出会い
「忘れているとは、何のことでしょうか?」
息を切らしながら、私は老人に問う。
老人は、カップも一緒に持ってきていたようで一口コーヒーを含んで、飲み込み唇を濡らした。
「これは経験則…いや、勘だろうかね。」
そういいながら、じっと私の目を見る。
「心当たりは、ないのですが。」
私がそう答えると、老人は笑った。
「まあ、私もその時まで忘れておったよ。彼女の言葉に出会うまでな。こんな老いぼれだ。生きてきた時間なんて、永遠のように長い。
忘れるものも時間に比例して多いのだよ。
でも、思い出せた。」
「彼女の言葉で?」
「その通りだよ。だからね、君も何か忘れているんだよ。」
そう彼が言うと、カウンターの奥から彼女が顔を出した。
カウンターからこちらの席に向かってきながら、彼女は声を上げる。
「松田さん。お話しちゃダメだって。病人は喋るのにも体力を使うんだよ。」
彼女がそういうと、老人は「へいへい。」と言いながら、カウンター席に戻っていった。
その老人は、『松田』という名前であることをこの時初めて知った。
「はい、氷とお水です。」
透明なガラスコップに入った水をテーブルに置き、丁寧にタオルで包んだ氷を手渡してくれる。
「ありがとうございます。」
私はそれを受け取り、額に当てた。
乾いた土に水が染み込んでいくように、氷の冷たさが心地よく額に溶ける。
この調子では、やはり大学は早退して正解だったのかもしれない。
「そういえば、さっきの質問ですが…」
彼女が改めたように私に視線を合わせる。
どこか恥ずかしそうに頬を染め、彼女は口元を結んだ。
「あ、それならさっき松田さんが…」
私がそう答えると、松田さんはビクリとしてこちらを向く。
「え!もう言ったの?」
彼女がそういうと、松田さんは白髪を撫でながら笑みを溢す。
「いや、だってそのまま有耶無耶にされてもどかしそうだったから。」
松田さんは、ごめんごめんと手で謝罪をする。
彼女に怒られている姿は、傍から見ると孫と祖父のようで実に滑稽だった。
「まあ、言われたものは仕方ない。そういうことです。」
彼女は、息を吐くようにそう答えた。
「はあ…そうでしたか。」
何となく相槌を打つと、彼女は照れ笑いをして席から離れてカウンターに向かう。
「あ、しばらくゆっくりしててください。どうせ人も少ないですし。」
彼女はカウンター越しにそういうと、何やらカウンターで作業を始めた。
静かな時間が流れている店内を見回す。
コーヒーの匂いとケチャップか何かを炒めている音を聞きながら、私は目を静かに瞑った。