発端 その8
「チッ、また、降ってきたな」
愛知県捜査一課所属の本田刑事は、覆面パトカーで雨に濡れた道路を走り、一人で街中をパトロールしていた。
時刻は夕方遅く、すれ違う車の多くは、仕事を終えて自宅に帰る人たちが、運転しているのであろう。
走り方に、どこか、弛緩した雰囲気が感じられた。
本田刑事も本来なら、今は勤務時間外なのだが、上司の命令で、路上パトロールを仕方なくやらされていた。
「これも、例の、幽霊騒ぎのせいだ」
この地域では、しばらく前から、赤い車の少女という子供の幽霊にまつわる怪事件が、連続して起こっていた。
雨の日に赤い車を運転していると、突如として道路上に、黒服のまだ幼い少女の幽霊が現れ、運転手の顔を確認すると、また煙のように消えてしまうのだという。
一件や二件ならともかく、こんなオカルトじみた事件が、数十件も報告されているのだ。
幸い今までの事件で、大きな怪我をした被害者はおらず、せいぜい急ブレーキをかけた際、首を痛めたり、幽霊から走って逃げ出そうとして、転んで怪我をした者が、数名いるくらいであった。
だが、実際に事件として報告が上がっている以上、県警としては無視する事もできず、パトロールを強化する事になり、こうして勤務外の本田刑事までが、巡回要員として駆り出されているのであった。
ちなみに本田刑事自身は、幽霊などまったく信じておらず、今回の一連の幽霊騒ぎも、誰かのイタズラか、集団ヒステリーによるものだと思っていた。
本来なら、自分が自由に使えるはずの時間が、こんなくだらない幽霊騒ぎの為に、犠牲になっている事が、本田刑事には、とても腹立たしく不満であった。
晴れた日ならともかく、こんな雨の日に、単調な景色の続く道路でただ一人、車を走らせていると、だんだん気分が沈みがちになってくる。
おまけに今日は、幽霊事件とは別の、奇妙な案件もあった。
本田刑事がパトロール中に、市民からの通報で対応したのだが、頭のおかしい中学生が、自転車で高速道路に侵入し、他の乗用車の走行を妨げたのだ。
本田刑事が現場にパトカーで急行し、補導したその中学生は、赤い自転車に乗っており、奇声を上げながら、何度も高速道路を往復していたという。
彼は頭もおかしいが、格好もおかしく、怪我もしていないのに眼帯を付けており、腕にも包帯を巻いていた。
おまけに言動も変で、自転車も車の一種だから、車道を走る権利があるなどとほざいていたが、中学生にもなって、一般道路と高速道路の区別もつかないのであろうか。
「まったく、変わった子だったな。まぁ、悪い奴ではなさそうだったがー。そういえば、あいつ、幽霊を退治するとか言ってたけどー。もしかして、それって、赤い車の少女の事なんだろうか」
本田刑事は苦笑まじりに、その少年の事を思い出していたが、突然、警報音と共に、パトカーに搭載された警察無線が、情報を流し始めた。
その内容は、驚くべきものだった。
なんと、赤い車の少女がらみの事件で、初めて重症者が出たというのだ。
被害者は、市内に住むチンピラ青年、田中珍平(30歳)。
全身骨折の状態で道路に倒れていた所を、通りがかった車に発見されたらしく、救急車で病院に搬送される際、赤い車の少女に関する、うわごとを繰り返していたという。
幸い一命はとりとめたそうだが、精神と肉体に、深刻なダメージを受けたであろう事は、間違いなかった。
そして不思議な事に、被害者の乗っていた乗用車は、事故現場から、忽然とその姿を消していた。
彼の乗車していた車は、一体どこへ消えたのか?
被害者の車の行方、それは最初は大きな謎であった。
だが、それは、すぐに発見された。
なんと、ボーリングの球大の鉄の塊りに圧縮されて、道路の隅に転がっていたのだ。
あまりに変わり果てた姿に、最初は、それが元々は車だったとは、誰も気づかなかったのだ。
信じられない情報を無線で聞く、本田刑事の背中を、冷たい汗が流れる。
「くそっ!!一体、何が起こってるんだ!?」
車窓の外を流れる陰鬱な景色に向かって、本田刑事は吐き捨てるように言った。
彼が運転するパトカーの進行方向、道路の先には、深い闇が広がっている。
雨は、まだ降り続いていた。
[続く]