Chapter1 蛙化
今頃は推しと会っているはずだったのに、視界には空が広がっていた。ぼくは路上で仰向けになっていた。
サイン会にはもう間に合わない。思えば、今日のぼくは朝からおかしかった。ミントタブレットを三十粒、シャワーを十回、服の試着は四十回行った。具合が悪くなり、出発が遅れた。寒気と吐き気で、まっすぐ走れなかった。ふらついて、身体が車道側に傾いた。
大体、こんな経緯だ。ぼくがトラックに轢かれそうになったのは。
間一髪で衝突は避けたものの、ショックで意識がショートした。ようやく復旧したとき、目の前に人がいた。
「大丈夫?」
少女が丸い瞳で、ぼくを覗きこんでいた。グレーのキャップを被り、眼鏡をはめていた。どこか、推しの川村潤香に似ている。
「どうしたの?」
「トラックに轢かれそうになったんだ。腰が抜けて、立ち上がれなくて」
「必要なら手垢を貸すけど」
「いや、そんなもの貸されても……」
少女の手が伸びる。まるで胎児が最初に見る光景みたいだ。差し伸べられた手を取った。
まだ全身に力が入らず、彼女の補助で、歩道まで移動した。
童顔で、桜色の薄い唇に、小さな体躯。絹糸のような髪がプリッツスカートに枝垂れ落ち、ちょうどクッキーサンドみたいに、厚みのあるまぶたと涙袋が眼球を挟んでいる。
「本当に助かったよ」
砂利を払いながら、ぼくは言った。
「よかった、君が死ななくて」
「ありがとう、心配してくれて」
「子供たちが嫌なものを見ずにすんだ」
……ぼくの心配ではないらしい。
少女が長い髪を払う。繊維がほぐれるように、髪が散らばっていく。
「じゃあ私は先を急ぐ」
「うん、ありがとう」
「礼には及ばない、つまずく石も縁の端くれ」
「誰がつまずく石だ」
踵を返し、少女はその場を去っていった。機械音声みたいな話し方まで、推しの川村潤香にそっくりだった。
*****
妙な少女と別れたあと、急いでサイン会の会場へ向かう。
午後一時から開始する予定になっていたけど、もう間に合いそうになかった。それでも懸命に腕を振った。母さんのヘアゴムで束ねた前髪が、走る度に揺れる。インナーのTシャツに汗が滲んだ。潤香ちゃんのライブグッズだ。
会場に着いたのは一時二十分だった。都内のアイドルショップだ。店の前に人だかりがあって、喧騒が広がっていた。たまたま近くにいた男に声をかける。
「何かあったんですか?」
「潤香ちゃんがサイン会をドタキャンしたみたいなんだ」
ちょうど、スタッフらしき男の声が店頭から聞こえた。「潤香が遅れています! しばらくお待ちください!」
「それにしても君かわいいね。名前は?」
「五味です」
「ゴミ? 女の子のファンってめずらしいし、このあと一緒にカフェ行かない?」
「いや、結構です……」
ナンパされていると、スタッフからのアナウンスが再度行われた。
「未だに潤香本人と連絡がつかす、消息が掴めない状態です。足をお運び頂いた皆様には大変申し訳なく……」
しばらくして、サイン会は中止が発表された。
*****
ボロボロの服のまま、悄然と帰宅した。まるで、敗走を余儀なくされた兵士だった。
タイミングよく、家の中は全員留守だ。ゆっくり落ちこもう、などと考えていると、玄関の前で呼び止められた。振り返ると昼間の少女がいた。「ねぇ」
「あれ、さっきの」
「君の家に泊まらせてほしい」
「え……?」
「帰るところがなくなった」
「何なのさ、急に」
無視をしようにも、進路が塞がれていた。
「君にとっても悪い話じゃない」
「どうしてそう思うの?」
「だって私のライブグッズを着てるから」
その言葉に、慄然とする。間断なく、少女が帽子と眼鏡を外し、素顔が露わになる。
間違いない。本物の川村潤香だ。
「川村潤香……?」
「うん」
頭が真っ白になった。何とか、会話を続けようとする。
「……潤香ちゃんがぼくに何の用?」
「サイン会が中止になった件で、さっきまで事務所で大人たちに怒られてた。プロ意識に欠けるって」
「そうなんだ」
「で、クビになった」
「え……?」
思考が散逸して、まとまらない。
「全部君のせい」
「どういう?」
いまいち話が見えなかった。見たくない、というのもある。
「あのとき君を助けたせいで、私は道を外れて迷子になった。スマホの充電も切れてたから、サイン会に行けなかった」
「……言いがかりだ」
「事務所で寝泊まりしてたから、帰るところもない。同性だし、君のところに泊まっても問題ないはず」
「ぼくは男なんだけど」
潤香ちゃんの瞳の中にぼくが映っていた。目視はできないけれど、その中のぼくの瞳にも、潤香ちゃんが映っているはずだ。
「それに部屋も散乱してるし」
「君の部屋って産卵するんだ。見せて」
「……帰って」
「素直に言うことを聞いた方がいい。私は死神」
「もしかして、もう新しいキャラ作り?」
「キャラじゃない」
ところで、どうしてぼくの自宅がわかったんだろう、と、ぼんやり考えていると、潤香ちゃんが背後を振り返って言った。
「見て、犬が倒れてる。今日の君みたいに」
「今日の君みたい、は余計だ」
ぼくの横を通り抜け、路上の野良犬に潤香ちゃんが駆け寄った。多分老衰だろう。力なく、動かない。
「ねぇ、駆け寄ってどうするの?」
「私が死神だっていう証拠を見せる」
「まだそんなこと言って……」
呟きながら、彼女の方を向いた。振り向いたときには、すでに空に浮いていた。巨大な鎌が右手に出現し、全身が黒いローブに包まれていた。凝然としながら、目をこする。
それは、イメージから一歩も逸脱しない死神の姿だった。
「今から、この子の魂を回収する」
老犬に鎌が振り落とされる。その肉体を貫くと、白くてぼんやりとした縁取りの球体が、空に浮かんで吸いこまれていった。老衰した犬の魂なのかもしれない。
目を疑うようなことが、立て続けに起きていた。
鎌を持った潤香ちゃんがぼくに向き直る。それが本来の姿なのか、白骨化し、眼窩から眼球が消えていた。推しのすっぴんがドクロだった。
みるみる血の気が引いていく。
「それで泊めてくれる?」
「……無理。蛙化したから」
「どういうこと?」
「好きじゃなくなったってこと」
急いで、家に駆け込んだ。ドアを閉め、厳重に鍵をかける。気持ちを投げ打つように、ソファに倒れこむ。
「嵐のような一日だった……」
呟くと、後ろから声がした。
「木星の嵐は四百年続いてるっていうから、それに比べたらマシ」
視線を向けると、部屋に貼られたポスターと全く同じ顔があった。
「何でここに? ドアの鍵はちゃんと閉めたはず」
「私はどんな壁もすり抜けられる」
人間の姿に戻った潤香ちゃんが、そこに立っていた。さっきの姿とオーバーラップし、腰が抜けてしまう。
「言ったはず、私は死神だって」