第二節『パトス』
奇跡とはパトス《情熱》である。情熱とは定点的存在でなく常に流動する燃焼、即ち流出である。それは霊的個の以前からある個の源=分け隔てられぬ群から流出させる、一方通行の『エン・ソフ・オウル』であり、情熱=流出とはあくまで一過性こそが本質なのだ。情熱は反復しない。これは前段の『ロゴス』にある通り、同一存在の再現性とはまず、殆ど絶対に担保されないもの。故に情熱を"反復"="再現"出来るという主張の真は基本的に新たな流出でしかなく、同一目的に向けられた"燃焼される火"でしかない。
人の持つ霊性とは常に外在からの流入(これは意志と意味を隔てない"流出"という現象そのもの)と、内在からの流出に他ならない。では人を構成する霊性がこの循環にある時、己という個が一寸前の己と同一である保証があるか?────否。その時、その個は既に更新された別個である。存在する全てが、その実新たな存在と成る代償に定点的自己存在を脱ぎ捨てている。だからこそ、生けるものは成長し、死して新たな様態へと変化する。土に還り、木々の芽吹きとなり、巡り廻りて生と無を行き来する。
生きるとは"動"である。もう二度と戻らぬから、だから人はそれを『奇跡』と呼ぶ。誰も彼もが忘れても、生命の雄大とは斯くなる祝福である。
◤ 1 ◢
故にお前も再び巡り、ここに戻る。
ソピアーの外壁、その門の扉へと。
再び門の前に立ち尽くす、お前の隣に私がいた。雑踏も喧騒も届かぬ静寂の場にて、お前はまた扉を見据え、沈黙していた。それだけで、ただ一つのお前の意志が窺える。立とうとしたこと、見据えようと思ったこと、読み解こうとしたこと、それら全てに、意味に誘われた意志があった。
気付いた時には空は晴天と白い雲だけが漂い、地は都市のものではなく、以前の砂でもなく、空を透明に写した透き通った水で広がっている。目を凝らすと、その水の奥底は暗く、何も見えない深淵だけが覗く。高壁に囲われた水面の上で問う。
「戻るべくして帰ってゆく。
それは、お前の意志か?」
「分からないことばかりだった。
だから、またここに来た」
「分からぬからこそ、か」
お前は私の方に向いた。頷き、"読めぬから"と肯定する。往々にして主観を持つ者は、"読めたもの"を振り返りはしない。"読めたものから生じた未読のもの"、あるいは、"読み損ねていたもの"を新たに読み取ろうとするだけだ。何故か?既知は無知には勝らぬ"意味"であるから。既知を再び解そうとするのは、全くの意味の無さ───故に、意味無き意志、これを狂気と呼ぶ。
それほどまでの狂気は、未読のものを追い求める者にはまず無い。であれば、お前は常道としてまだ見ぬあの戸に問いを投げかける為に参った。
「お前はあの戸を開く為に、私に向くか?
あるいは、戸を通して私に向くか?」
「何方も同じような気がした。
何方も分からなかったからだ」
「そうとも。それが"未知"に挑む在り方だ」
私はお前の腰にある剣を指差す。お前はそれに気付くと剣を抜き、抱えた。今、お前は私が提示したことで剣を見た筈だ。意識外にあった"剣"を読ませ、『剣』として定義させた。これが読み解くという行動、観測に他ならないと、こうして綴ることで証明させたのだ。では、その読解にお前の意志はあっただろうか?ああ、強弱はあれど間違いなくあった。今より意味以て説かれるのは構造的『ロゴス』を脱してなお暴く構造、意志の項、『パトス』なる定義である。
◤ 2 ◢
「では、私はお前の"意志"か?」
「どういうことだ?」
私は手を泳がせ、握り、開き、これを二度と行う。この動作を"切るように"腕を斜めに振り下ろすことで、この掌には切っ先の鋭い歪な"剣"が生じた。お前の持つ"剣"よりもなお愚直、しかしその刃だけはお前が恐ろしいと感じるほどの鋭利を示す。これらの"動"はまさに"お前に意志を示す"為に行われた『意味ある意志』である。外殻、つまり、存在ある『意志』に『意味』は必ず生じる。私はそれを踏まえた上で問うた。
「ここにある意志と意味の接続は切れることは無い。それらの離別を図ったとして、そうすると意志を間接的に観測することも不可能となる。
意味の刃であっても切り離せないのだ、在るものに無いものはな。では意志とは何か?何より生じる?
───意志とは"動"そのものだ。"動"とは定点ではなく常に循環を続ける。意志は外殻より生じるが、寧ろ共に生まれる。形がなんであろうと、外殻が生じれば外在から向けられる意味が生じる。
この連鎖だ。三つは常に循環し、そして共に在る。されば、お前の意味には常に意志が纏わりつき、そして意志は意味に誘われ続ける」
故に改めて言うなら、純意志とは"存在も出来ない動"という矛盾に満ちたものだ。そして意味を問わない"動"そのものであれば、純意志は狂気すらも過ぎた"無"である。"動"が"無"へと帰結しており、つまり生じず、死なず、存在という全てが観測しなくなった時に初めて定点に定まる。
定まるとは言うが、それは有りもしなければ無いわけでもない───発生し得る、世界の混沌として始まるのを待つ概念。矛盾とは、世界の様態の一つであり、それが存在崩壊と真の無存在の証明とはならぬ。意志とは何より生じたか、というより、お前は何時から"生じたと定義するか?"とするべきだろうか。これは、円の"始点"と"終点"を定めるのと同じほどの"決まらぬもの"である。
さあそれを踏まえた上で、純意志でないと説かれた上で、"お前"という存在定義の中において、意味ある意志とは私が因であったのか?
「貴方の問いが頭から拭えなかった。己の中で、形になる前の衝動がここに立たせた」
「さてその定義が"私か"、"私の問い"そのものであるかは差し置いても、お前の意志に対して私は確かに関与出来たというべきか。
"感情的な衝動"とは、これで既に意味と意志と不可分にあるのは明らかだ。何故なら純意志の定義が"動"そのものであれば、感情とは外殻から生じる生理的なもの、意識にも上がらぬ記憶の螺旋、意味と意志の二つに強く基づく配合比率の名だ」
これが内在的に明文化した時、それは意味による人間の内的構造として処理出来るようになる。ただし、そのロゴスは主観が主観である以上、純意味に到達することはない。よって純意志と並ぶ、矛盾存在である。故にどれだけ内省に走ろうとも、濾過しきれなかった意志ないし感情があるのは当然の帰結であろう。逆に───"自然性"とは何として在るのか。これは実に答えとするには定義の難い領分である。単に因果律と言ってしまえばそれまで。外殻の相互作用と言うと、断じるには言葉が足らぬ。だがこれは意味の領分でもない、意味は内在であるから。
すると、自然性とは外殻に必ず生じる"動"という意志と併せた相互作用である。ただし、この中に自然規律があるのはここに厳格な外殻の性質があるからであり、この因果性は『カルマ』の領分となろう。これは人の業という意味ではなく、個々の間に生ずる、ある種曖昧な相互作用の名である。
相互作用によって齎されるのが、ここに再び巡る意志、『パトス』である。意志間は循環し得る。これはつまり"動"という様態そのものであるからで、交流そのものがまさに他者、他存在への流入にして、自己への他者性の流入でもあるだろう。
◤ 3 ◢
「意味と意志と外殻。これら全ては不可分だ。その上でここに、意味と意志の連関を説く。意味とは記憶という外殻を羽織り、なおお前のうちに意味として在るもの。記憶とは、即ちお前という霊性────変動する"存在"を"お前"として辛うじて定義された様態。
これは即ち、『ロゴス』を筆頭として、倫理なる信頼の『エトス』、動態としての『パトス』に横断する"切り取られ一過性のうちに保存された存在"である。ロゴスとは切り取る刃であり、エトスとは切り取られた肉、そしてパトスはそれを成立させた"動"である」
霊性は人間存在だけを指すものではない。寧ろ記憶を刻む為の内在的外殻であり、意味の変質体形である。そして霊性はそのまま"動"=駆動力、『パトス』の象徴的外殻となる。それが人間的"魂"、内在にのみ在る倫理の保存媒体。魂とは外在ないし実在の外殻が如何に記憶という内在外殻を刻むかであり、これは外在外殻の摩耗や損傷とイコールにはならないものだ。結論として、魂とは主観性そのものでもあり、無機物に在らぬ有機物特有の形態である。
「不可分…とは、論理では割り切れないと、貴方ほどの者が言ってしまうのか?」
「ではお前は、3を偶数に割り切れるのか?
あるいは、六角形の球を完成させられるか?
ロゴス、エトス、パトス。それだけで、世界は存在し得る状態になってしまっている。いや、整合性が完全となった時、その世界は閉じ、もう動かなくなる。それは満足、終着という破綻だ。
燃料の無い火が成立する場が、何処にある?
幸福を無限に与えられた鼠は、その囲いの中で役を放棄し、火を燻らせながら種を絶やすぞ?」
その中でも成立する、というよりも"長く生きられる"のが"意味以前の意志"───意味が極限まで削ぎ落とされた、存在に未だ宿る意志である。無と惰性はその実、主観存在の様態としては非常に近しいものである。"惰性"と感じられてしまうのはそこに動=意志の濃度が薄まってしまっているからであり、逆に意志の濃度が純に近しいのなら、如何に幸福であれ、鼠は再び異性体に飛びつく『逸脱者』となる。完全性を糧として再び飢えを楔打つ者、それがまさにお前という存在に酷く重なるであろう。
だが、それでも純意志には届かない。何度でも言おう、それは存在前の"動"だ。
「ここからはもう論理の領分でもない。されど倫理、道徳で割り切れる場でもなし。混同するのが前提の域となる。
主観では"境が何処かは分からずとも、少なくとも明らかにこれは違う/当てはまる"という差別区分でさえ、境の定義が行えぬ以上、"ではその差異は厳密に全く別存在であるか?"という問いに辿り着く。
よいか───律とは、都合良い風には完成されては非ぬ」
私はここで、お前の懐疑の熱中の最中にて、その背後の方を指差した。お前が振り返った先の透き通る水面の上には、これもまた透き通った水の凝固体のように形成された"赤子"が這っていた。赤子は明後日の方向に歓声をあげて進みながら、時に寝転び、不器用に身体を起こし、またお前の方を向いて燥ぎながら手を叩いていた。
お前は目を疑っていたが、視線を戻すと、私の腕の中には今しがたお前が見ていた水の赤子が指を咥えて世界を見渡している。私の腕の中で"お前"は世界を見渡し、青き空を見上げ、白い雲の流れを不思議そうに見ている。"お前"は短い手を伸ばし、空の手前にある美しい雲に手を伸ばし続けていた。定義され得なかったこれまでから、定義に足掻き続ける未来に向けて。
「この赤子に見覚えがあると感じるか。
あるいは、同じ行動に身を置いていた感覚が?
これは確かに、"お前だった者"だ。けれど、ここにお前とこの赤子が同じ時に居る。なれば、これはお前でもない。しかしお前は記憶に自らの幼年期を見たことがあるやも知れぬ。果たしてその記憶は真にお前だったものか?連鎖を地続きと見るか、断絶の接続と見るか?」
「この赤子が自己だというのなら、それは自己だったものでしかないのだろう。今の自己とは違う」
「我思う、故に我あり。確かに、それこそが主観の立証をさせるものだ。けれどそれは、記憶として断絶してしまったものを、螺旋のように消費し、新たに歪めながら前進し続ける一過性の形態でしかない。
記憶の中の"お前"とはお前ではない。それはお前を糧に生まれた"意味"、そしてそれが認識可能態という外殻、記憶として生成された"類似する別"だ」
私は"お前"という水の赤子を抱きながら、未来にあるお前の内側に押し付け、溶け込ませた。その瞬間赤子は歓声をまた上げ、お前は自らに沈む赤子を凝視しながらも、無意識のうちにその口には微かな笑みが浮かんで、自覚した時に消えていた。それでもまだ胸中に、浮かぶような歓びにもならない何かがあった。泥濘に沈みゆく、お前自身の古い記憶の連綿が、可能性に解ける前に挙げる、儚い火花であった。
「なおもお前は、お前たり得るか?
これは正誤ではない。お前自身のロゴスに問うている。
お前は同一性に立てずとも、それでも
"我思う、故に我あり"とするか?」
「ここに主観がある。それだけが事実だ。思う故にまだ崩れることは出来ず、恐れはしない」
「それが純に近いパトスである。ならば恐れようと進め。恐れ知らずの者には、エトスが欠けよう」
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信仰とはパトス、その内には"動"がある。それは天に挑む、天を仰ぐ、天に問う、何れも同じ動的体形であり、人が一過性の行為としてそれを行ったのなら、即ち人の営みそのものが奇跡である。故、信仰とは微震する不動の"動"たり得る。人は神やその幻視に祈る時、生の躍動を感じる。それもまた、恐れ、歓喜、悲哀、楽観、何れでもあり得る。それらは正誤の範疇に全てが定義されるべきものではなく、人々の生そのものである。
それには霊性が常に微震される。存在可能とされた全てに生が宿り、存在不能とされるカオスへの祈祷も、記憶の流入と内なるロゴスの再定義であり、哲学も詩学も信仰も、一緒くたに切り取られては真価を損なわれるものである。生きることに敬意を払うこと。それが死と永劫への敬意であり、人へのエトスである。
「瞼を下ろし、今一度思い描け。胸中にある純に近しい"動"に、意味と外殻を与えよ。そしてより駆動を促し、しかして不動たれ。それが信ずるという"動"だ」
私はお前の胸元に掌で触れる。心の臓がその鼓動を変化させる。より駆動するか、あるいはより静謐の"動"に向かうか。胸を中心に白光が輝き、それが身の内に感じる管のような何かを通じて、霊性の輝きとして露わになる。お前の脳裏にはより無形の信仰が見えるが、見えてしまえばそれは無形と称するしか無い有形の内在外殻としてお前の意味となる。
その意味が意志を循環するように呼び寄せ、確かに、存在としての力をお前は知覚し、生という力に取り込むこととなる。その力とはまさに、形而の上から注がれた名も言えぬ存在からの祝福であった。
「ならば、その無形に冠を与えよ。イコンに有形を与えるとは不遜とも取れようが、それは逆説的に、本質の奪取を顧みる節制、誓約となり得る」
お前は脳裏の白光に王冠を添えた。すると輝きは薄れたが、確かにお前が意味を読み取れる有形となった。それは神を仮初めとして定型化するロゴスでもあり、信仰の拠り所によって裁断されることも受容されることもある。今この場でその是非は問わず、ここではその営みの導きのみを行う。
流入とは自己に水が入り込むといった形で、生にあるべき"動"無き者は、むしろ異様にも軽い。浮足立つとも言えるだろうか。そういう者は根源的な存在感、重力が薄いと言えるだろう。それは物質的なものではなく、関係性から見え透く"行動の軽さ"が浮き彫りになる。これはある意味で当然やも知れぬが、純意志が意味問わぬ"存在せぬ存在"、形而上的な概念であるならば、それに近い狂者ほど歩みは軽い。何故ならば意味という誓約と節制が薄い、即ち"思い立ったら行動する"とはそれにも近い。行動の早さと倫理的重責による慎重さによる差異は、どう在っても表れる。
「時に、お前は物事を神事にも限らず、信ずるという"動"に確たる信念を置いたことはあるか?」
「…分からない。分かっていたような気がするが、分からなくなってしまった。信ずるとは、何処から何処までを指すのか。どうなのだろうか」
私はすぐには答えなかった。先に言ったように、主観に意味が左右される以上、他者が選定する領分ではないからだ。割り切れなさとは、現実にある。ロゴスによる定義と選定は何処かに生じるこの矛盾点を、定義外に追いやるものであり、厳な意味での成立は望めぬ。だからこそそれは業なのだ。論理は他を殺す意味ある意志────私はそこでお前の、無意識にて"それでも信じているもの"に言及する。
「お前は分からぬと言ったが、それでも選んでいる行為が数多とある。一つに、私への問いがそれであった。見よ、その手に握る刃は何だ」
眼を開くと、握られていた剣には白光する美麗の刃があった。色が無いというべきか、それは意味に浸されていない、輝ける白の剣であった。
お前は胸中から溢れた無形を思い馳せる。その脳裏には王冠の影のような靄がかかったまま、それでも剣は霊性の脈打つ如くに神々しさを魅せる。剣とは定義の刃であったが、今ここに、意志による強靭が生まれて宿った。限りなく純に近い"動"による奇跡の光である。
「それがお前が注いだパトスだ。これはよく研ぎ澄まさせているが、"純"にはまだ遠い。
この剣の刃を持て。光る刃こそを」
お前は恐る恐るとは言え、光に包まれた剣の直刃を握る。持つだけに足りる最低限の力。光は多少なりとも遮られたが、剣に宿った光は未だ消える様子の無い。続いて、私も刃をお前の持つ部分の下を掴んで見ませた。お前は光に目を細めながら、その行動を訝しみ首を傾げる。
私は握る手を更に強め、半ば奪い取るにも近い形で剣を自らの傍に引き寄せる。お前は半歩下がったが、私の力はまだ下火を見せず、更に更にと燃え盛る。いつしかこの腕には、剣以上の極光が表れ始め、剣の光と拮抗───いや、寧ろ押し殺すか喰らい尽くすかのように戟音や雷鳴のようなつんざく悲鳴を上げ、もっと膨大に、辺り一帯を呑み込むほどの大閃光を走らせた。
光がするすると収束してゆくと、私の手はおどろおどろしい黒い血が多く流れて水面に沈み落ち、その水面の下層にある深淵に解けるように消えていった。私は刃を握ったままお前に柄の部分を差し出したが、お前が慎重に剣を受け取ろうとしても、離すことは無い。綱引きの如く一瞬の引っ張りあいになり、ここで私の手が切り裂けるような黒血を巻き散らし、抜かれていった。お前は異形を見たかのような瞳で私を見ていたのだった。
「…純なる意志とはこれ以上のもの。最早存在も出来ぬほどの極点、生成以前の"動"だ。
指など落ちても構わぬつもりで私は握った。されど、存在に妨げられた行動遂行である以上、これはもう純には限りなく遠い意志表示であった」
◤ 5 ◢
「…痛まないのか?」
「───聞いてどうする?
我が心情までも、その刃で穿つか?」
私は裂かれた側の掌を強く握りしめ、すると濡れた巾着を絞るかのように、黒い血が流れ続ける。お前は二度とこの血を見続けると、その暗さに異様な感覚を覚えた。見てはならぬものを見たかのように。そしてお前は、自らの立つ水面が浅黒く染まりつつあることに気付いた。伴って、先までの晴天の空が、黄昏の夕陽の差す橙に向かっていることも知った。時間の流れを感ずるより、唐突に時の流れが切り飛ばされたかのような。
「エトス。倫理の贖罪としてその問いが生まれたのならそれも必然か。ならばお前は、お前の霊性を用いてこの傷を癒せるものか、試すがよい」
お前は再び眼を閉じ、パトスによる光を呼ぶ。だが先に浮かべた無形の光は表れなかった。寧ろ暗く淀んだ無形、泥のような何かが脳裏を蠢いている。感覚に走るのは私が刃を振り解いた時の衝撃、力を込めて抜いたのは純に近い意志の"動"、それであったが、振り返ることで得たのは罪悪感に近い何かしらの未踏の感触。カオスであった。
「表層に浮かぼうとしている未知の疑似とは、既に既知に当てはめられたお前のうちの意味と外殻でしかない。
本当にお前が見ようとした " " とは、意識にも上がらせることは無い、裁断された可能性に等しい何かだった。今こうして綴るのもあってはならぬ沈黙だが」
聞けば聞くほどに純性からは遠ざかり、お前は聞いたものをそのまま思索という漁の中、網かける。だが、網にかかる魚が多過ぎるが故に、とても引けたものではないだろう。お前という漁師の船は、それは小さく、荒波にも耐えたものには無かった。さあ、豪雨が降り注ぎ、船は波揺れと軋んだ板の底から暗い水の流れ入ること、足は水に浸かり、尚もお前は網を手放すことが出来なかった。
そこで一人の漁師が乗り込んだ。お前は喜んで沈みかかる船の上で網を差し出したが、その漁師は網を取らなかった。寧ろお前の握る縄を優しく振り解き、悪しき漁を辞めさせるまでに至った。───すると今までいた水場は、荒波どころか嵐も無い澄んだ空の下で、これまでの労力の虚ろを報せた。だがお前は考えることを辞めてなお、青い空を見上げ、手を伸ばした─────。
「……その意味は引いてはならぬものだった。お前一人には、あまりに業に近過ぎたのだ」
お前が眼を開けた時、そこには淡い白の光に癒される私の姿が写った。混沌を手探ろうとして破綻し、そして漁師に齎された無心の果てに、お前は再び霊性を獲得し、ついにこの傷を癒すに値したのだ。私は掌をゆっくりと開くが、先の破れも全てが、最初から無かったものだったかの如く消え去っていた。
───あの網は一人で引けるものではない、大勢で時間をかけて、なお大漁を狙わぬ慎みを要される。得るものが一匹のアムヌンであっても、勝利を分かち合えるだけの徳が要った。
「…分からないまま、進めということか?」
「────答えぬ。だが、問いを軽んじるな。されど未明を軽んじるな。無名を軽んじるな。
ロゴスは到達点ではない。通過点である。切り取るだけの刃は網であり、その終着に得る魚とは正しく一匹のアムヌン、倫理のエトスである」
黄昏が流れ、夜に近付き、水面が上がってくる。終末を予感させる戒め、浅黒くそまった水が踵から膝へ、腰に、そして肩まで浸かり、やがてお前は浮くまでもなく暗い水に引き込まれて藻掻く。その水の中私は、藻掻き深淵に向けてなお視線を逸らさずにはいられないお前に、この水におけるロゴスを引き抜く。
「これは神の悪意でなければ、怒りでもない。ただし、お前が引こうとした語り得ぬものを意味無き意味、戒律として刻むがよい。
そしてその深淵にさえ、一つ一つの魚が泳ぎ続けることを知らねばならない。生きるとはそういう事だ。知ることを傲慢として知って、なおもお前たちは挑まねばならない。
在りもしない底へ進むがよい。暗がりへ、最も触れてはならぬ場へ。そこにこそ、忘れてはならなかったものがある」
底に向かうお前は一度、死を臨まねばならない。魚群に囲われ、流動する波に乗り込み、再び身の丈を超えた網を手にとって。お前の身体から空気という空気のあぶくが破裂して水面へと吹いて上がり、反対にお前は、光の届かなくなる深海に引きずりこまれる。
そこには影のような何かが必ず身体に当たり続けるほどの大群として群がっていたが、光届かぬが故についぞロゴスにもかけられることが無かった。奪われた視界において眼を開けても必ず暗闇である。何も見えぬそこで、お前はお前がかつて切り省いた、何某かを予感した。
────気付いた時、お前は街の何処かにある長椅子にもたれかかっていた。微睡みから浮かぶように欠伸を上げて眼を押し広げたが、この空は未だに夕焼けに燃え上り、鐘の音と、鳩の羽ばたきが胸中の静けさを相対して知らせた。
雑踏と民の喧騒が響く中で、お前は静かに立ち上がり、周りを見渡す。そこにはもう私は居なかったが、遠くの方にはまだあの扉が覗いているように見えた。
帰路に着くお前の背は、ロゴスの刃を握った時よりも、確かに生気に満ちていたのであった。