上で天に伸ばされたその焔はさながら日輪そのもの、或いは、それに挑んだ鳥のように真っ直ぐで、疑いようのない御業であった。


 氷の大地を焼き溶かし、煮え滾る水も即座に蒸発するほどの中にて、あの英雄の身は傷みと焼かれることはおろか、寧ろあの存在そのものが最初から炎であったと示して、火柱伸びる切っ先を降る星に穿つ。その威光、ロゴスによって切り取った勝利そのもののエトスとし、大地を沈ませたであろう宿命を打ち砕く。


 ────閃光が満ちる。光が失せたそこには、これまでに問答を続けていた高壁の門と、私とお前だけが残っていた。理念の神話を垣間見て、ようやっと語ろうとするお前の口に指を押し当てた。



「…その理念は、口に出さずともよい。お前がお前であることを他者に表明せずとも、お前は実存する。


 何より、それを己の胸に刻むことだけが、お前のエトスとして実存するにたり得るのだ」



 最後に雪が止んだ。お前は椅子を立ち上がるなり、胸中に理念を反復させるかの如く手を擦りながら街路に戻るが、その背はより輪郭を確かにし、揺れを小さくして消えていった。


 私は空いた椅子に再び座り、扉を背にして、またお前を待ち続ける────。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ