名前
静かな店内は、どこか幼少期を思い出す長閑な時間だった。
幼い頃に風邪をひいて、学校を休みリビングのソファでじっと母が家事をしているのを見ていたのを思い出す。
黒くてぼさぼさの髪を一つに縛った母は、せっせと洗濯物を畳んでいる。
たまに目が合って「どうしたの?辛いのかな?」と私のそばに寄ってきて、額に手を当てる。
私は、そんな母の手の温度を感じながら、そっと目を閉じてまどろみに浸りながらこの時間が一生続けばいいとさえ考えていた。
しばらくそんなノスタルジーに浸っていると、隣からカランという軽い鈴の音が耳を通り抜ける。
目を開きそちらを見遣ると、松田さんが店から出るところだった。
私に気づくと彼は、帽子を右手で上げ、会釈をした。
「またね、松田さん。」
彼女がそう声をかけると、松田さんは少し後ろを見てまた会釈をし、店から出て行った。
先ほどまでとは違う何とも言い難い重い空気が喫茶店に漂っていた。
いや、そう感じているのは私だけのようで、彼女は鼻歌を歌いながらコーヒーを淹れていた。
私は、居ても立っても居られず重い腰を上げた。
彼女は、そんな私に気づくと、カウンターからこちらに駆け寄ってくる。
「もう、大丈夫ですか?もう少しゆっくりしてても大丈夫ですよ。」
彼女の問いかけに私は、首を振った。
「あまり長居するのもよくないので、今日は帰ります。」
彼女に氷の入ったタオルを返しながら、私は礼を言った。
「せめてこの氷は持っていってくださいな。返さなくても大丈夫ですから。」
彼女は私の胸元に氷の入ったタオルを押し返す。
「でも、悪いですから。」
私が再度押し返すと彼女は、再び押し返してきた。
「本当に持って帰っても大丈夫ですので!」
少しムキになっているのか、眉根を寄せて頬も少し赤らんでいる。
女性にこんな顔をされるのが初めてで、どう言葉を述べていいものかと悩んでいると、彼女はハッとして下を向いた。
ほんの数瞬、気まずい時間が流れたが、私はそのまま彼女から突きつけられた氷の入ったタオルを受け取った。
「かた、かたじけない。」
もごもごと口を吐いて出てきた言葉に冷や汗が出る。
自身の口から出てきたとは思えないほどに上ずった声と言葉に驚いてしまった。
こちらを見上げる彼女も同じく目を見開いていて、驚く私と目が合う。
その直後、彼女は思い切り吹き出し、お腹を抱えて笑い出す。
私も彼女の姿を見て、思わず吹き出してしまったが、笑おうとすると喉に虫でも住んでいるかのようにこそばゆくなり、何度も咳が出る。
咳が出ても、あまりの可笑しさにしばらく笑いは止まらず、むせながらも彼女と笑いあった。
10秒ほど笑った後に彼女は真っ赤な顔を両手で仰ぎ、息を整えた。
「ふう…初めて現実で聞きましたその言葉。」
彼女は、そこまで言うと、また口に手を添えてフフッと笑う。
だんだん照れ臭くなってきて、後頭部の髪を撫でた。
私のそんな仕草を見ながら、彼女は「あ」と言葉を漏らすと、両手をお腹の前で丁寧に重ねて、「咲川 藍と申します。また、あなたとは出会えそうな気がするので、一応自己紹介です。」と、これまた丁寧に挨拶を返してくれた。
今更かなと、彼女はまたくすくすと笑う。
私も咳ばらいをして「私は、宮沢 飾です。」と、返した。
彼女が「かざり?」と聞き返してきたので、頷くと彼女は「素敵な名前。」と呟きながら、まるでそこに映し出されている文字の羅列を眺めるように、何もない空間に視線を揺蕩わせる。
満足したように頷くと、「病人をあまり長居させるのは、良くないですね。ではまた。お気をつけて。」と、彼女はそういうと手を小さく胸元で振った。
私は、「はい、また。ありがとうございました。」と返し、店のドアを開ける。
カランという軽い鈴の音を聞き、私は店を後にした。
外に出ると、眩しさに思わず目を細めた。
太陽はほぼ真上で燦燦と輝いている。
先ほどまで涼しい店内にいたからか、体中から汗が吹き出してきた。
こめかみから顎にかけて滴り落ちてくる汗を拭うように氷の入ったタオルを押し当てる。
ひんやりと冷たく、少し溶けた氷が水分となって体の曲線によく馴染んだ。
ゆっくりと駅まで歩みを進めようとした時、悪寒が背筋を通る。
体が悲鳴を上げているのが、関節や頭から言葉通り痛感させられた。
私は、彼女との出会いを思い出しながら、速足で歩みを進めた。