忘れている人
大学近くの駅までは徒歩で10分ほどで着くが、今の体調から考えると、15分は見積もっていたほうがいいだろう。
私は、携帯で電車の時刻を確認した。
平日の昼間だからか、本数は朝や夕方に比べて多くはない。
(30分もかかるのか…)
私は深くため息をついて、駅に続く商店街を歩いた。
商店街の中は直射日光がアーケードで遮断されているからか、お店の冷房でそうなっているのか、中はかなり涼しい。
風邪をひいているせいで、ベッタリと背中や顔にかいた汗がヒンヤリと冷たくなる。
私は、少し身震いをして、背中を少し丸め商店街を歩く。
背広を着た男性や長年愛用しているのだろう、年季の入ったTシャツを着た主婦が私の横を通り過ぎる。
レンガで敷き詰められた道には、頭上のアーケードが反射した赤や黄色の花が咲いており、人型の影がその色を隠す。
ふと、鼻先をくすぐるいい匂いが漂ってきた。
顔をあげて、匂いの方を辿ると、二軒先に喫茶店がある。
昼前の時間だから、今のうちに下準備などを行っているだろう。
(こんな所に喫茶店などあったのか。)
生憎、今の私は胃まで弱り切っているせいで、食べ物を欲していない。
近日中に寄ってみようかと思案しながら、喫茶店を横目に確認した時、扉の斜め前に看板が置かれているのを見つけた。
いつもならそこまで気にしないものだが、そこにはチョークで店名とメニュー、そして手書きで文章が書かれていた。
「朝方の星、欺瞞の光を睨む」
私はすぐに身体を右に向けて、喫茶店の店内に入った。
カランと軽い鈴の音色と涼しい風が首元を通り過ぎる。
「いらっしゃいませ。」
銀色の眼鏡をかけた黒髪の女性がカウンターからこちらに声をかけてきた。
カウンター席に、白髪の老人の男性がゆっくりとコーヒーを啜っているだけで、ほかに客はいなかった。
私は、息を吸い込み声を出す。
「看板の!」
思ったよりも大きな声が出た。
カウンター越しの彼女は目を見開き、老人も私の方へ振り返る。
「あの詩を書いたのは、あなたですか…!」
そこまで発すると、頭の重みでフラッと体が揺れ、自分の体を立て直す力もなくドアに寄りかかった。
彼女は慌てて、カウンターから私の方へ駆け寄り体を支えてくれる。
「その子、熱が出てるんじゃないかな。目がね、充血してる。」
老人がそういうと、彼女は私の額に手を当てて、体温を確かめてくる。
少し冷たい彼女の手に心臓が脈打つのを感じた。
「すごい熱!」
彼女はそういうと、すぐに店内のソファまで誘導してくれる。
革張りのソファーは、彼女の掌よりも冷たく、私の体にすぐ馴染んだ。
私はそのままぐったりとソファに身を任せた。
「ここで休んでてください。すぐに冷たいお水と氷持ってきます。」
速足で彼女はカウンターの奥の扉へと入っていった。
その後ろ姿を見送り、私は深く息を吐きながらテーブルの木目を眺める。
全くらしくないことをしてしまった。
先ほどの行動に少しばかりの後悔と大きな羞恥心で心がかき乱され、肩を落とした。
この一部始終を見ていた老人は、何を思ったのかふと気になり、カウンター席に目を向けようとすると老人は私の前の席に腰をおろしていた。
驚きのあまり、少し体を仰け反ると、老人は穏やかに笑みを浮かべて、「君も忘れている人なんだね。」と、笑った。