第一節『ロゴス』
魔術とはロゴス《論理》である。論理とは即ち定義=構築、解体=分析である。定義とは言葉ないし概念構造、鳥を、"鳥"として認識した時点で内在的な『鳥』が誕生する。外在の存在に関わらず、主観を持つ観測者が"認識"したことで真実の鳥とは異なる、謂わば複製された"鳥"が記憶に現れるだろう。これを他者的観測者(別の主観)に共有する為に外在的な『鳥』という名が作られる。
さて、この時点で世界には三層の〝鳥〟が現れた。起源にして実在としての鳥、観測者の主観に投影された"鳥"、観測者が他の主観に共有する為に生まれた『鳥』である。では共有する為に生じた『鳥』は鳥ではないのか?厳密に言えば鳥ではない、されど主軸を鳥して生じた『鳥』は、言語の鳥として、別個の起源となる。これがすなわち二次的な"外殻"という性質である。
故に、魔術とは"物語の設計"そのものである。───ただし忘れぬこと。共通の舞台を設け、世界を定義し、それを記述した第一人者が存在することは自明の理である。世界の位相の、その最上位を示す存在とは即ち、創作者そのものである。
そして最上の魔術士とは、観測という行為無くして成り立たぬ、最も崩れず最も脆い構造なり。
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群に孤独を歩む者はそこを見る。
ソピアーの外壁、その門の扉を。
開かず、破られず、また誰も訪れず。ここは見る者だけの為に安置された問いの門である。押しても引いても不動を貫き、故に逸脱した者なれど雑踏も聞こえぬ静寂の、この国の縁に立ち尽くすのみ。壁は高く手の届かぬほどの上に空だけは見えているが、どうにも、到底越えられそうには無かった。
───だが、その"越えられなさ"こそが、魔術の発端である。
何故越えられぬのか。何故、扉は、開かれぬままそこにあるのか。問いを重ねれば、それ自体が論となる。問いとは論。論とは理。そして問いとは、観測である。一歩踏み出せば、足元の石畳はただの地ではなく、既に選定された位相となる。お前が立つその場所は、もう民のものではない。この地に共有された観念の外───すなわち、自身の思考が唯一の基軸となる孤界だ。
問え。この門の意味を。この沈黙の因果を。
そして、お前自身の存在理由を。空は回っている。お前の知らぬ速度で、星々は、螺旋の理路に沿って。だが扉は動かない。決して、理由を示さない。それでも叩くか。それでも、応えるか。選ばれることのない者が、"選ぶ"ことを始めた瞬間。世界は、微かに軋み始める。
「疑問か?」
背後より呼びかけるは黒の外套。だがその声は、音よりも理に近い。名を呼ぶように。否、問いを返すように。まず始めるなら、お前は私の名を問うべきか?それとも最初の疑いに手をつけるか?
声の主は姿を明かさぬまま、ただ外套の輪郭だけを月光に晒している。足元は影に溶け、手の動きさえ見えぬ。だが確かに"在る"。何より、問いにすでに応えている───存在そのものが魔術であるかのように。
「何故、扉は開かぬのか。何故、お前はここにいるのか。何より────選んだか?」
空の星々が軌を描き、視座が緩やかに揺らぐ。門の扉に刻まれた鋲の一つが、僅かに"位置"を変えた気がした。だが気の所為だ。理が崩れ始めたのだ。そして私は、確かにお前に近づいてみせた。
この場の全てが、門と、それに向かい立つこの者で満たされている。次に語るのはお前だ。逸脱者であることを証明する、唯一の手段。それは問うこと。応じること。選ぶこと。今この扉が"お前にとっての問い"であるのならば。
「この戸は、何故開かない?」
最初に扉を問うた。その先にある外を見ようとして。問いを投げかける姿勢、私はこれに応答する。
「何ゆえと思うか。綴れ」
お前はじろと、戸を舐めるように見て、這うように高壁との境界を指でなぞる。その指、土埃と黒錆に汚れ、この大きな戸の歴の深さを知らしめた。
「古いのか。門だというのに、衛兵がどこにもいない。もう使われていないと見て良いのなら、これは蝶番がひずんでいるのだろう」
その言葉は確かというより、妥当なものである。だがこの門はそもそもが大きい。三人丈の高さなれば、人一人の力で動かすなどと、現には中々あり得ないのではないか。私は他にも応えた。
「ほう、真か?かんぬきが
向こう岸にかかってあるとは、考えぬのか?」
眉を顰めて私の方を見た。お前の識によれば、国を隔てる為の扉が、外より齎されているとは思いもしなかっただろう。それが真実であればこの国は封されているということになる。外から内に向けてではなく、内から外に開けぬ為に。
「何も、私がそれを真であると言っている訳では無い。だが、その可能性が一片足りとも無いとは言い切れぬだろう」
「あり得ない。いや、そうだとしても、ここからでは確かめようが無い」
「ではどうする?」
お前はこの問いに八方塞がりを見ては手を宙に一つ泳がせ、諦意で一区切りした。するとその興味は私に移った。それもそうであろう、誰もいない空間にただ唯一、私とお前という異物が存在している。自然の成り行きとして、お前から見て霊的な異物は私しかいない。"霊的対話の可能者"としての唯一だ。対話という事象は"個と個"の特定の発話に対する応答反復という認識がなされるが、さて、それは人に限らずとも自然に溢れるものである。例えば、天秤の皿に重しを乗せた時、その応答として物理的『偏り』という形式で表れる。
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「そちらの名は?」
「どう知るか綴れ。お前は私への"定義"を私自身に委ねている。だが、それではこの先には進めぬ。問おう、お前は何故問うた?その好奇の拠り所は?
対話をする上で必要だったか?だが"お前"という主観と"私"という他観、内と外という二者に限られたこの場において、最早それは不要である。
"私"という"未知"を仮初めに定義し、自らの視野の支配下に置くことが欲求であったか?
───よい。なれど、なればこそ、私という他に聞かずともお前が、お前自身が定義するものだ」
私はこう言った。お前は更に顔を顰めた。お前の内側は"ただ名を聞きたかっただけなのに"、という不服に満ちている。ああ、知ったその上で問うている。何故そのように苛立ちを覚えるか
───それは、お前のうちにある"まだ意味無き混沌"に私が"意味ある論理"という暴力で突き刺したからである。そして、この一言にて"知った気になるな"という苛立ちも連鎖して生み落とされたなら、それもまた"知られたくない"、"知りたくない"という拒絶がお前の中にあったからに他ならない。これを黙らせるには一つだけの手がある。
それは────私の声を奪うこと、あるいは
お前が耳を落とすこと。どちらも同じことだ。
「貴方は門番のようにも思う。刻まれた犬の意匠を借りて、ウルディムと呼ぶ」
「邪避けを重ねるか。それは意味の連関性を見たものだ。意味とは己が内にしか芽生えぬ、故に、定義とは自己の既知から当てはめたものである」
自己既知、それを端的に表すには共通された言語が必須となる。原初に、"これは『犬』だ"と定められた時から、犬は『犬』という言語に縛られた。こうした原初の記号は思慕や信頼という意味から来るものではなく、必定として"自己の都合がよい"、喋りやすさ、綴りやすさ、そういった"既知の意味"ではなく"意志の障壁にならない"という意味以前の意味を共用できる言語を与えたのだ。
その起源があればこそ我々の用いる『言語』とは、最も傲慢で、利己的な意図の延長線上にしか無い。そして、だからこそ意図した短文の命名とは『慮る知性』であり、長文の命名とは、その存在を言語にてあけすけにしてしまう『傲慢の知性』である。語ることが暴力だと知らない人間こそ後者を好む。本質的に、余白を与えないとは"断定"なのだ。まさにこの語りのように。
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「ならば私も綴ろう。お前の名を。
───お前は『逸脱者』。
その定義もまた既知の源泉から生じたもの、こうした複数の意味の構築が命名だ。そして定義された『言語』とは"形相"《エイドス》なれば、その"外殻"を操作するもの。
"逸脱した者"、お前は民から逸れ、有識の者となった。こうして私と問う前にここに到達した時点でな。有識とは知識の宝物庫には非ず、有知と無知の境を知覚すること、そのものである」
その名を抱いたまま、己が過去を振り返るがよい。ただし、それはこの問いの場において一塵の意味も無い遺産である。お前が平凡な民の生まれでも、力ある御家の跡取りでも、凄惨な復讐を生きた老獪でも、それは世界にとっての意味ではなく、私にとっても何ら問うべき歴ではあり得ない。ここで問われるのは『意志』の純度であり、『意味』では無い───そもそも意味とは主観の内にしか無いのだから、共有出来る形にした『外殻』はもう『意味』ではないのだ。
だから、内省するのであれば、今ここで胸の内に顧みるがよい。お前は何故ここに到ったのか、お前の"何故"など、この先には要らないのだから。
「要らない。もう名前はある」
「その名こそ要らぬ。
私にとっての意味には非ぬから」
剣呑な空気はお前が出処だ。私はお前のその主張が矛盾だとは言っていない。まして、お前にとって意味が無いとも言っていない。けれど、私はこの空気さえが既知の範疇でしかないのだ。分かるだろうか、論理の冷たい暴力とは、まさに今このやり取りのうちに顕著となったものだ。
名の本質とは『識別』『定義』であり、既知の名は始原の名に抗うことが出来ない。ならばお前の存在意義とは何か?
────そんなものは無い。あるのはただ、観測した個々の内在的意味だ。究極的に、自己と他が識別出来れば、存在の論として過不足も無し。意味の論も右に然り。
それでも語るか?それでも語らないか?
暴力が存在証明でしか無いと知って、それでも?
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「それでも語らなければならぬと覚悟したのなら、そこから魔術に歩む資格が始まる」
私がそう言うと、これまであった建屋や街路の石畳が、お前の視界目一杯にあったはずの世界が砂粒ほどの文字のように解けて流れる。空から色と雲を奪う。この地に残されたのは、私とお前を広く取り囲う高壁と扉、そして世界だったはずの砂が一面に広がっていただけであった。
「聴け。しかし聞くことにも責任が伴う。
だからこそ、あの扉の先を目指すというのなら、
魔術に触れねばならない」
「魔術とは?」
「語るまでもない。ここまでで示してきたことそのものだ。単純でも難解でもなく、あったことを赤裸々とす。それが先に示したものだ」
指が砂地を指すと、お前の足場にはとうに夥しい数の言葉と図形が、ぱきりと音を立てて刻まれていた。この魔術の円陣は言葉でしかない。なれど一言一句に意味無き共用の言語が刻まれており、『定義』と『解体』の足掛かりとなる。魔術は『形相』と『質料』を再編する魔法に他ならず、そして全ての魔法を統括しうる認識と強制の暴力、最も冷たい刃。
「詩とは。物語の編纂とは。それ即ち因果律の再編。因果律の再編とは理の力、定義され得る全てに触れるもの。だからこそ発火点にはなり得ぬ
────在るものしか従属はさせられぬ」
私は地を練り上げお前の目の前、宙に、荒ぶる流砂を築いた。この語りから見ると、その"定義"も私の観念として及んだ存在である。それを共通の言語として読み取れるのかどうかはお前次第。そして読み取った時、事実現象は魔術という観測状態として成る。現象の操作が魔術なのではない。現象が観測された時、魔術となるのだ。
「観測せよ。" " はなんだ?」
私の観念において " " は流砂と呼んだ。だが、それは私の内における話。私が語るものとお前が語るものの同一性の証明は決して成されない。それでもお前は定義する為の手札、既知の言語を知っている。ならば決して難しいことではない。そして定義すら出来ないうちに編纂は叶わぬ。
「砂…流砂…?」
刹那、" " はその個々が破裂するように瓦解する。塊ではなく、一つ一つの単位が決壊し、魔術の体を為さずに地に落ちていった。此度、それは疑問符を浮かべたことが『不定』を招いた、しかして半ばに決定付けたことが瓦解に至らせた。これは醜い、"物語の腐敗"そのもの、即ち『破裂』である。語り切らなかったものをお前は作ってしまった。断言しなかった。断言出来ないのであれば沈黙することも出来たというのに。
「見よ。言葉を持たずして言葉に訴えた結果である。何故定義できなかった?」
「…それが、砂なのか分からなかったからだ」
正誤とは外在的な"定義"が無いのであれば、既に己が内にしか在らぬ"意味"だ。そして私は言った筈だった。"外在的な正誤はここには無い"、即ち『この場において、お前の過去は要らぬ』と。
───しかし、私はこれを『失敗』だとは言わなかった。何故なら『不定』であれ、それは『魔術』である。完遂とは"潔さ"であり、瓦解とは"無念"なのだ。この定義で言えば『誤読』『誤字』を咎めるとは『外在の定義』の強制だが、そんなものは問うていない。それは観測し読解する者の完全責任だ。起点に立ったことが称賛すべき事柄にして、その後の覚悟を問う終点、故に、腐敗に殺される事も承知の上であれば、斯くあれかし。
「なれどもよい。お前は瓦解を知ることで完遂の意を思慮する足掛かりを得た。それはつまり、次の手札を自ら得たことであると考えて相違ない」
次に、お前は再び " " を見た。
見開くように眼を開けて、お前は確して謳う。
「これは、『材』だ」
「それが定義である。お前の"材"は私に謳わずとも、もうお前の内に定められた。そしてその定義は私にすら、もう扱えはしないものだ」
質料とはその時点でまだ語られぬものでも、語られた形相ともなる。二つの要は連関性を持って環を描くもの。私は"流砂"を前に、新たに"業火"を滾らせ、お前の宙に弧を描く"材"に放つ。これを炙り、"材"あるいは"流砂"は黒く焼け、赤く輝きを得る。
「構築せよ。お前の"材"は何となる?」
お前は熱を帯びる"材"を前にして手をかざし、眼で睨みつける。ここでお前の質料という形相は、質料のままでは終らず、形相に至ろうと歪み、渦を描き、輝きを経て、暗がりと離別する。
「───これは、我が『剣』となる」
私は手を招いて熱を退かせた。そしてお前のかつての"材"は白銀の輝きに変質し、新たな形となった。それは"剣"という形相として、お前の手に完全に委ねられたのであった。
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「これが、根源的二元の項である。
ならばその"剣"は"どう在らせる"?」
私は問うた。お前の"剣"は何の為に在るか。お前の構築した"剣"が共通言語を写しただけの『剣』であれば、それは容易に思い浮かぶ。『斬る』とは外在的な外殻に頼らざるを得ない"在り方"だがそれは意志とは異なる、意味としての純度の高さの表れだ。意味としての純度は、依る外殻が少なければ少ないほど、意志と併せた時の強度は強靭になる。意志の劣化に比例して、意味の純度が担保される。
「『剣』は斬る為の物だ。
それ以上でも以下でもない」
「ある剣士は"斬る為"と言った。ある戦士は"叩く為"と言った。ある信仰者は"在る為"とな。
ああ、在り方そのものはさして問われるものではない。だがそれは"その為にどうするか"という問いには欠落してはならない前提である」
目的と行動が反転した時、最も納得のゆく意味こそが純度の高い意味だ。"斬る為に人を助ける"、"斬る為に戦う"、あるいは"斬る為に斬る"。何れも斬ることは変わらずとも、最も狂気に、意志に近いのが三つ目だろう。それは意味を意志が呑み込み、転倒し始めたことを表す。それでいて純意志には到達できない透き通った"意味"。
外在の外殻に触れ、なお見いだした意味の純度を試すのであれば、お前はその果てに狂気に等しくなる。それはお前の望みとなるか?それとも、異なるか?人らしさから遠のくことが意味ではないと?
「ならばこの『剣』は、
あの扉の先を切り拓く為にある」
「よい。立ち戻ったことを称賛しよう」
私は扉を指差す。お前の剣が真に開門となり、扉に届き得るかを見定める為に。お前は剣を握り、一歩一歩とまだ定められぬ砂地を踏みしだいて古びたあの門へ近付き、剣を振り上げた。
一閃、甲高い音が鳴り響き、お前は閃光に目を瞑る。
「届いたか?」
お前が目を開けた先には、私が居ただけ。歩んだ足跡だけが扉の前に残されており、それ以外に何も変わりはしなかった。それは軌跡だ。お前の意志が与えた影響は確かに歩んだという足跡を残し、『剣』の音という残響のみを残したが、門は何も開かず、未だ聳え、不動を貫いていた。
景観は、最初に戻る。僅かに残った砂と、お前の握る剣を残して、街の建屋も石畳もまた築かれていた。お前はただ脱力し、私を見据えた。
「その無力感が"意志のあった証明"である。そして、尚もまだ扉に立つ意志が再燃した時、お前は再びここに『逸脱者』として辿り着ける」
お前は虚ろな眼差しのまま、街中に戻ってゆく。その背は輪郭が曖昧になるような薄れに投され、生気を感じさせない灰色になっていった。やがて穏やかな喧騒が耳に満ちて、それすら雑音にもならなくなっていった。"民"に溶け込むように、泥濘へ。
…そう。踵の跡に、輝く砂粒と、
刃を引き摺った亀裂だけを残して。