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柾上先生

どうしようもなく、酷い感情に駆られる時がある。

それは、わかりやすい要因があるときもそうだが、無いときも大いにあるのだ。

その時はなぜか盲目的に誰からの声も耳に入らないことが、この感情をさらに悪化させている。

ならば人様のありがたい意見を聞けという声を上げられるのもわかるのだが、最も先人の意見というものは何も自分に響きはしない。

これは不思議なもので自分が慕っているものの言葉でさえ、耳からどんぐりのように転げ落ちていくのだ。

つい最近もありがたい言葉が耳から転がり落ちたことがあった。


「そりゃあ、嫉妬だな。」

そう言葉を述べたのは、予備校時代に私に絵の技術的な面はもちろん筆の持ち方までを教えてくれた柾上まさかみ先生だ。

今では予備校を卒業し、美大に合格してから、授業やらバイトやらに毎日追われているが、恩師である柾上先生の呼び出しはどうも断れない。

きっと、それは柾上先生への恩もあるのかもしれないが、第一不快なことには触れないという彼の人柄に心が落ち着くのだ。

今日もまた柾上先生に呼び出され、焼肉屋でこうして晩酌をしながら、最近周りの生徒が自分より劣っているのに、自分より評価されていることに腹を立てながら愚痴を漏らしていた。

そんな中でのあの先生の発言だ。

「嫉妬というのは、あまり認めたくはないですね。」

私がそういうと先生はガハハと、大口を開けて笑った。

「まあ、認めるのはかなり時間を要する問題だよ。嫉妬という感情はね。」

先生はそこまで言うとうまそうにビールをごくごくと飲んだ。

「先生、それは私がまだ若いからこの苛立ちという感情を持ち合わせていると言いたいのですか?」

私は、先生が小皿に運んでくれたカルビを箸で突いた。

「まあ、そうとも言えるな。最も、君が忌み嫌う若さというものだ。」

「若いんだから…というのは、若者が希望や夢に溢れているという固定概念に囚われた老人がいうものですよ。」

「おや、まだ40代で腰も曲がっていない私に老人というのは的外れだな。」

ビールで顔を真っ赤にした先生はまたガハハと笑った。

「私はただ、私よりも絵を描いてきた経験もないものが過大に評価されていることが許せないんですよ。」

「でも君と同じ美大に合格し、君と同じ学び舎で学んでいる者だろう?」

「まあ、それはそうですが。」

私が口ごもると、先生はまた店員を呼び止め、ビールを頼んだ。

「そんなに飲んで大丈夫ですか。先生。」

「おや、君も家内みたいに止めようたってそうはいかないよ。」

「先生を怒るのは、奥さんの仕事ですからね。」

先生は、眉毛を曲げながら、「それもそうか。」と、新しく来たビールをごくごくと飲んだ。

「さて、話を戻そうか。

君の苛立ちは相当なものだと、僕も感じてはいるよ。

周りが自分よりも先に進むのは、焦燥感もあるしな。

ただ、絵を描くものはみな絵に熱中し、絵に対しての評価を自分の評価だと勘違いする節があるだろう。

作品は作者の評価に付随しないという論は、逆なことも忘れてはならないのだよ。」

「ああ、先生が口を酸っぱくしていったテクスト論は、もちろん忘れてはいませんよ。しかし、今の義務教育で習うものはみな作者の意図を読めというでしょう?」

「それもまた芸術としての見方だし、否定するつもりは私にも毛頭ないがね。ただ、それで気を病むものも大勢いるのだよ。」

「気を病むようなものに作品を描くのは向かないですよ。文学も絵画も。」

「それは、何人もの芸術家を殺す発言だよ。もちろん偉大な芸術家たちも気を病み筆を折るものも大勢いたから、確かに向かないという考え方もわかるのだが。

ただ、君は、少し焦燥感に駆られてひねくれてしまっているのではないか?」

「ひねくれてなどいません。もともとこういう考えを持っていたのですよ。私は。」

もうかなり時間がたち、冷え切ってしまったカルビを口に放り込んだ。

脂身が少しきつくなってきたのに、先生はまだ私がカルビを好きだと思い込んでいる。

「まあ、なんだ。要はな、焦燥感や嫉妬は、大事な燃料になる場合もあるが、あえて作品と評価を切り離すのも手なんじゃないか?

構図や色彩に囚われていると、自分の描きたいものも断捨離してしまうだろう?」

「絵を教えている先生が、そんなことを言っていいんですか?」

「ああ、もちろん学び続けることは大事だよ。ただ、筆を止めるくらいなら感情に任せて描くこともまた学びになると言いたいんだ。」

「それは、私にとって難しいですね。」

「ああ、君の描き方はなぜか理論的に描いているように見える。芸術というのはもっと情に任せて描いてもよいのだよ。」

「私は感覚派な芸術は嫌いなのでね、そんなので描けた気になるのは天才か阿呆かの二択ですよ。」

「君は相変わらずお堅いね。じゃあ、君が最終的に目指す芸術家というのは何だね?」

「それは…」

私は、考え込む。

そういえば、私が最終的になりたいものって何なのだろうか。

ピカソのような天才か?それとも、葛飾北斎のような圧倒的観察眼の持ち主か?

いやいや、そんなのは誰かの模倣に過ぎないじゃないか。

じゃあ、何になりたいのか。

「君に足りないのは、まずそこだよ。そこがわからないと君のその怒りは定期的に帰ってくるだろうな。

さあ、名残り惜しいが、そろそろお開きにしよう。家内にこっぴどく叱られてしまう。」

先生は立ち上がると、伝票を持ち、そのまま会計を済ませてしまった。

店から出るとぽつぽつと小雨が降っている。

「先生、すみません。ごちそうさまです。」

「いや、いいんさ、悩める若者に払わせる金はねえ。」

「またそうして若者扱いをしますね。」

先生は、ガハハと笑いながら道路の方に出て、タクシーを止めた。

「乗ってくか?」

「いえ、すぐそこなので大丈夫です。」

「そうか。風邪ひかないようにな。」

「はい、先生も。」

「ああ、じゃあ、お休み。またな。」

「はい、また。」

先生を乗せたタクシーは、まっすぐ道路を進み、あっという間に車の川に流されていった。

私は、背中を丸めて、なるべく速足で帰路につく。

ぽつぽつという小雨がノイズに聞こえる夜だった。

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