序章 回想その三
「だから大丈夫ですって」
「まあ確かに目立った外傷はないものねえ…」
「でもお前、ちょっとぼーっとしてるしおかしいぞ?」
ソフト部の監督と保険の女医が心配そうに見つめる前で、彼女は愛想笑いを全開にしていた。
あの状況を考えればむしろ彼女の外傷が、目だったものどころか小さなかすり傷すらないという事にむしろ怪しさを感じてすらいたので、保険医も監督も執拗に彼女の安否を尋ねた。その度にどこかぽかんとした返答しか帰ってこないので、監督の方はやや苛立ってすらいた。
流生はといえば、彼らが何かを喋っている事は分かるのだが、ほとんど上の空で、それよりも自分の拾ったものが何なのかばかり考えていたのだ。
(もしかしたら、すごいものを拾っちゃったんじゃない?)
もし本当に自分の予想通り、拾ったものが“種”であるなら、地面に埋めて育ててみれば一体どんなものが育つのだろう。
「なんだかよく分からんが、お前はもうちょっと先生に診てもらいなさい。それでは先生、わたしはソフト部の方がありますので」
部活の顧問は大会を前にしていろいろとしなければならない事があるのだろう。流生も陸上部のマネージャーなのだから、急いで部活に向かわなければならないはずだ。
「診るといってもねえ…ちょっとぼーっとしちゃってるのが気になるけれど、視線も定かだし脳に異常はないみたいなのよねえ」
「だからほんと大丈夫ですってば」
とりあえず今日は寮に戻って休みなさい、と言う女医の言葉をありがたしと受け取って、彼女は自分の部屋に帰ろうと思った。
この女医がわざわざ連絡をしてくれるとは思わないが、陸上部の顧問には事後説明で充分だろう。それよりまずはこの“種”を何とかしたい。
(あ、そだ)
「先生、植木鉢とかある?」
ふっと思いついて女医に尋ねると、女医が戸惑いながら反復する。
「植木鉢?いきなり何なのよ…」
「とびっきり大きいヤツで!」
不思議そうにしながらも女医が差し出したバケツ大のゴム製植木鉢を引っさげて、彼女は意気揚々と保健室を飛び出した。
「頭打ったせいで何か閃いたのかしら?」
やや変なことを女医が呟いていた気がするが、そんな事も気にならないくらい彼女の気分は高揚していた。
(地面に埋めるのはやめたっ!やっぱり植木鉢に入れて、一人で鑑賞するのがいいよね!)
何かを育てるなど、小学生以来である。現在彼女が暮らしている寮では生き物が禁止されているためにペットなど飼った事もなかったわけだが、植物なら―――まだ植物と決まったわけではないのだが―――問題はないはずだ。
(植物に必要なのは、土と水と太陽でしょ? )
とても乱暴な考えだが間違ってはいない。
こういうときに委員長としてあちこち校内を歩き回っていた経験が活きる。
軽やかな気分だ。心もち身体も浮き立つような感じがした。
「土って言っても、何でもいいわけじゃないんだろうなぁ…校庭の土じゃさすがにまずいんだろうし」
ひとつ、思い当たるところが彼女にはあった。
両手で大きな植木鉢の端っこと端っこを掴みながら、彼女はよたよたとその方向へ走る。
身長もさほど高くなく、背も低めの彼女のそのような姿はやもすれば「転んでしまうよ」と声をかけたくなるが、そのときの彼女の顔は活き活きしていたので声をかけようという気にはならなかっただろう。遠目に保健室を出て行った姿を確認したソフト部の顧問の顔も、一瞬怪訝そうにはなったがそれでも一安心という表情で彼女の後ろ姿を見送っていた。
もちろんそんな事は彼女の頭の片隅にもなかったわけだが、事実として今彼女の気持ちが“最高”なのは間違いなかった。
後で思い返すと自分がなんでそこまで興奮していたのか彼女にはいまいち思い出せなかったくらいなのだが、冷静に考えればそのときの流生はわけも分からず嬉しかったので、そんな唐突なノリの自分に付き合わされた聡雅は、本当に「なにがなんだかよく分からなかった」に違いないと思うのだった。
「まだ動いてたっ」
裏校舎の方へノンストップで走ってきた彼女は、少し息を荒くしながらもパッと顔を明るくする。
それは堆肥マシーンと呼ばれ、生ゴミなどの有機材を分解する機械なのだった。
「良かった…」
渇いて張り付いた喉を無理やり飲み下して、機械を見る。上の蓋は有機素材を入れる場所だ。
「土は下から出てくるのかなあ?」
覗きこんでみる。どうやら何層かに分かれているようで、土は下の方に溜まっているようだった。
辺りを見回して、適当なシャベルとゴム手袋を見つけると、早速下層の蓋を開けて堆肥を取り出そうとする。
「うっ…くっさ」
堆肥特有の鼻を刺すような、酸っぱいようなざらざらした匂いが流生の鼻腔を襲う。
渋い顔をしながら植木鉢の方へ移していく。
そのときだった―――背後から気だるそうでありながらのんびり落ち着いた低質のテイストの声が、彼女の鼓膜を揺らした。
「堆肥ってのはそんなに使わねえんじゃねえか」
「わっ」
慌ててシャベルを取り落としそうになる。
「基本的に肥料よりもただの土の方が割合は高いって聞いた気がすんぞ。まあ俺は詳しくないから知らねえが」
振り返ると、Yシャツ姿で腕をまくった、重そうな瞼を引っさげた短髪の少年が立っていた。
いわゆる“チャラ男”には見えないが、かといってスポーツ系にも見えない。髪型もスポーツ刈り程短くもないが、しかし長いのかと言うとこれは確実に違う。ツンツンした丸い頭だ。
それでも彼女が一瞬不良を疑ったのは、彼の左の耳に大きく開いたピアスの穴を見つけたからである。縦に三つも空いていて、それが彼女にほんの少しの警戒心を作った。
(ていうか髪微妙に緑だしっ)
それは陽光に当たったときに見える色で、以前に散々髪の色をいじった事の証拠である。黒染めで隠しているが、陽光に当たって変色して見えるのだ。
横殴りの陽光に照らされて、片側の髪が緑がかって見える、巨大ピアス穴を三つも開けた少年―――(間違いなく不良だ!)
陽光に照らされて、Yシャツの下に着ているクルーネックのTシャツが、少年の首元で紺色に光っている。
彼女はこの少年を知っていたが、少年も彼女を知っているようだった。
「ええと…聡雅、君?」
便宜上敬称はしっかりつけておく。
(この人、ちょっと怖いのよね…)
二人は同じ学年で同じクラスなのだった。取得している単位科目が異なるため、ホームルーム以外では滅多に顔を合わせないのだが、それでもやはり同じ教室にいることには変わりない。
孤独というわけではないのだが、どこか決定的な所で他人と交わらない姿は、彼の印象を作りにくくしていた。結果、流生の周囲は彼のことを“よく分からん”“謎。特に私生活が”などと評しているのだった。
特に部活などをしているわけでもなく―――恐らくアルバイトをしているのだろうが―――協調性があるのかと問われればとてもそうは見えない。しかし教師に対して反抗的であるという事もなく(むしろ彼は成績が良く、たいていは上位五位の内に名を連ねているのだ)大人しく講義を聴いている姿しか彼女は見たことがない。とはいえその姿も決して教師に従順であるというよりは、どこか何もかも斜に構えているような―――どう足掻いたって自分はここにいるしかない、と諦めているかのような―――そんな印象を彼女は受けた。
以前にこんな話を聞いた事があったのを思い出す。
「一言で言って、“怖い”のよね。何を考えてるのかよく分からないから、彼の前で迂闊な事を言っちゃいけない感じ。もし言ったら彼は『ふん』と鼻を鳴らしてこっちを見下してきそうな気がするのよ。それもむかつく感じじゃなくって、ズバリ言い当てられて胸が痛い感じっていうか…とにかく彼の前では油断も隙も見せられない気がする」
「ふうん」
副委員長の話をそのときは「そんなものかな」という感じで聞いていた彼女だったが、なんとなしに彼の方を見ると、確かに彼は「油断も隙もない」ような気がするのだった。それも神経を張り詰めているとか、緊張しているというよりはむしろ…―――
(観察している…?)
緊張しているときというのは、むしろ意識は内側にあって防御している状態であり、そういうときというのは何処から攻撃がくるか分からないという意識から、どんなに努力していても隙が出来てしまう。しかし彼の場合は“こっちを観察”しているわけだから、防御的というよりは攻撃的であり、ともすればこちらに対して真正面から見据えてくるような、そんな気圧を相手に与えるのかもしれない。怯えて身体を縮みこませているよりは、真っ直ぐこちらを見つめられている方が威圧的に感じる。しかも向こうはただ見つめているだけなので、こちらはどうしたらいいのか反応に困る。向かってきていたり、実際に何らかのアクションを起こしているならば対応こそ可能というものだが、ただこちらをじっと見つめて何かの反応を待っているような姿でいられると、どうしても次の行動に支障が出るのだ。
人間というのは他者によって規定されている部分があるが、言うなれば彼の場合、その規定を徹底的に牽制しているとも言えた。「お前に俺の何が見えるんだ」とでも問いかけているようで、その他者に対する姿勢や態度が、彼を“怖い”と感じさせる理由なのだった。
今もまた彼は何の遠慮もなく、しかし馴れ馴れしいという感じもなく、平然と彼女に接触をしてきた。決して他者を畏れているわけではなく、行動は普通そのもので気軽に話しかければ気軽に答え、つるんでくればじゃれ返し、人並みに話したり相槌を打ったりはするが―――そのことごとくに彼がどこか線を引いてるような印象を感じずにはいられないのだった。
(今もまた、こうやってじーっと私の事を見つめてる…)
それは五月姫に見られているときのようなドキドキする感じとはまた別の、人を不安にするような視線だ。
「シャベル」
「あっ、ごめん」
徐々に警戒心を強めていた彼女は、突如手を出された事の意味に最初は気付けなかった。慌てて手に持っていたシャベルを渡すと、彼はそれを横の水道で洗い出す。
横には同じように洗い待ちと見受ける雑多な用具が無造作に置かれている。見れば彼は清掃用の軍手をしていて、今まさに何か作業を終えてきたところだったらしい。
「ただの掃除だよ。センコーに頼まれたんで、旧校舎の周りを掃除してたんだ」
これで課外活動項目の単位もらえるんだぜ、と彼は続ける。しかしどうにも軽薄さと気だるさを思わせるような表情や態度が、どうしても積極的で利他的な良い生徒、という感想を持ちづらくしている。
それでも彼女は少し彼の意外な一面を見たような気がして、ただ「へえぇ…」と頷く。やはりどうしても彼は、冗談ですらそういう事をしそうな人間には見えないのだ。
(あ、そうだ…)
少し気持ちが緩くなった彼女は、ちょっとした思い付きで彼に聞いてみることにした。
「植物を育てるときってさ、どんな土を使うのかなあ?」
彼氏が「ん?」という表情をした。その表情がとても人間的で、普段「怖い」とか言われているような人間のそれとは思えなかったので、彼女はどこか安心してしまったのだ。
それに彼女はとても気分が良く、浮かれていた。
「俺は専攻じゃねえけど、そういうのって育てるものによるんじゃねえの。大抵は赤いのと軽石かなんかと腐葉土を混ぜたヤツだとは思うが」
だからそのとき口が“滑って”しまったのは仕方ないと言えたし、彼女はそのとき聡雅に話すのが流れとして自然に思えたのだ。
「何を育てんの?」
「地球外生命体」
「…はあ?」
文字通り“ぽかん”だ。
流生はおかしくなってしまう。
(全然怖くなんかないじゃん!)
「へへへ、意味分かんないでしょ」
「さっぱり分からん…それはなんかの例えなのか?」
あまりに真面目な顔をして聞いてくるもので、彼女はこそばゆくなってしまう。下手に笑われたり「馬鹿にしてんのか?」と怒られるよりも、大真面目な態度を取られる事の方がある意味でやりづらい。
「見してあげよっか?」
「おう」
窺うように目線を送ると、興味が湧いたのか彼が近づいてくる。
「でも内緒だよ」
「…何で?」
「なんでも!」
流生の瞳が細められたのを少し首を傾げるようにして聡雅は見たが、それでも黙って頷く。
「ふーん…了解」
あっさり根を上げて流生のペースに乗ってくる。深く追求する事も無い。
満足したように頷いた彼女はごそごそと通学鞄の中を漁り、いつの間にか奥の方へと潜り込んでしまった“種”を取り出す。
「ほら!地球外生命体!」
目の前に差し出してやる。一瞬聡雅は目を丸くしたが―――滅多に開かない瞼が一瞬ぱっちり開いたのを彼女はしかと見た―――すぐにいつもの表情に戻る。
「…」
「…」
彼氏の反応が薄いため、すこし彼女は拍子抜けする。
「…?」
「なによ、なんか言いたい事でもあんの」
時間にして十数秒。短いが気持ちが“ハイ”な彼女にはあまりに長い時間―――沈黙が流れて、流生の方がたまらず口を開いた。
彼氏は申し訳なさそうに言葉を返す。
「つまりこれがお前が育てたい“地球外生命体”?」
「そうよ」
「…ふーん」
「なにそれ、せっかく人が見せてあげたのに…」
流生はむっとしてしまう。
「つまんない男ね」
「いやなんつーか、身も蓋もなさ過ぎて驚く暇もなかったっつーか」
聡雅は後頭部をがりがり掻きながら困ったような顔をする。
「造り物とかじゃなくて?」
「違うもん!ほら、触ってみなよ」
ずい、と差し出された“種”を、やや疑り深い目で見つめて受け取る聡雅。
「うぉおおおっ?」
受け取った瞬間びくっと種が奮え、聡雅は慌てて流生に種を押し返す。
「ほらね?」
にんまりした流生の顔を、苦りきった顔で見つめながら聡雅は渋々といった表情で言う。
「それ、生きてんのか?」
「そりゃそうでしょ。もっかい触る?」
「いいよ…別に」
「もしかして遠慮してんの?」
おかしそうに流生は笑って種を鞄にしまう。
「気味悪いな…本当に育てるのかよ」
冷や汗を流しているかのような顔で聡雅は鞄の方を覗いてくる。
「そのために堆肥取りにきたんだもん」
ゴム製の大きな植木鉢を突き出す。四分の一くらいの空間を堆肥が占めている。
「植物って保障がないだろ」
「植物じゃなかったら何なのよ」
「卵の可能性だってある」
間髪入れずに返されて、はっとする。
(それは盲点だった…)
「それは盲点だった、って顔してんなぁ」
ずばり言い当てられて流生は首を縮ませる。
「でも見た目はどう考えたって種じゃない」
「種は動いたりしねえだろ」
うっ、と言葉に詰まる。彼女が最初に触れたときは動いたりしなかったのだが…。
しかし卵なのだと考えれば、彼女が触れたときにぬくもりを感じた事にも説明がつく。
「で、でもそれはあくまで地球の種の話でしょ」
「まあたしかにそうだが?」
今度は聡雅が黙る番だった。だがその沈黙はある種の意図を含んでいるものであることに、彼女も気付いた。
「わ、分かってるわよ…全然反論になってない…」
ならば、あくまで地球の卵が種のような形をしてないだけ、という話にもなる。
「そっか…種じゃなくて卵の可能性もあるのね」
「まあどっちでも大差ないんだけどな」
「なっ!?」
じっと鞄を見つめて悩みだした流生に、あっけらかんとして聡雅が言う。
「卵か種かなんて分かりっこないんだから。ならとりあえず種って事にして、植木鉢に埋めときゃいいんじゃねえの」
「あ、あんたってなんか…」
流生の中ではしっくりこない。半ば本気で吟味をしかけていた矢先なのだ。無駄に悩んだ事が馬鹿みたいに思えてくる。
「じゃあ最初からそういう事言わないでよ…」
彼女が煮え切らない思いをそのままぶつけると、聡雅はまたしても例の「ん?」という顔をする。
「ああ…悪かった」
「そんなにさっくり謝ることないじゃん」
あまりにあっさり謝るので逆に指摘したくなる。
「謝られて怒るか普通」
「むかつくなぁ」
ぷりぷりしている流生をじっと見て、聡雅は苦笑する。
「普通そういうときは理屈のない自分の感情の方を疑うもんだがな、あんたは随分と自信満々に生きてるようだ」
「言ってる事がサッパリ意味分からんのですけど」
先ほどとは逆に、今度は流生がぽかん、とする。
だがこれについては聡雅の方は深く説明する気はないようで、彼は笑いながら黙って流生に背を向ける。
「ちょっと?」
唐突に話を切られて不満げに立ち上がった彼女に、聡雅は親指でついてこい、とジェスチャーで示す。
「土、いるんだろ。来いよ」
むくれたまま、彼女はいつの間にか鼻に馴染んでいた堆肥の匂いのする扉をぱたんと閉め、来たときよりも格段に重くなった植木鉢をよたよたと持ってついていくしかなかったのだった。