Chapter2 労力
朝、目が覚めると、食卓に推しがいる。追い出すことができず、結局、一晩泊めてしまった。
「何見てるの?」
「いや、別に」
クールで起伏のない表情。声帯が機械的に刺激されているような、一本調子の声。
「蠱惑な私に見惚れてる?」
「というか、怖くて震えてる」
「怖くない」
アイドルというには、あまりに無表情でぶっきらぼう。声も小さく、ライブのMCもほとんど何を言っているか分からない。
そういう人間味があって、不器用なところも魅力的だったのだが——。
「だって、人間じゃないし」
「見た目は人間と変わらない」
「魂を回収したり、壁をすり抜けたりするのは人間じゃない」
「そういうのは差別」
「差別じゃなくて事実」
潤香ちゃんもとい死神は、ソファに寝そべっていた。すっかり我が家に馴染んでいる。水色のキャミソール姿で、目のやり場に困った。
「君以外の人は家を留守にしてるの?」
「出張」
「そう、警察に」
「出頭じゃない……」
「君との会話はまるで脳トレ」
「あなたが勝手にしてるのそれ」
一泊してもなお、潤香ちゃんが出て行こうとする気配はない。言いたくはないけど、さっさと帰ってもらう必要がある。
「潤香ちゃんはさ、いつまでここにいるつもり? ぼくこれから学校なんだけど」
「君のせいで仕事がクビになって、することがない。もう二度とアイドルはしたくないし、それに何より私は疲れてる」
だらけているようにしか見えない。
「こう見えて、大変な労力を支払ってる。そのうち君も私に感謝する」
「感謝というか、癇癪を起こしそうなんだけど」
通学の準備を済ませ、最後にもう一度釘を刺す。
「とにかく出ていってね、早急に」
「わかってる」
そう言って、潤香ちゃんはぼくにひらひらと手を振る。推しと同宿した、という事実の残滓だけが、いつまでも残っていた。
*****
通学路に出ると、途中で待っていた倉持鈴葉と合流した。
鈴葉は、五歳の頃からの幼馴染だった。付かず離れず、不即不離の仲だ。芸能一家の娘で、彼女の父は事務所の社長をしている。
トレードマークは髪のポニーテールだ。昔は子役だったが、今は弓道部に所属していて、端正な顔立ちからファンも多い。彼女がぼくに向けている感情の正体はわからないけど、征服欲のようなものだと推測している。そのためか、時々、ぼくに対する罪の意識のようなものが見え隠れした。
「昨日のサイン会中止になったみたいね、川村潤香の」
「うん」
「五味はさ、いつか潤香ちゃんが大きな会場でライブをするのが夢なんだよね?」
「うん」
そういう潤香ちゃんの姿が脳裏に映る。歌はお世辞にも上手いと言えないけれど。
「ねぇ、人の話聞いてるの?」
「右から左に受け流しながら聞いてる」
「そういうのは聞いてるって言わない」
鈴葉が射るような視線でぼくを見た。構わず、歩行に専心した。
「鈴葉は怒りっぽいよね」
「怒りっていうのは生の実感、現実存在だという価値の自覚、素晴らしい感情の湧出ってアメリカの作家も書いてたわよ。その点、五味って、すぐ自分一人の世界にいっちゃうわよね。だから私しか友達がいないんじゃない?」
「一言余計」
「世の中に余計な言葉なんて一つもないにょん」
「それのことを言ってるんだけど」
にょんって何だ。
*****
また昼休みに鈴葉と合流する。屋上は、校内の喧騒から独立した静けさがあった。空には樹冠のような雲が浮かんでいた。
「いいかげん、お昼の場所変えない?」
出し抜けに、鈴葉が言った。
「でも屋上は人がいないし」
「そうだけど」
「鈴葉って高いところ苦手だっけ?」
「いや別に」
鈴葉は意味ありげな顔をした。あえて追及はせず、話題を変えた。彼女はすでにパンを食べ終え、紙パックのオレンジジュースを飲んでいた。
「ねぇ、鈴葉は推しというか好きな人の衝撃的な一面を知ったらどうする?」
「私はそういう対象がいないから、わかんない。でも、近所の公園で、同い年の女の子だと思って話しかけて仲良くなったら、男の子だった経験はある」
「それはぼくの話だよね……」
「私たちが出会って、もう十年ね」
「十二年じゃない?」
一瞬、鈴葉が動揺を浮かべた。それからストローに口をつける。
「……細かい数字は別にいいじゃない」
ぼくは、こくんと頷いた。
「それに、私は五味のどんな一面を見ても、そばにいるけど」
「推しというか好きな人が前提だったんだけど、いつのまにかぼくの話になってる?」
「何でもない!」
顔を真っ赤にしながら言うと、鈴葉は屋上を去っていった。
ぼくも屋上から下り、教室へ戻る前に自販機に立ち寄った。
紙パックのジュースを買おうとしてボタンを押したものの、反応がなかった。寒さのせいか、指先に感覚がない。色も変だった。もともと肌は白い方だけど、透明にすら見える。病的なくらいだ。
疲れているのだろう。
流れるように午後からの授業も過ぎ、また帰路に着いた。