まどろみ
お酒に酔っている人や仕事終わりのサラリーマンが、次々と私の横を通り過ぎ、何とも言えぬ孤独感に苛まれる。
何になりたいのか、そう問われた先生の言葉が私の頭に木霊する。
私がそもそも絵を描き始めたのは何故なのか、きっかけがどうしても思い出せないのだ。
もっと今よりも純粋で美しいものだったはずだったんだ。
でも、今となっては将来の不安ばかりが募ってどうしても純粋にそして盲目的に絵を描くことが出来ない。
だんだんと街の街灯がモザイクのように淡くなっていくのを感じる。
今すぐにこの場で寝そべりたい衝動に駆られるが、体を奮い立たせて、何とか一歩一歩歩みを進めた。
先生と別れてから気が抜けて、一気に酔いが回ったような気がする。
今の私は、この深い藍色に染まった世界を当てもなく歩くゾンビのように見えているのだろうか。
なんて陳腐な考えなんだろうか。
でも、あながち間違いではないような気もする。
いつから私の脳みそは阿呆に侵食されていたのか。
そんなことを考えていると、笑いが止まらない。
何て阿呆だ。
私は、生きる価値がないゾンビの阿呆だ。
おかしい、おかしい。
声高らかに笑っていると、一瞬の浮遊感に襲われる。
その瞬間、さっきまで見えていなかった地面に視界が満たされる。
どうやら、ただ1cm浮いていただけの石レンガに躓いて転んでしまったらしい。
酒とは不思議なものだ。
微塵も痛みを感じない。
しかし、心臓はバクバクと脈打っているのは、頭が痛くなるほどわかる。
何て矛盾だろう。
先ほどまで自分をゾンビか何かだと感じていたが、今、この脈を感じているうちは生きているのだと、ただただ実感してしまう。
ああ、生きている。
先ほどまでゲタゲタと笑っていたのに、今度は目が熱い。
どうしようもない寂寥感に襲われる。
こんなにも惨めな人間が他にいるだろうか。いてたまるものか。
まるで道に迷い、両親を見失った子供のように私は、声を上げて泣いた。
大の大人がこうして声をあげて泣くのが、さほど珍しいのか、通り過ぎていく人はみなまじまじと私の顔を見ていくが、肌の赤みを見てただのよっぱらいかと歩みを止める者はいない。
確かに感じるのは冷たい雨と頬に当たる生暖かい涙の温度だけだった。
ひとしきり泣いた後に、私はのろのろと立ち上がった。
アルコールが涙から流れ落ちてしまったからか、体が軽く、濡れて信号機や車のライトを反射させるビル街すらも滑稽に見えてくる。
先ほどまで笑いむせび泣いていたとは思えないほどに理性的な目線になったことに気づき、あの醜態をひどく恥じた。
早くこの場から去ってしまおうと体を持ち上げ、そそくさと自宅を目指して歩く。
ビル街から見慣れた住宅街が見えてきた。
学校帰りには、家々から晩御飯の匂いや賑やかな子供たちの声が聞こえてくるが、この時間になれば、どこの家も静かである。
薄暗い住宅街には哀愁すらも覚えるが、彼らにはまだ明日を待つ余裕がある。
僕にはこの時間すらも地面がぐらつきそうなほど孤独を感じるというのに聊か腹が立つが、無機物にここまで感情を逆立てられるのは、それこそ阿呆になってしまう。
ここは、暖かな布団に蹲り、眠りにつく想像で頭を忙しくすることにした。
家の前までつくと、どこか安堵感を覚えた。
深い緑色をした玄関は少し剥げて銀色の部分が見えている。
長くこの位置に鎮座していた歴史を感じるこの玄関を気に入ってここに住み始めたが、もうその軌跡すらも見るのは億劫になった。
鍵を開けて中に入ると畳の匂いに包まれる。
このまま畳に寝転がりたくて仕方ないが、肌に張り付いて気持ちの悪いワイシャツを脱がないと、畳に黒カビでい人型の染みを残すことになっては、まるで浮かばれない死者のようになる。
それだけは勘弁だと急いで風呂場に向かった。
濡れたシャツを洗濯機に入れると、体をタオルで拭いて部屋に向かった。
1DKの部屋には対して家具はなく、アクリル絵の具やらキャンバスやらが散乱している机と敷きっぱなしにしている布団があるだけだ。
こんな部屋には到底人は入れられまい。
私は、私にしか使われることのない布団にそのまま倒れ込んだ。
まだ生乾きの髪は気持ち悪いが、今はまどろみの中に飛び込むことで忙しい。
焦燥感や嫉妬なんてものは、眠ってしまえば関係ないのだ。
先生が言っていたように感情のままに描くことが出来るのならば、このまどろみの現実すらもあやふやになった世界を描きたい。
濡れて街灯が反射したビル街も、話を弾ませるアルコールも、先生の意見も同志も何もこのまどろみには勝てないのだ。