帰路
電車の入り口からすぐ近くの座席に腰を掛けると、一気に体の倦怠感が襲ってくる。
喫茶店の出来事で今日のデッサンで酷評を貰ったことをすっかり忘れていた。
まじまじと私のデッサンをみた教授は一言、「君のデッサンにはどこか焦燥感を覚える。」と言われてしまった。
その一言が私の脳内で反芻する。
昨夜、柾上先生も似たようなことを言っていたような気がするが、そこまで自身の筆に乗るほど追い詰められている状態だとは思わなかった。
何かと認めたくない自分もいるが、二人の人に似たようなことを言われてしまったのは、堪えるものがある。
もう少し内観する必要があるのかもしれない。
これでしか生きていけないのだから、こんなところで躓くのはらしくない。
ふと、目の前の席に1人のサラリーマンが携帯を眺めながら、深いため息を吐くのが見えた。
彼の顔には、はたから見てもわかるほどに疲労感が募っている。
携帯を触る彼の手は、時折一時停止をして、そこに打ち込まれる文章に頭を悩ませている様子だ。
彼の後ろにある車窓から外を眺めると、嫌なほどにビル街は日光を反射し、こちらに向かってその明度を自慢している。
電車が一つ目の駅に到着したところで、あのサラリーマンの彼が急いで席を立った。
彼は席を立つと同時に携帯を耳に当てて、何やら謝罪を述べながら電車から降りていった。
彼の姿が、先ほど見ていたよりも小さく見えるのと同時に自身の未来のようにも見えた。
私もいつかあのように誰かに頭を下げながら、生きていくのかもしれない。
そう思うと、とてつもなく体がそれを拒んでいるのを感じた。
もし、そんなことになってしまったら私はその世界で息をする資格すら失ってしまう気がする。
私にとって筆やパレットナイフを持つことは、呼吸である。
それらを自らの手で離すことは、深海で酸素ボンベを離すことと同義であるのだ。
そう結論付けたところで、自宅の最寄り駅に電車が到着した。
電車の降り口が開き、重い体を持ち上げながら席を立つと、外からの熱気が一気に電車内へと侵入する。
すでに溶け切った氷の入ったタオルを握りしめながら、駅のホームへと降りて急いで改札に向かった。
改札を通って駅から出ると、頭がズキズキと痛んだ。
一度駅にある自動販売機から水を買って飲み、自宅まで急ぐ。
途、ベンチにでも腰掛けようかと思ったが、座ってしまってはもう動けないような気がしたため、やめておくことにした。
息を切らしながら、やっと見慣れた深い緑色のドアを開くと、安心する絵具の香りと紙の香りに包まれ、廊下に倒れ込んだ。
冷房もつけていないせいで廊下は酷く蒸し暑いが、今は動けそうにもない。
その場で私は眠りに身を任せた。